第十話 盗まれた香と禁じられた薬草(後編)
四
綾は、香袋の縫い目をそっとほどいた。
中から出てきたのは、小さな和紙の包みだった。
包みを開くと、中には黒褐色の粉末がしっとりと湿っていた。
志岐が慎重に受け取り、鼻先に近づけて嗅ぐ。
「……やっぱり“未熟な芥子”だ。乾燥しきってない芥子の粉末。加熱すれば阿片になる」
綾の目が強張った。
「そんな危ないものを……香袋に入れるなんて……」
「未熟なままなら、香りの中に混ぜてもわかりにくい。匂いを操る“香師”なら、こういうやり方をする」
「香で……人の記憶を、壊すの?」
志岐はうなずいた。
「香は、記憶に直に届く。その作用を悪用すれば、人の心だって塗り替えられる」
綾は黙ったまま、香袋を握りしめた。
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五
夜の路地裏。石畳はまだ昼の雨を残していた。
志岐は懐に香袋を忍ばせながら、人気のない裏道を歩いていた。
顔を見られれば、身分を怪しまれる。
話しかけられることもない。
だが、ふいに、すれ違いざまに聞こえた声が彼の足を止めた。
「探し物ってのは、香るんじゃなくて、沁みるものだよ」
志岐が振り返ると、黒い着物の女がそこに立っていた。
年齢の読めない顔立ちに、おかっぱ頭。表情は笑っていたが、目だけが異様に澄んでいる。
「“綾”って子に、何か用?」
志岐が返事をしようとするより先に、女は勝手に続けた。
「……あの子、昔の“あの娘”に似てるのよ。“蓮”って名前、聞いたことある?」
その言葉を残して、女は路地の闇に溶けるように消えていった。
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六
その夜、綾は志岐からその名前を聞いた。
「蓮——それ、蓮華と関係あるのかな……」
手の中の香袋が、じんと疼いた。
「その女、こう言ってた。“あの人は香に深入りしすぎた”って」
綾は顔を伏せ、香袋を強く握りしめた。
「……もし...万が一母や私を差していたとしても、母も私も、香で人を惑わすようなことは絶対にしない。」
「でもな。もしそれが“誰かを守るため”だったとしたら?」
綾の中で、母の微笑みと、かすかな不安が交差する。
「ただの仮説に過ぎねぇ、でも、おまえの母は記憶を消すために“香”を使ったかもしれねぇ。おまえ自身の記憶を」
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七
綾は、焚かれた香を見つめたまま、そっと目を閉じた。
立ち上る香り。
芍薬と蓮。白檀。そして……ほんの少し、自分が加えた薄荷の気配。
記憶は戻らない。
けれど、胸の奥が確かにざわめいていた。
(これは、母の香りじゃない。
でも……わたしの中には、“何か”が残ってる)
志岐の声が背後から届いた。
「母親を信じるのも、香を疑うのも、どっちも間違いじゃねぇ。
でも今は、“自分の鼻”を信じて動け」
綾は、小さくうなずいた。
「わたしの香りは、わたしが選ぶ。
もう……誰かに仕掛けられた香じゃない」
火鉢の中の香が、静かに、けれど確かに立ち上っていた。
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《第十話『盗まれた香と禁じられた薬草』——完》