第十四話 記憶をなぞる香(後編)
翌日。再び町へ出た綾は、春祭りの余韻が残る中、昨日と同じ香りを嗅ぎつけた。
群衆の隙間に立つ一人の女。その袖口に見えたのは、あの香袋。
「……それ、どこで手に入れたの?」
綾の声は静かだったが、その瞳は女の袖口に揺れる香袋を鋭く捉えていた。
女は一瞬だけ怯え、すぐに愛想笑いを浮かべる。
「やだわ、そんな目。真似しただけよ。“香の綾”って、最近よく耳にするから。ちょっと憧れただけ」
志岐が一歩前に出た。
目元に浮かぶのは、いつもの無表情……に似せた冷ややかな警戒。
「真似事で記憶を壊すような真似、よくも軽々しくできたな」
女の顔がピクリと動いた。だが、返事はない。
そのまま踵を返し、人混みにまぎれるように姿を消す。
綾は一瞬ためらったが、香の残り香に導かれるように足を踏み出した。
(逃がすわけにはいかない)
白檀に似た甘やかな香。
だが綾の鼻は、その奥に微かな“違和”を感じ取っていた。
──これは、母の香りじゃない。
綾は人混みの中へと飛び込んでいった。
女の姿は見えない。
それでも、香りだけは、確かに前方へと伸びていた。
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路地裏の風が、さやさやと吹き抜ける。
綾は、逃げた女の残した香りを思い返していた。
(白檀に似ていた。でも……あれは何かが違った)
すれ違いざまに、布の端に残っていた香。
手のひらで押さえると、そこにかすかに染みついた香気があった。
(あれは……何の香り?)
綾は、近くの香草商を訪ね歩き、残り香を嗅がせて回った。
すると一人の老人が、ぴたりと動きを止めて言った。
「これは“烏樟”じゃな。白檀と似とるが、こっちは毒だ」
「毒……?」
「強い芳香成分があっての。感情と記憶を混線させる。笑うてても、中身は壊れとるような状態になることもある」
綾は、息を呑んだ。
(じゃあ、あの香り……母のものじゃない。もっと、危険な)
その言葉が胸の中でこだまするように、香の気配が遠くで揺れていた。
──
ふいに背後から、気配が近づいた。
「……大丈夫か」
振り返ると、志岐が立っていた。衣の裾に土埃をまとわせ、どうやら走って来たらしい。
「志岐……どうして」
「今朝、茶屋のババアから聞いた。黒ずくめの女が“綾の香袋を真似してる”って。……おまえに何かあると思ってな」
綾は目を伏せたが、そのとき——
志岐がふいに、綾の前髪にそっと手を伸ばした。
「風、強いな。前、見えてるか?」
「え……?」
「昔、言っただろ。……でも、あのときは、ちゃんと見てなかった。今なら──少しは、見えるかもな」
綾の瞳に、志岐の顔が映る。
その目には、かすかに揺れるものが宿っていた。
迷いとも、罪とも、恋ともつかないもの。
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帰り道。春風が吹く夜の坂道で、こたろうが綾の袖を引いた。
「あやちゃん」
「ん?」
「……“しきすき”って、このまえ言ったでしょ?」
「うん。志岐のこと、好きって」
こたろうは首を横に振った。
「うそ。ほんとは──あやちゃんの顔、見て言ったの」
綾はぽかんとした。志岐は少し後ろを歩いていたが、その背がぴくりと反応する。
「……だって、あやちゃん、志岐のこと見るとき、特別な顔してた。だから、言ってみたの。あやちゃんも、ほんとは……」
「こたろう」
志岐が低い声で遮る。
だが、こたろうは真っ直ぐに綾を見上げた。
「ぼく、わかるよ。だれがほんとに笑ってて、だれがほんとは泣いてるか。目で見るの。においじゃなくてね」
綾は胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。
目をそらしたくなかった。だけど、志岐の背中が、そのまま黙って歩き出す。
(……やっぱり、わたし、見られてたんだ)
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「──なぁ、さっきの女、誰に報告すると思う?」
唐突に、志岐がつぶやいた。
「報告……?」
「独断で香を偽るような真似、あの女一人でやってるとは思えねぇ。……誰かが、香の技術を盗もうとしてる」
綾の中で、名前がよぎる。
──“蘭香流”。
母の記憶の中で、かすかに響いていた流派の名。
「もしかして……」
「おそらく、その名前が今、闇で動いてる。蘭香流の“師範”と呼ばれる人物が、弟子候補を探してるって噂もある」
綾は、自分の手の中の香袋を見つめた。
「……母が残した香も、狙われてる?」
志岐は目を細める。
「綾、お前はもうただの娘じゃない。“香の綾”って名が、ひとり歩きし始めてる。利用される前に、自分の香を知れ」
綾は、強くうなずいた。
「うん。わたし、逃げない。ちゃんと、母の香と向き合う」
春の香が、微かに空を撫でた。
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「──あやちゃん」
こたろうが、ぽつりと言った。
「ぼく、大きくなったら、あやちゃんのおよめさんになる!」
「ふふ……ありがとう。でも、それはまだ先のことね」
「じゃあ、それまで待っててね!」
そう言ってこたろうが笑う。志岐はその後ろ姿を見つめながら、小さく笑った。
(……素直でいいな。まっすぐで……羨ましいくらいに)
そして、綾の横顔を見つめる。
風に揺れた髪の隙間から、彼女の目がまっすぐ未来を見ていた。
風の中に、白檀と何かの香りが混じった匂いが消えていった。




