第二十四話 香術師の講義
──異国の風が吹き抜ける夜明けの長崎。
その奥底に潜む“芯を壊す者”の気配が、静かに濃くなっていた。
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一
「“綾”の芯が、固定されつつあります。あれでは、写し香では覆せません」
焚かれた香の奥、闇に沈む帳の間。
黒幕の男──“香術師”は、目を閉じたまま応じた。
「……だから、今が“揺らしどき”だ」
「しかし……!」
「いいか。教えてやろう」
男はゆるやかに立ち上がると、弟子たちを見渡した。
「“芯”とは、記憶の“中核記号”のことだ。
人の記憶は断片の集積だが、その全体像を束ねる“核”がある。
名、香、声、感触……“私は私だ”と認識する“心の焦点”だ」
弟子の一人が口を開く。
「それをどう“壊す”のです?」
「壊すのではない。“錯覚させる”のだ。
たとえば、子が母の香を思い出す──桜の香。
だが、それとそっくりな香に“毒香”を混ぜて焚けばどうなる?」
ざわり、と弟子たちの背に寒気が走る。
「“懐かしい香”が、いつの間にか“怖い記憶”へとすり替わる。
そうして“私はこうだった”という芯が揺らぎ、別の香で再定義される。
これが“芯揺らし”だ」
弟子たちは息を呑んだ。
影の綾は、遠巻きにその話を聞いていた。
(……香って、そんなふうにも使えるの?
あの綾が、いつか“私の記憶”を信じるようになったら……)
男の目が、ゆっくりと影の綾へと向く。
「──お前の芯も、今から“お前のもの”にしてやる。
香で生まれた存在は、香で芯を持てば、それで“本物”だ」
影の綾の胸に、小さな混乱と熱が灯っていた。
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二
その頃、綾と志岐は、長崎の南外れにある廃寺を訪れていた。
香の密売に使われていた、という噂を追ってのことだった。
「……ここにも“蘭香流”の残り香がある」
綾は、崩れた柱の根元に鼻を近づけた。
甘い白檀と、柑橘の腐香──記憶誘起香の残り香。
「最近まで使われていた形跡がある」
志岐が足元に残された火皿を拾い上げる。
「この調香……異常に精密だ。芯に直撃させる配合だな」
「“蘭香流”の術者が近くにいるってこと?」
「いや──あいつらは、俺たちを誘ってる」
志岐の目がわずかに鋭くなる。
「“芯を持つ者”を観察してる。
どう壊れるか、どう揺らぐか、知るためにな」
綾は、しっかりと香袋を胸に抱いた。
「……芯は、壊させない。絶対に」
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三
その夜。出島の裏手。
小さな舟宿の物陰に、影の綾がひとり佇んでいた。
懐には、自分の調香帳。
真似して書かされた“綾の香帳”とは違う、自分だけのもの。
(……わたしの芯って、なんだろう)
開いた頁に記されたのは、失敗の連続。
でも──最後の頁には、たった一行だけ。
『わたしは、わたしになりたい。』
その言葉を見た瞬間、彼女の香袋が微かに香った。
それは、初めて“自分で選んだ香”の、やさしい香りだった。
影の綾はそっと呟いた。
「わたしは“写し”じゃない。
誰でもない、“私”として、香を選びたい」
だがその背後に、黒い影が忍び寄っていた。
「──まだ“芯”が不安定だな」
香術師の声が、暗闇の中に滲んだ。
「ならば“本物”を壊すしかあるまい。
綾──お前の“芯”を奪わせてもらう」
──夜の長崎に、またひとつの香の火が灯った。
第二十四話・了




