第十話 盗まれた香と禁じられた薬草(前編)
一
春先の空気に、ふわりと甘い香りが混じった。
それは、火鉢の炭とは違う——
白檀でもなく、蓮の香でもない。
どこか湿った、けれど鼻に残る“におい”。
綾は、すぐに眉をひそめた。
「……あれ、なんの香り?」
茶屋の一角、客のひとりが机に突っ伏していた。
顔色が悪く、口元に吐しゃ物の痕。
体を起こそうとした手が、微かに震えている。
「この人……」
綾が駆け寄ったときには、すでに意識が朦朧としていた。
「香袋……」
その男の懐から、ひとつの小さな香袋が転がり出た。
綾はすぐに手に取って、鼻を近づける。
「……おかしい。これ、“香”じゃない」
香りの中に、かすかに感じる“鉄っぽさ”。
そして、植物とも薬草ともつかない独特のにおい。
「これ、何かが混ざってる……」
⸻
二
「それ、“シラカバ”だ。あと、“ケシ”が少し入ってるな」
志岐が後ろから香袋を手に取り、においを確かめた。
「ケシ……?」
「正確には、“芥子の未熟種子”。
幕府で輸入制限かかってる、“頭痛除け”の名目のやつだ。
……だが使い方次第じゃ、人を幻覚に落とす」
綾の目が鋭くなった。
「つまり、これは“薬”じゃなくて、“毒”」
志岐が頷く。
「香に混ぜれば、使用者にはわからねぇ。
長く嗅ぎ続ければ、体に染みて、幻を見はじめる。
こいつ、誰に香をもらった?」
綾は周囲を見渡した。
男が倒れていた席の隣に、空の盃がひとつ。
——そして、その席に座っていた客の姿は、もうなかった。
⸻
三
「こないだ、あのひとと話したよ。最近よく茶屋にくるの。」
こたろうが、机の下から顔を出した。
「おじさん変なにおいって言ったら、一緒にいた人が“いまの流行りだ”って言ってた。」
綾が身を乗り出す。
「一緒にいた人って、どんな人だった?」
「黒いきもの。おかっぱ。“たぶんおんなのひと”だけど、声はすごく低かった」
志岐の眉がぴくりと動いた。
「……おい、なんでお前がそんなやつと?」
「え……だって、おつかい行くとき、ばあさまが“ここで時間つぶしてろ”って……茶屋でお菓子もらえるから、つい……」
綾が静かに言った。
「つまり、“誰かがこたろうに近づきやすい場所”に誘導してたのね」
志岐の目が細くなる。
「……それ、“遊郭の外れにいる香売り女”じゃねぇか?」
「知ってるの?」
「いや。……ずっと昔に一度だけ会ったことがある。
“香りで記憶を盗む”って噂の、変わり者だ」