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第一話 花咲く病(後編)

香袋を手にしたまま、志岐は鼻を鳴らした。


「これは、ただの香ではないな。阿片が練り込まれてる」


「焚いて使うなら煙で吸引、直接持ち歩けば、皮膚と呼吸器からの吸収ね。……この村の若者たち、香袋を肌身離さず持っていたって?」


「お守りがわりだそうだ。噂によると、ある旅商人が“元気になる香り”として売り歩いていたらしい」


綾は膝をついたまま、草むらに目を落とす。そこに落ちていたのは、小さな丸薬のようなもの。


「……この表面の光沢……蜜蝋だわ」


指で押しつぶし、中から出てきたものを布で包み、手拭いに巻いて懐に収める。


「村の温泉源の近くに朱砂が採れる岩場があるって聞いたわね。案内して」


志岐は眉をひそめた。


「朱砂? 水銀系の鉱物だろ、それは毒じゃ……」


「毒よ。でも、使い方次第で薬になる。——今使わなければ、この村は全滅する」


綾は立ち上がり、前髪の隙間から志岐を見上げた。


「馬、乗れる?」


「ああ……たぶん。蹴られなければ」


「……不安ね」


「うっ……」


志岐はちょっとむくれた顔をして、そっと馬の背を撫でた。「よーしよし……おまえは俺を蹴らないよな、な?」


見ていた村の子どもがくすくすと笑った。


──岩場の多い坂道。


「……いってぇ……」


志岐が脇腹を押さえ、草むらに腰を下ろす。すぐそばでは、馬がしれっと草を食んでいた。


綾はその隣で、袖を引っ張られた肩をさすりながら、呆れ顔。


「……わたしも巻き込まれて転んだんだけど。なんで私まで痛い思いするのよ」


「俺を止めなかったお前が悪い」


「は!? 蹴られた直後にこっちに倒れてくるとか聞いてないんだけど!」


「芯の通った落ち方だった」


「意味わかんない事言うのやめて!もういい! 」


ふたりとも泥だらけ。だけど、男はどこか笑っていた。

(治療のために早く行かねばならないのに。)


──


二人は山道を抜け、鉱石の出る岩場へ向かう。


手ぬぐいで顔を覆いながら、綾が地面にしゃがみ込んだ。


「……この赤い石。朱砂に間違いないわ。あとは、すり潰して、煎じて、軟膏に……」


志岐は後ろで腕を組んだまま、うんうんと頷いていた。


「なるほどな……」


「わかってないでしょ」


「バレたか」


「半分くらい顔に書いてあったわよ」


彼の表情が緩む。さっきまでの浪人然とした鋭さが、ふと消える。綾は少しだけ口元を緩めた。


「……“たぶん乗れる”のに、馬に話しかけてる時点で、なんかおかしいとは思ったけど」


「馬って話せばわかる生き物じゃないのか?」


「……そんな浪人、初めて見たわ」



村に戻った綾は、すぐに治療の準備を始めた。


薬籠から煎じ薬と蜜蝋、麻の布を取り出し、粉末状に砕いた朱砂を混ぜ合わせる。


「麻布を冷やして、塗布薬を包んで患部に当てる。炎症の沈静と、局所的な殺菌効果が期待できるわ」


村人たちはおそるおそる覗き込むが、綾の手際の良さに口出しする者はいなかった。


志岐はその後ろで静かに立ち、周囲を見張っていた。目は、村の端に見えたひとりの男に向けられていた。


「……やはり、あの男がこの香袋を売っていた張本人らしい」


「捕まえられる?」


「いちおう、これでも腕は立つつもりでね」


男が逃げ出す前に、志岐が一気に距離を詰めて組み伏せた。


「薬売りのふりして、阿片入りの香袋をばらまくとは。どこの差し金だ」


「し、知らねえよ! オランダ商人から仕入れただけだ……あっちは長崎だ、わたしはただ……!」


綾はその言葉に反応し、顔を上げた。


「長崎の商人……」


志岐が押さえたまま顔を上げる。


「思い当たる節が?」


「……父の昔の診療録にあった。“匂い袋に薬を練り込む異国の術”——それが、母が消えた年と重なる」


風が吹いた。綾の髪がわずかにめくれ、その奥の目元が露になる。


志岐が、ふと息を呑んだ。


——この娘、ただの医者じゃない。

この目は、真実を見ようとする目だ。


そして、その“真実”に関わる者として、彼自身もまた、嘘の皮を被っている。



夜、治療を受けた患者たちは少しずつ快方に向かい始めていた。


朱砂の軟膏は、少量ずつの塗布と冷却により、毒性を抑えて効果を発揮した。

綾は手ぬぐいで汗を拭きながら、志岐の隣に腰を下ろした。


「……もう少し、続ければ助かるわ。運が良ければ、後遺症も抑えられるかもしれない」


「すごいな」


「なにが?」


「おれは刀で命を断つことはできても、救う手立てはない。おまえは、指先ひとつで生き死にを変えられる」


綾は少し考えてから、ぽつりと返す。


「……でも、わたしの手は“何も守れなかった”手でもあるの」


志岐が目を伏せる。その横顔に、少しだけ影が差した。


——あのとき、守れなかった人がいる。


ふたりは言葉を交わさず、焚き火の音だけが静かに続いた。


そして、夜の終わりに——

志岐はふと、香袋を取り出して呟く。


「この匂い、やっぱり……どこかで、嗅いだことがある気がするんだよな」


綾の手が、無意識に帯の内を握りしめた。


それは、かつて母が綾に渡したものと、まったく同じ香りだった。


——かすかに残る“母の気配”。


それは、この先ふたりが辿る道に、深く関わっていくことになる。



《第一話 花咲く病——完》


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