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第十一話 夢の香、沈黙の気配(後編)


「これは……“香りを重ねた偽装”じゃないか?」


志岐が、こたろうの持っていた木片の香師の印をじっと見つめる。


「同じ香を違う香袋に仕込み、“母の香り”として渡していた。

 ——目的は、“記憶の上書き”だ」


綾は、その言葉に胸がひやりと冷えた。


「記憶を……上書き?」


志岐は一度、香袋を見つめた。


「記憶ってな、意外と曖昧だ。特に“香り”は、強く結びつく。

 “思い出す”だけじゃねぇ、“作り出す”こともある。

 たとえば、知らないはずの香りでも、“母の香りだった”って錯覚するくらいにはな」


「つまり、香を“母のもの”だと思わせれば……」


「ああ、それが“真実”になる。“偽りの香”は、偽りの記憶を植えつける。

 特に、過去の記憶が曖昧な人間ほどな。……おまえの香袋は、まさにそれだ」




「じゃあ、私は……母の匂いだと信じてた香袋に、

 偽りの記憶を植えつけられていたってこと?」


綾の声は震えていなかった。

けれど、指先がそっと香袋を強く握っていた。


志岐は一度だけ目を閉じて——それから、何も言わなかった。


沈黙。


だがその沈黙には、確かに「優しさ」があった。


(言葉で傷つけるくらいなら、黙る)


(たとえ、それがすれ違いになったとしても)


志岐は、囲炉裏の火を静かに見つめていた。




「でも……それでも、

 私は、街の人たちと接し

 志岐とこたろうと過ごして、

 この香りの中にいる。

 ……それが事実だから、それでいい」


綾が、香袋を胸元に抱く。


「たとえ偽物だったとしても、私は——この香りを、忘れたくない」


志岐がわずかに目を見開いた。


その言葉は、

香りのように静かで、でも確かに“綾”の芯から出た声だった。



ラスト


こたろうが、囲炉裏にぺたんと座って、ぽつりと呟いた。


「でも……あの人、“れんげ”って呼ばれてなかったよ」


綾と志岐が、同時にこたろうを見た。


「“れんげ”じゃなくて、“うた”って呼ばれてた。

 前に、誰かがそう言ってた。

 “うたは香りの才がある”って。

 “あの子が全部背負うんじゃないか”って」


沈黙が、部屋に満ちる。


「それ、誰が言ってた?」


こたろうは首をかしげた。


「んー……思い出せない。でも、ずっと前。

 あったかい匂いのする人だった」


綾が、胸の奥で何かが“かちり”と音を立てた気がした。


それは、名前だったのか、記憶だったのか——

まだ、わからない。


ただ、香りだけが——

静かに、部屋を満たしていった。



炭火の音がぱち、ぱちと小さく弾けるなか、志岐がふと立ち上がった。


「……しばらく、顔を出せなくなる」


綾は、思わず彼の背中を見つめた。


「また、どこか行くの?」


志岐は火鉢の灰を払うようにして言った。


「ああ。少し、“表”に戻らなきゃなんねぇ」


綾は意味を深く問わなかった。ただ、少しだけ笑って返した。


「じゃあ次に会うときまでに、“わたしの香り”を見つけておく」


志岐の目がわずかに緩んだ。


「……それでいい」


「それ、殿様からの命令?」


「ちげぇよ」


そう答えて、志岐はひとつ息を吐き、暖簾をくぐって外へ出た。


夜の闇が志岐を包み込んでいった。


その背中は、いつもより少し遠く見えた。



《第十一話『夢の香、沈黙の気配』——完》


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