第十六話 「血を継ぐ者」
一
春霞の残る朝。
綾は香室に並べた香材を、ひとつひとつ指でなぞっていた。
「……この町じゃ、もう手に入らない香もあるわね」
父の手紙の中に記された調香式──そこに使われていた香材のひとつが、江戸ではもう流通していなかった。
「産地は……長崎。海を越えた香──」
その名を口に出した瞬間、背後で志岐が応じた。
「ちょうど船を手配していたところだ。三日後、南の海路から出る便がある」
綾は驚いたように眉を上げた。
「……まさか、また“偶然”?」
「いいや、“予感”だ」
志岐は淡く笑う。
「お前がその香に手を伸ばしたとき、きっと長崎に行きたいと言うと思った。……だから俺は先に準備しておいた」
綾は、しばらく何も言えずにいた。
(ほんとうに、この人は……いつだって一歩だけ、私より先を歩いている)
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二
旅支度の合間。
綾は母の香袋をそっと取り出し、ひざの上に置いた。
その中に詰めたのは、父の記憶を開いた桜香の欠片。
そして、自らが調香した「まだ名のない香」。
「……母様。あなたの香に、私はもう追いついた?」
問いに応える声はない。けれど、香の奥から微かに懐かしい気配が漂う。
そのとき、背後で志岐が言った。
「お前の香は、もう誰のものでもない。……綾の香だ」
振り返ると、志岐が香棚の前でじっと綾を見ていた。
「そして、お前の香を狙う奴が、これからもっと現れる。香だけじゃない。“名”も、“記憶”も」
綾はゆっくりと頷いた。
「わたし、逃げない。たとえ母の過去にどんな真実があっても、知りたい」
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三
その夜。
町の外れ、小さな香師の庵の奥。
香炉の煙の中で、ひとりの少女が微笑んでいた。
──綾と瓜二つの顔。
ただ、その目は空のように澄んでいて、どこまでも冷たい。
「……ついに“本物”が動くのね」
黒衣の男がひざまずく。
「“香の綾”が長崎へ向かいます。継承者の記録も動き出しました。
──次に会えば、きっとふたりは、記憶で繋がる」
少女は言った。
「記憶は奪える。香を通せば、わたしは“あの子”にもなれるわ」
香炉の煙が、静かに天井へと昇っていった。
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四
夜更け、志岐はひとり、屋敷裏の裏門をくぐっていた。
出迎えたのは、武家の礼を帯びた中年の男。
「──御前様。綾殿をお連れになるのですか?」
「……連れていく、とは言っていない。あいつが“香を選んだ”だけだ」
「ですが、綾殿が“本物”なら、将軍家の血が交わる可能性が──」
「だから俺は、全部終わらせる。公儀が動く前に」
男は目を伏せる。
「──御前様、なぜそこまで“香の綾”に肩入れを?」
「肩入れじゃない。“判断”だ。あの子が香の道を選んだ。それだけだ」
「しかし、公儀に身を晒せば、“御身”そのものが明るみに──」
志岐の目がわずかに光った。
「……それでも、俺は“この名”よりも、“あの子”を守る」
「……ご自覚を」
男は深々と頭を下げた。
「──我らは、上様の剣でございます」
志岐の背に、闇がまとわりつくようだった。
(父上……。俺は、あの子をただ守る者ではない。
この香に、“決着”をつける者として──)
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五
三日後の朝。
綾は香包みを懐に収め、母の香袋を胸に縫い付けた。
小舟が港を離れる。
春の風が潮の香を運び、綾の髪が揺れる。
「志岐。あなたって……いったい、誰?」
志岐はその問いに答えなかった。
ただ、静かに目を細めたまま、波の向こうを見つめていた。
──そのとき。
綾の胸元で、香袋がふわりと揺れた。
“遠くの誰か”が、まるで同じ香を焚いたかのように──。




