第十一話 夢の香、沈黙の気配(後編)
四
「これは……“香りを重ねた偽装”じゃないか?」
志岐が、こたろうの持っていた木片の香師の印をじっと見つめる。
「同じ香を違う香袋に仕込み、“母の香り”として渡していた。
——目的は、“記憶の上書き”だ」
綾は、その言葉に胸がひやりと冷えた。
「記憶を……上書き?」
志岐は一度、香袋を見つめた。
「記憶ってな、意外と曖昧だ。特に“香り”は、強く結びつく。
“思い出す”だけじゃねぇ、“作り出す”こともある。
たとえば、知らないはずの香りでも、“母の香りだった”って錯覚するくらいにはな」
「つまり、香を“母のもの”だと思わせれば……」
「ああ、それが“真実”になる。“偽りの香”は、偽りの記憶を植えつける。
特に、過去の記憶が曖昧な人間ほどな。……おまえの香袋は、まさにそれだ」
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五
「じゃあ、私は……母の匂いだと信じてた香袋に、
偽りの記憶を植えつけられていたってこと?」
綾の声は震えていなかった。
けれど、指先がそっと香袋を強く握っていた。
志岐は一度だけ目を閉じて——それから、何も言わなかった。
沈黙。
だがその沈黙には、確かに「優しさ」があった。
(言葉で傷つけるくらいなら、黙る)
(たとえ、それがすれ違いになったとしても)
志岐は、囲炉裏の火を静かに見つめていた。
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六
「でも……それでも、
私は、街の人たちと接し
志岐とこたろうと過ごして、
この香りの中にいる。
……それが事実だから、それでいい」
綾が、香袋を胸元に抱く。
「たとえ偽物だったとしても、私は——この香りを、忘れたくない」
志岐がわずかに目を見開いた。
その言葉は、
香りのように静かで、でも確かに“綾”の芯から出た声だった。
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七
こたろうが、囲炉裏にぺたんと座って、ぽつりと呟いた。
「でも……あの人、“れんげ”って呼ばれてなかったよ」
綾と志岐が、同時にこたろうを見た。
「“れんげ”じゃなくて、“うた”って呼ばれてた。
前に、誰かがそう言ってた。
“うたは香りの才がある”って。
“あの子が全部背負うんじゃないか”って」
沈黙が、部屋に満ちる。
「それ、誰が言ってた?」
こたろうは首をかしげた。
「んー……思い出せない。でも、ずっと前。
あったかい匂いのする人だった」
綾が、胸の奥で何かが“かちり”と音を立てた気がした。
それは、名前だったのか、記憶だったのか——
まだ、わからない。
ただ、香りだけが——
静かに、部屋を満たしていった。
⸻
炭火の音がぱち、ぱちと小さく弾けるなか、志岐がふと立ち上がった。
「……しばらく、顔を出せなくなる」
綾は、思わず彼の背中を見つめた。
「また、どこか行くの?」
志岐は火鉢の灰を払うようにして言った。
「ああ。少し、“表”に戻らなきゃなんねぇ」
綾は意味を深く問わなかった。ただ、少しだけ笑って返した。
「じゃあ次に会うときまでに、“わたしの香り”を見つけておく」
志岐の目がわずかに緩んだ。
「……それでいい」
「それ、殿様からの命令?」
「ちげぇよ」
そう答えて、志岐はひとつ息を吐き、暖簾をくぐって外へ出た。
夜の闇が志岐を包み込んでいった。
その背中は、いつもより少し遠く見えた。
《第十一話『夢の香、沈黙の気配』——完》




