表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/58

第二十四話 香術師の講義

──異国の風が吹き抜ける夜明けの長崎。

その奥底に潜む“芯を壊す者”の気配が、静かに濃くなっていた。




「“綾”の芯が、固定されつつあります。あれでは、写し香では覆せません」


焚かれた香の奥、闇に沈む帳の間。

黒幕の男──“香術師”は、目を閉じたまま応じた。


「……だから、今が“揺らしどき”だ」


「しかし……!」


「いいか。教えてやろう」


男はゆるやかに立ち上がると、弟子たちを見渡した。


「“芯”とは、記憶の“中核記号”のことだ。

人の記憶は断片の集積だが、その全体像を束ねる“核”がある。

名、香、声、感触……“私は私だ”と認識する“心の焦点”だ」


弟子の一人が口を開く。


「それをどう“壊す”のです?」


「壊すのではない。“錯覚させる”のだ。

たとえば、子が母の香を思い出す──桜の香。

だが、それとそっくりな香に“毒香”を混ぜて焚けばどうなる?」


ざわり、と弟子たちの背に寒気が走る。


「“懐かしい香”が、いつの間にか“怖い記憶”へとすり替わる。

そうして“私はこうだった”という芯が揺らぎ、別の香で再定義される。

これが“芯揺らし”だ」


弟子たちは息を呑んだ。


影の綾は、遠巻きにその話を聞いていた。


(……香って、そんなふうにも使えるの?

あの綾が、いつか“私の記憶”を信じるようになったら……)


男の目が、ゆっくりと影の綾へと向く。


「──お前の芯も、今から“お前のもの”にしてやる。

香で生まれた存在は、香で芯を持てば、それで“本物”だ」


影の綾の胸に、小さな混乱と熱が灯っていた。




その頃、綾と志岐は、長崎の南外れにある廃寺を訪れていた。

香の密売に使われていた、という噂を追ってのことだった。


「……ここにも“蘭香流”の残り香がある」


綾は、崩れた柱の根元に鼻を近づけた。

甘い白檀と、柑橘の腐香──記憶誘起香の残り香。


「最近まで使われていた形跡がある」


志岐が足元に残された火皿を拾い上げる。


「この調香……異常に精密だ。芯に直撃させる配合だな」


「“蘭香流”の術者が近くにいるってこと?」


「いや──あいつらは、俺たちを誘ってる」


志岐の目がわずかに鋭くなる。


「“芯を持つ者”を観察してる。

どう壊れるか、どう揺らぐか、知るためにな」


綾は、しっかりと香袋を胸に抱いた。


「……芯は、壊させない。絶対に」




その夜。出島の裏手。

小さな舟宿の物陰に、影の綾がひとり佇んでいた。


懐には、自分の調香帳。

真似して書かされた“綾の香帳”とは違う、自分だけのもの。


(……わたしの芯って、なんだろう)


開いた頁に記されたのは、失敗の連続。

でも──最後の頁には、たった一行だけ。


『わたしは、わたしになりたい。』


その言葉を見た瞬間、彼女の香袋が微かに香った。


それは、初めて“自分で選んだ香”の、やさしい香りだった。


影の綾はそっと呟いた。


「わたしは“写し”じゃない。

誰でもない、“私”として、香を選びたい」


だがその背後に、黒い影が忍び寄っていた。


「──まだ“芯”が不安定だな」


香術師の声が、暗闇の中に滲んだ。


「ならば“本物”を壊すしかあるまい。

綾──お前の“芯”を奪わせてもらう」


──夜の長崎に、またひとつの香の火が灯った。


第二十四話・了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ