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第十話 盗まれた香と禁じられた薬草(後編)


綾は、香袋の縫い目をそっとほどいた。


中から出てきたのは、小さな和紙の包みだった。

包みを開くと、中には黒褐色の粉末がしっとりと湿っていた。


志岐が慎重に受け取り、鼻先に近づけて嗅ぐ。


「……やっぱり“未熟な芥子けし”だ。乾燥しきってない芥子の粉末。加熱すれば阿片になる」


綾の目が強張った。


「そんな危ないものを……香袋に入れるなんて……」


「未熟なままなら、香りの中に混ぜてもわかりにくい。匂いを操る“香師”なら、こういうやり方をする」


「香で……人の記憶を、壊すの?」


志岐はうなずいた。


「香は、記憶に直に届く。その作用を悪用すれば、人の心だって塗り替えられる」


綾は黙ったまま、香袋を握りしめた。




夜の路地裏。石畳はまだ昼の雨を残していた。


志岐は懐に香袋を忍ばせながら、人気のない裏道を歩いていた。


顔を見られれば、身分を怪しまれる。

話しかけられることもない。


だが、ふいに、すれ違いざまに聞こえた声が彼の足を止めた。


「探し物ってのは、香るんじゃなくて、沁みるものだよ」


志岐が振り返ると、黒い着物の女がそこに立っていた。


年齢の読めない顔立ちに、おかっぱ頭。表情は笑っていたが、目だけが異様に澄んでいる。


「“綾”って子に、何か用?」


志岐が返事をしようとするより先に、女は勝手に続けた。


「……あの子、昔の“あの娘”に似てるのよ。“蓮”って名前、聞いたことある?」


その言葉を残して、女は路地の闇に溶けるように消えていった。




その夜、綾は志岐からその名前を聞いた。


「蓮——それ、蓮華と関係あるのかな……」


手の中の香袋が、じんと疼いた。


「その女、こう言ってた。“あの人は香に深入りしすぎた”って」


綾は顔を伏せ、香袋を強く握りしめた。


「……もし...万が一母や私を差していたとしても、母も私も、香で人を惑わすようなことは絶対にしない。」


「でもな。もしそれが“誰かを守るため”だったとしたら?」


綾の中で、母の微笑みと、かすかな不安が交差する。


「ただの仮説に過ぎねぇ、でも、おまえの母は記憶を消すために“香”を使ったかもしれねぇ。おまえ自身の記憶を」



ラスト


綾は、焚かれた香を見つめたまま、そっと目を閉じた。


立ち上る香り。

芍薬と蓮。白檀。そして……ほんの少し、自分が加えた薄荷の気配。


記憶は戻らない。

けれど、胸の奥が確かにざわめいていた。


(これは、母の香りじゃない。

 でも……わたしの中には、“何か”が残ってる)


志岐の声が背後から届いた。


「母親を信じるのも、香を疑うのも、どっちも間違いじゃねぇ。

 でも今は、“自分の鼻”を信じて動け」


綾は、小さくうなずいた。


「わたしの香りは、わたしが選ぶ。

 もう……誰かに仕掛けられた香じゃない」


火鉢の中の香が、静かに、けれど確かに立ち上っていた。



《第十話『盗まれた香と禁じられた薬草』——完》

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