第十一話 夢の香、沈黙の気配(前編)
一
その夢は、綾にとって、やけにあたたかかった。
見覚えのない庭。
揺れる簾の向こうで、誰かの声がする。
「——綾。こわがらなくていいよ」
その声は、優しかった。
でもどこか、遠くにいるようだった。
(お母さん……?)
声の主は見えなかった。
でも、香りだけは、はっきりと覚えている。
芍薬。白檀。
——そして、ほのかに甘い、春の風のにおい。
「綾、あなたは“綾”として生きなさい。
誰かの記憶のなかじゃなく、あなたの世界を選びなさい」
そこまで言ったとき——
夢は、静かに終わった。
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二
目覚めた綾は、まだ手に香袋を握っていた。
心臓が、どくどくと鳴っている。
まるで、夢のなかの言葉が“本当の記憶”だったかのように。
綾が縁側から出ると、志岐がちょうど戻ってきたところだった。
「……また、朝早くからフラフラしてどうしたの?」
「ああ。寝ずに香師の痕跡を追ってた。火だけ、借りるぞ」
志岐が家の扉を開け、無造作に火鉢へ手を伸ばす。
その様子に、綾はそっと問いかけた。
「……志岐。少し、いい?」
彼は火鉢をいじっていた手を止め、振り返る。
「夢を見たの。誰かの声がした。
でも顔は見えなかった」
「どんな声だった?」
「……やわらかくて、少し悲しそうだった。
“綾として生きなさい”って、言われた」
志岐はしばらく黙っていた。
(それは……“蓮華”の声ではないだろうか)
淡い期待が胸をよぎる。
(綾は、断片的にでも記憶を取り戻しはじめてる)
(でも……それを今、教えていいのか?)
「それ、記憶じゃなくて、ただの夢だろ」
志岐は、あえて視線を合わせず、火鉢に目線を落とした。
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三
綾は志岐の横顔を見つめながら、小さく笑った。
「なんか……今の言い方、“わたしの頭がおかしい”みたいに聞こえる」
「別に……気のせいだろ」
志岐は火を突きながら言った。
(これ以上、“あいつ”のことを語らせたら——綾は壊れてしまうかもしれない)
(だったら俺は、沈黙を選ぶ)
こたろうが、ふいに縁側から駆けてきた。
「ねぇ、これって“あのひと”の落とし物じゃない?」
彼が差し出したのは、小さな木片。
そこには、見慣れた“香師”の印が刻まれていた。
志岐と綾が、同時に顔を見合わせた。




