第十二話 香りの檻、名を狙う刃
一
突然誰かが綾の家の戸口を叩いた。
香の実験をしていた綾が慌てて戸を開けると、そこには二週間ほど姿を消した志岐の姿があった。
「明日、春祭りがある。薬草市も出るらしい」
志岐が囲炉裏の火を見つめながらぼそっと言った。
( 来ないと思ったら突然来て、大分自分勝手だな。)
綾は怪訝そうな顔で志岐を眺めた。
(薬草市とは魅力的だ...遠国の香の原料もあるかもしれない。)
「……あんた、ちょっと出てみるか」
「薬草市? うん...いく。春の草って、香りがいちばん立つんだよ」
言動とは裏腹に、綾はぱっと顔を上げて笑った。
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二
春祭りの町は、香と人であふれていた。
その中で、綾は一つの露店に足を止めた。
香原料の山を前にし、自然と手が伸びる。
その指先が選んだのは、青白く乾いた薄荷と、軽やかに崩れる橙皮だった。
「ほう……その手の動き、只者ではないな」
すぐ隣で露店を眺めていた老香師が声をかけてきた。
綾は驚いて顔を伏せたが、香師は目を細めるだけだった。
「名は?」
「……綾です」
前髪で顔を隠したまま、綾は小さく答えた。
「ほう、“香の綾”か……」
老香師はぽつりと呟き、その目がきらりと光った。
そのときだった。
露店の奥にいた弟子らしき若者が、咳き込みながら戻ってきた。
「師匠、すみません……例の草、また合わなくて……」
「またか。身体が冷えすぎると、あの混合香は合わんのだ」
綾はその様子を見て、懐から小さな布包みを出した。
「これ、試してみますか? 体を温める香を軽く煎じたものです。気休めかもしれませんけど……」
老香師は目を細め、それを受け取った。
火鉢の上に布をかざし、湯気を吸い込んだ途端、若者が「あっ……なんか、楽になってきた」と小声で呟いた。
老香師の目が見開かれた。
「この香……本物だぞ。香原料の選びも、組み合わせも、火の通し方も完璧だ……」
彼はその場で立ち上がり、周囲の客たちに向かって声を張った。
「見よ! この娘が煎じた香、ただの素人の業じゃない! この香を“香の綾”と呼ぶにふさわしいぞ!」
「“香の綾”? 聞いたことある!」
「さっきの香師が言ってた娘か?」
人々がざわめき、周囲に人だかりができていった。
綾は顔を赤らめながらも、じっと耐えていた。
(しまった……また、目立ってしまった)
──それが後に、騒ぎの火種となるとは、このときまだ誰も知らなかった。
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三
その晩。
「聞いた? 今日、すごい香りの調合をした娘がいたらしいの。
“香の綾”って名乗ったって」
「弟子を探してる蘭香流の師範も来てるって話よね? もしかして……」
“顔も素性もわからぬまま”
——ただ“香の綾”という名だけが、祭の夜風に乗って街に広まっていった。
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四
祭の喧騒の中、志岐はふと足を止めた。
向こうから歩いてくる女の袖口から、
綾が使う香とよく似た香が流れてくる。
(ん?)
志岐は一瞬、綾が迷って戻ってきたのかと思った。
でも違う。女は綾より背が高く、髪も短い。
それなのに、香りだけがあまりにも似すぎていた。
しかもその女は、通りの反応を確かめるようにゆっくり歩き、
聞こえるようにこう呟いた。
「“香の綾”って、名乗るだけで、みんなが振り返るのね……ふふっ」
志岐の背に、冷たいものが走った。
(……“香”と“名”を、盗ろうとしてやがる)
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五
その夜、綾のもとにはその騒ぎは届いていなかった。
ただ、香の名だけが、遠くでざわついていた。
囲炉裏の火の前、綾は志岐に問いかける。
「今日……変な1日だったね...香の綾なんて。」
志岐は答えず、手元の炭をつついたまま言った。
「……香を真似た女を見た」
「え?」
「おまえの使ってる香と、まったく同じ香。
けど、香りの立ち方が違った。記憶で再現したにしては正確すぎる」
綾は、何も言えなかった。
「誰かが、“香の綾”という名で弟子入りしようとしている。
でも——」
志岐は、香袋をひとつ、綾の前に置いた。
「この香りは、おまえのものだ」
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六
その朝、綾はばあさまと朝市を歩いていた。
「人の香りばっかり見てないで、たまには顔も出しときな。人気者ってのは、時に匂いより先に立つんだから」
ばあさまの強めの言葉に背中を押され、仕方なくついてきたはずだった。
──なのに。
「おおっ、“香の綾”様じゃないかい!」
いきなり声をかけられ、綾はぴたりと足を止めた。
「……へ?」
振り向くと、焙じ銀杏を売る老婆が手を振っていた。
「この間の火事んとき、あんたが煙を晴らしたって、皆が言っててねぇ!」
(あの時の事件か...私は火消し後に行ったのに)
「ちょ、ちょっと、私そんな……」
「あら、あんたが“香の綾”かい? すごいねえ、煙から龍が舞ったんだって?」
(龍!?話がどんどん大きくなってる...)
今度は隣の飴屋まで乗ってきた。
「綾ちゃん、すごいな〜! うちの孫なんか、“綾の香になりたい”って言って、風呂に白檀ぶちこんで大騒ぎだったんだから!」
「えええっ!? それ絶対目に沁みるはず!?」
顔を真っ赤にして慌てる綾の袖を、ばあさまがくいっと引いた。
「名乗ってないのに“香の綾”。こりゃもう、“香”が勝手に歩き出してるね」
「そんなこと...!!」
反論しようとすると、ばあさまがふいにあるものを見つけて吹き出した。
「……なんだいこれ、“絵草子”? ちょっと綾、これ……!」
ばあさまの手にあるのは、町の簡素な売店で並んでいた草子の一冊。
『香の綾 〜火の中に咲く香〜』
表紙には、実際より三割増で盛られた綾の美少女画と、火の中で凛々しく香を掲げる姿。
「“片手に香袋、もう片手に火の刃”……って、なにこれ!? 私そんな忍者みたいな構えしてないから!」
「いやこれ、完全に伝説化してるね」
「笑いごとじゃないから!!」
ばあさまがその様子を見て、「ふふん」と鼻で笑った。
「でもまあ、それも“芯”があるから残った名さ。中身がなきゃ香りもすぐ消えちまうよ」
綾はため息をついたまま香袋を握りしめた。
(名乗った覚えもないのに……“香の綾”って、ひとりでに歩き出してる)
ばあさまが小さくつぶやいた。
「名ってのはね、時に本人よりも先に、大勢の記憶に届いちまうもんなんだよ」
その言葉は、香のようにふわりと綾の心に残った。
──香のように、名前のように。
自分の“芯”はまだ揺れていたけれど、その揺らぎすらもまた、“綾”の香の一部になっていた。
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綾は香袋を手に取り、目を伏せた。
「志岐……ねえ、私の“綾”って名前、いつの間にこんなに勝手に広がってるのかしら」
「……ああ」
「別に、名乗ったわけでもないのに。“香の綾”だなんて、ひとり歩きして……おかしな話よね」
綾は淡々とした口調で言った。
「自分の名前なのに、自分のものじゃないみたいで。……まあ、どうでもいいけど」
志岐は言葉を選びかけて、やめた。
(妙に達観してるようで、内心では気にしてる……)
「でも、誰かが私の香りを“本物だ”って言ってくれるなら……それで十分」
綾の声には、強がりとも本音ともつかない響きがあった。
志岐は何も言わず、ただ囲炉裏の火に薪を足した。
——けれどその目は、確かに綾を守っていた。
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《第十二話『香りの檻、名を狙う刃』——完》




