第十九話 「香を守る者」
一
その夜。
長崎の空は黒く、風は西から吹いていた。
綾は灯りを落とし、ひとり香を焚いていた。
白檀、蜜皮、桜──自分の香。
けれど今は、どこか“不安定”に揺れているような気がしてならなかった。
──その香を、誰かが写し取ろうとしている。
それはもう、「模倣」の域ではない。
“私”という存在ごと、奪おうとしている。
(私は、母の香を継いだ。父の知恵を受け取った。
でも、“香の綾”という名だけが、ひとり歩きしている)
綾は静かに香帳を開いた。
香りは“心と重なるもの”。模倣されてはいけない。
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二
「……この香、江戸にはねぇ成分が混ざってる」
翌朝。
港の裏手、小さな薬香屋に立ち寄った志岐は、茶碗に注がれた黒い煎じ湯を見つめていた。
漂うのは“竜脳”と“西樹樟”──脳神経に作用する強い香。
「お前、本当に香に詳しいのな」
隣にいた薬香屋の老人が、感心したように言った。
志岐はふと、海の向こうを眺めながら言った。
「昔、死にかけたことがある。
声も出ず、手も動かず──それでも、香だけは鼻に残った」
「……香だけが、身体の中に生きていたってことかい?」
「そのとき、知ったんだ。
命の入り口は“鼻”にもある。
香は“感じる薬”であり、“選ばされる記憶”でもある」
老人は頷きながら、そっと志岐の茶碗にもう一杯を注いだ。
「……あんた、浪人には見えねぇな」
志岐は、ただ一言。
「旅人さ。“香を止める”旅をしてるだけだ」
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三
市場裏の一角に、古びた施療所があった。
人の列ができ、時折うめき声が中から漏れ出る。
綾は香材の包みを抱えたまま、入口で立ち止まった。
木戸の隙間からは、苦しげな咳と薬湯の匂いが混ざった空気が流れてくる。
ひときわ強い咳に目をやると、白髪の老女が布団にくるまれて喘いでいた。
呼吸音が浅く、肩が激しく上下している。
(喉じゃない……これは、肺の奥。炎症が進んでる)
「……これ、香で……」
綾は思わずしゃがみこみ、香袋に手を伸ばした。
「こら、触るな! ここは素人が出入りする場所じゃない!」
鋭い声に綾が顔を上げると、中から出てきた医師が腕を掴んだ。
「勝手な処置で容態が悪化したらどうする気だ!」
「でも、いまは呼吸が……」
綾の言葉を遮るように、志岐が奥から静かに歩み寄ってきた。
「止めろ。その者の判断は、江戸の施療所でも通用する」
「……え?」
「“香”で治す。お前さんたちは信じないかもしれねぇが、
こいつは“目で見る前に、香で診る”んだ」
医師は困惑したように視線を揺らすが、志岐の声には妙な説得力があった。
「……試す価値があるなら、止めはせん。だが、責任は──」
「俺が持つ」
それだけ言い残し、志岐は後ろへ退いた。
綾は、深く息を整えて香袋を開く。
取り出したのは、干した柚皮と皮香。
それを小さな火鉢に乗せ、布をかぶせて蒸気を集める。
「これを吸ってください。香の蒸気が、喉と肺を緩めてくれます」
老女の唇が布に触れる。数度、むせ返りながらも、次第に咳の間隔が落ち着いていった。
医師はじっと様子を見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「……香で咳を止めた……?」
綾は香袋を閉じ、頭を下げる。
「香は、“ただの匂い”じゃありません。
心と身体が結びつくところに、働きかけるんです」
志岐はその横顔を静かに見つめていた。
何も言わず、ただ綾の一歩前に立つような立ち位置を守る。
(……やっぱり、志岐は“前に出ない将”だ)
綾は、少しだけ志岐を見上げた。
だが彼はすぐに目を逸らし、無言で歩き出す。
(……でも、ずっと私を見ていた。香で、ちゃんと)
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四
その日の午後。
綾が香材を抱えて宿へ戻る道すがら──
空気が変わった。
背後に、香の気配。
……桜と蜜皮。だが微かに混じる“違和感”。
「また、あなた?」
石畳の路地。
現れたのは、あの少女だった。
顔も、声も、仕草も──すべて“綾”そのもの。
だが、綾は静かに告げた。
「その香……やっぱり少し、違う」
少女は、無表情のまま、ほんのわずかに口元を動かした。
「あなたにならなきゃ、私は意味がないの」
「意味……?」
「“器”に意味はない。香を通すためにあるだけ。
でも、あなたは“芯”を持っている。それが──邪魔なのよ」
「……誰に言わされてるの?」
影の綾は答えなかった。
けれど、その目は、わずかに揺れていた。
(この子……本当に、心を持っていないの?)
綾の胸の香袋が、かすかに揺れた。
「香は、誰かの命令じゃ作れない。
“香の綾”は、名じゃない。想いの積み重ねなの」
影の綾の口元が、ふと強張った。
「わたしは、“綾”になるために、記憶を入れられたのよ。
笑い方も、声も、泣き方も、全部──でも……」
そこまで言って、少女は言葉を飲み込む。
そして、逃げるように人混みに紛れていった。
綾はその背に、そっと呟いた。
「……じゃあ、あなたは“あなた”の香を探して」
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四
その夜。
異人屋敷の奥、黒衣の男たちが図面を広げていた。
「“芯の香”が分裂を始めた。影の綾が“揺れている”」
「ならば、強制的にすり替えろ。
記憶香を重ね、仕上げに“真綾”を封じ込める」
「志岐という浪人は?」
「……障害だ。だが、将軍の名を持たぬ限り、“処理”は可能」
月明かりの中で、黒い香がひとつ、焚かれていた。
白檀に近いが、芯が潰れたような甘さ──それは、心を狂わせる香だった。




