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第一話 花咲く病 (前編)

夜が白み始める頃、山あいの寒村にひとつ、またひとつ、鐘の音が鳴り渡った。


「……また、出おったか」


村の端に立つ老婆が、しわの刻まれた顔に十字を切るような仕草をした。いや、仏のしぐさだ。だが、その手の震え方は、神も仏も信じきれぬ恐怖を語っていた。


小屋の前に並んだ三つの亡骸。肌はまるで枯れた桜の花のように斑に染まり、鼻や口の端は黒くただれていた。


「花の呪いや……咲いて散った、地獄の花よ」


ひとりがそう呟けば、もう誰もその言葉を否定しなかった。


いや、正確には——一人だけ、それを鼻で笑った者がいた。


「呪いじゃなくて、病よ」


灰色の旅装に身を包んだ娘が、馬から降りた。腰に提げた薬籠やくろうを揺らしながら、斜めに風を受ける。


村人たちはざわめき、あからさまに眉をひそめた。


「誰じゃ、あの娘ぁ……医者か? いや、子どもじゃろうが」


「しかも顔もよう見えん。髪で目を隠して……縁起が悪いぞ」


髪は長く、前髪はまるで面のように顔を覆っていた。だが、見えていないはずの瞳が、死者を射抜くように動いていた。


「綾と申します。町の外科医の娘です。父の代から往診もしております」


「外科か……腫れ物や傷口は診られても、呪いは診られまい!」


そう叫んだのは、村の古株である医者・嘉左衛門だった。腹が出て、声がでかく、口はもっと悪い。


綾は黙って亡骸の前に膝をついた。


亡者の襟元を開き、胸元に散る赤黒い発疹を確かめる。口を裂いて舌を引き出し、眼の裏をめくる。村人たちが一斉に目を逸らした。


「斑点、発熱、臓腑の腫れ。おそらくは性感染由来。第三期……花柳病——梅毒の末期よ」


「な、なにを言う!」


「死因は心不全と、多臓器の腐敗による毒素逆流。感染経路は不明。でもこのかさぶた、残しときなさい」


綾は爪でそっと、皮膚にこびりついた瘡を削ぎ取る。その指の動きは、まるで水面をすくうように静かだった。


嘉左衛門が赤くなって怒鳴った。


「淫らな病が流行る村だとでも言うのか!」


「否定は結構。でも死ぬよりは、診られた方がよくないかしら」


綾の声は冷ややかで、まるで風の通り道のようにすっとしていた。


その時だった。村のはずれに、一頭の馬が駆け込んできた。土煙の中から現れたのは、黒ずんだ肌にぼろを纏った武士風の男。


日焼けというには濃すぎるその肌、うっすらと香る白粉の匂い。


——見た目は旅の浪人。しかし、所作に迷いがない。


綾は、ちらりとその男を見た。


(……あれ、ただの通りすがりじゃない)


男もまた、死者の周りに寄ってきた。そして、ふと落ちていた布切れを拾い上げる。


「香袋……か。白檀と……ん? これは……阿片の匂いだな」


綾の目が鋭くなった。


「あなた、医者かしら」


「いや、ただの浪人だよ。ちょっとだけ鼻が利くのさ」


彼は、袋を指先でくるくる回した。


「この袋、亡くなった者が肌身離さず持っていたらしい。贈り物だったとか」


綾は香袋を覗き込み、ふと息を飲んだ。


(この香り……知ってる。母が、私に持たせたのと……同じ匂い)


胸元に巻いた帯の内、密かに忍ばせた小さな袋が、微かに揺れた気がした。


だが綾は、顔を上げるとそのまま言った。


「阿片入りの香袋。つまり、これが発症のトリガーかもしれない」


浪人の眉がピクリと動く。


「おや、娘さん、ただの町医者の娘じゃなさそうだ」


「あなたこそ、“鼻が利く”だけの浪人じゃなさそうね」


ふたりの視線が、焚き火の煙越しに交わる。その目は、互いに“正体を探る者”のそれだった。



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