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第十九話 「香を守る者」

その夜。

長崎の空は黒く、風は西から吹いていた。

綾は灯りを落とし、ひとり香を焚いていた。


白檀、蜜皮、桜──自分の香。

けれど今は、どこか“不安定”に揺れているような気がしてならなかった。


──その香を、誰かが写し取ろうとしている。

それはもう、「模倣」の域ではない。

“私”という存在ごと、奪おうとしている。


(私は、母の香を継いだ。父の知恵を受け取った。

でも、“香の綾”という名だけが、ひとり歩きしている)


綾は静かに香帳を開いた。

香りは“心と重なるもの”。模倣されてはいけない。




「……この香、江戸にはねぇ成分が混ざってる」


翌朝。

港の裏手、小さな薬香屋に立ち寄った志岐は、茶碗に注がれた黒い煎じ湯を見つめていた。

漂うのは“竜脳”と“西樹樟”──脳神経に作用する強い香。


「お前、本当に香に詳しいのな」


隣にいた薬香屋の老人が、感心したように言った。


志岐はふと、海の向こうを眺めながら言った。


「昔、死にかけたことがある。

声も出ず、手も動かず──それでも、香だけは鼻に残った」


「……香だけが、身体の中に生きていたってことかい?」


「そのとき、知ったんだ。

命の入り口は“鼻”にもある。

香は“感じる薬”であり、“選ばされる記憶”でもある」


老人は頷きながら、そっと志岐の茶碗にもう一杯を注いだ。


「……あんた、浪人には見えねぇな」


志岐は、ただ一言。


「旅人さ。“香を止める”旅をしてるだけだ」




市場裏の一角に、古びた施療所があった。

人の列ができ、時折うめき声が中から漏れ出る。


綾は香材の包みを抱えたまま、入口で立ち止まった。

木戸の隙間からは、苦しげな咳と薬湯の匂いが混ざった空気が流れてくる。


ひときわ強い咳に目をやると、白髪の老女が布団にくるまれて喘いでいた。

呼吸音が浅く、肩が激しく上下している。


(喉じゃない……これは、肺の奥。炎症が進んでる)


「……これ、香で……」

綾は思わずしゃがみこみ、香袋に手を伸ばした。


「こら、触るな! ここは素人が出入りする場所じゃない!」


鋭い声に綾が顔を上げると、中から出てきた医師が腕を掴んだ。


「勝手な処置で容態が悪化したらどうする気だ!」


「でも、いまは呼吸が……」


綾の言葉を遮るように、志岐が奥から静かに歩み寄ってきた。


「止めろ。その者の判断は、江戸の施療所でも通用する」


「……え?」


「“香”で治す。お前さんたちは信じないかもしれねぇが、

こいつは“目で見る前に、香で診る”んだ」


医師は困惑したように視線を揺らすが、志岐の声には妙な説得力があった。


「……試す価値があるなら、止めはせん。だが、責任は──」


「俺が持つ」


それだけ言い残し、志岐は後ろへ退いた。


綾は、深く息を整えて香袋を開く。

取り出したのは、干した柚皮と皮香かわごう

それを小さな火鉢に乗せ、布をかぶせて蒸気を集める。


「これを吸ってください。香の蒸気が、喉と肺を緩めてくれます」


老女の唇が布に触れる。数度、むせ返りながらも、次第に咳の間隔が落ち着いていった。


医師はじっと様子を見つめていたが、やがて小さく呟いた。


「……香で咳を止めた……?」


綾は香袋を閉じ、頭を下げる。


「香は、“ただの匂い”じゃありません。

心と身体が結びつくところに、働きかけるんです」


志岐はその横顔を静かに見つめていた。

何も言わず、ただ綾の一歩前に立つような立ち位置を守る。


(……やっぱり、志岐は“前に出ない将”だ)


綾は、少しだけ志岐を見上げた。

だが彼はすぐに目を逸らし、無言で歩き出す。


(……でも、ずっと私を見ていた。香で、ちゃんと)


______


その日の午後。

綾が香材を抱えて宿へ戻る道すがら──

空気が変わった。


背後に、香の気配。


……桜と蜜皮。だが微かに混じる“違和感”。


「また、あなた?」


石畳の路地。

現れたのは、あの少女だった。

顔も、声も、仕草も──すべて“綾”そのもの。


だが、綾は静かに告げた。


「その香……やっぱり少し、違う」


少女は、無表情のまま、ほんのわずかに口元を動かした。


「あなたにならなきゃ、私は意味がないの」


「意味……?」


「“器”に意味はない。香を通すためにあるだけ。

でも、あなたは“芯”を持っている。それが──邪魔なのよ」


「……誰に言わされてるの?」


影の綾は答えなかった。

けれど、その目は、わずかに揺れていた。


(この子……本当に、心を持っていないの?)


綾の胸の香袋が、かすかに揺れた。


「香は、誰かの命令じゃ作れない。

“香の綾”は、名じゃない。想いの積み重ねなの」


影の綾の口元が、ふと強張った。


「わたしは、“綾”になるために、記憶を入れられたのよ。

笑い方も、声も、泣き方も、全部──でも……」


そこまで言って、少女は言葉を飲み込む。

そして、逃げるように人混みに紛れていった。


綾はその背に、そっと呟いた。


「……じゃあ、あなたは“あなた”の香を探して」




その夜。

異人屋敷の奥、黒衣の男たちが図面を広げていた。


「“芯の香”が分裂を始めた。影の綾が“揺れている”」


「ならば、強制的にすり替えろ。

記憶香を重ね、仕上げに“真綾”を封じ込める」


「志岐という浪人は?」


「……障害だ。だが、将軍の名を持たぬ限り、“処理”は可能」


月明かりの中で、黒い香がひとつ、焚かれていた。

白檀に近いが、芯が潰れたような甘さ──それは、心を狂わせる香だった。

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