第九話 偽りの筆跡(後編)
四
翌朝。
町外れの茶屋近く、日差しの差し込む小路にて。
志岐はいつものように、ぼんやりと香布をいじりながら立っていた。
その背後から、ぱたぱたと足音が近づく。
「志岐!」
「あ? どうした、朝っぱらからやけに元気だな」
綾は香袋を握ったまま、少し息を弾ませながら立ち止まる。
「昨日、変な紙を見つけたの。裏に“蓮華”って、名前が書いてあったのよ!」
志岐の指が一瞬止まる。
「……蓮華?」
「うん。なんだか妙に懐かしくて」
綾が香袋を掲げてにおいをかぐ。
「でね、ふと考えたの。“やっぱり私、綾じゃないかも?”って」
志岐は、あきれ顔で腕を組んだ。
「おいおい。お前、それ今までにも“茶碗の裏に桜って書いてあった”“表札の“ふ”の字が気になる”“香材の束に“ちとせ”って名前が書いてた”……毎回“これが本当の名前かも?”って言ってなかったか?」
「い、言ってないし! たぶん!」
「たぶん、って言ってる時点でアウトなんだよ……」
綾はぷくっと頬を膨らませた。
「志岐のせいよ。“もしかしたら、別の名前があったかもな”なんて、あんな言い方するから──!」
志岐は、ふっと真顔に戻る。
「……ああ。すまん。……けしかけたのは俺だ」
綾の目が、ぱちぱちと瞬く。
「え?」
「……俺が“本当の名があるかも”なんて口にしたのは──お前にとって、重すぎたかもしれねぇ。
香ってのは、記憶を動かす。……それをわかってたくせに……」
志岐は視線を外す。
(……“蓮華”って名を、こいつと結びつけたがってる俺の気持ちが──どこかにあったんだろうな。
……今も、少しだけ)
綾は、志岐の顔を見上げる。
風に乗って、香袋からふわりと甘い香が立ちのぼった。
「でも、私はまだ“綾”だからね?」
志岐は小さく笑って、ぽつりとこぼした。
「……ああ。じゃあ“桜”“ちとせ”“茶碗の裏の桜”……それも全部、候補ってことか?」
「だから、それは違うってば!」
ふたりの笑い声が、ゆっくりと町の明るい空にほどけていった。
⸻
五
「れんげおねえちゃんは、この匂いじゃなかったよ」
こたろうが香袋を指さしながら、ぽつりと呟いた。
「もっと、あまいにおいだった。たんぽぽ……じゃなくて……なんだっけ。白檀じゃなくて……こう、おひさまみたいなにおい」
綾の目が大きく開かれる。
(れんげおねえちゃん……)
知らない名前なのに、頭の奥に何かが引っかかる。
その名を心の中で繰り返すたび、誰かの笑顔がぼんやりと浮かびそうになる。
「……私が覚えていた香りは、母のものじゃなかったのかもしれない」
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六
綾は香袋を胸に抱きながら、問いかけるように言った。
「……わたし、“誰かの代わり”なの?」
志岐は火鉢の炎を見つめながら、静かに口を開いた。
「……芯ってのは、本来その人だけが持てるもんだ。体験、感情、記憶、それらが積み重なって形成される核みたいなものだ」
「でも、香袋の香りを嗅いだとき──わたし、自分の記憶じゃない感覚に飲まれそうになった。……あれは、何?」
志岐は少し考えてから、言葉を選ぶように答えた。
「たぶん、それは“他人の芯を疑似体験させるための香”だ。香を通じて特定の記憶や感情を再現するように設計された、実験的な香──」
「実験……?」
「“誰かの芯”を、香の処方で再現して、それを綾に嗅がせることで“記憶が継がれたような感覚”を与える。
──でもそれは、あくまで“誰かの感情の模造品”だ。綾の本物の芯じゃない」
綾は息を呑んだ。
「……それって、最初からわたしに“誰かを演じさせるため”に、香を仕掛けたってこと?」
「可能性は高い。名と記憶を結びつけて、“本当の綾”を塗り替えようとした」
「……誰が?」
志岐は目を細めた。
「“芯を創る計画”。香を使って、名をすり込み、芯を模造する。
──その先にあるのは、“器”の創造だ」
綾は、震える指で香袋を握りしめた。
「……じゃあ、わたしは“器”にされかけてた?」
「でも、されなかった。なぜなら、綾には“自分の芯”があったからだ」
志岐の声は静かだったが、決して迷いはなかった。
「……香は、芯を揺るがせても、壊せはしない。自分の芯を持っている人間にはな」
綾は目を伏せ、香袋をそっと抱きしめた。
「ありがとう。……その言葉、ちょっと救われた」
綾は香袋を握ったまま、じっと志岐を見た。
「……あのさ」
「ん?」
「なんでそんなに“芯の仕組み”とか、“香で記憶を植えつける技術”とか、やたら詳しいのよ。っていうか……なに? 香の博士なの? 怪しすぎるんだけど」
志岐はわずかに肩をすくめて、面倒くさそうに返した。
「昔な。ちょっと香に関わる“妙な研究”の現場にいたことがあってな」
「へぇ〜? それって、もしかして……」
綾はわざとらしく目を細めて、じりっとにじり寄る。
「“元・香術師”とか、だったりして?」
「違ぇよ。俺は医師だった……少なくとも、名目上はな」
「ふーん……ますます怪しい」
綾は膨れた頬で志岐を睨んだが、どこか楽しそうでもあった。
志岐はため息をひとつ。
「おまえな……少しは疑うときも遠慮ってもんをだな……」
「私は、香袋の中身より、あなたの頭の中の方がよっぽど謎だと思うけど?」
「……言うようになったな、お前も」
「前からでしょ?」
志岐はふっと笑った。綾も、それに釣られるように笑みを浮かべる。
その香は、張りつめた真実の中にふわっと差し込んだ、柔らかい“日常の香”だった。
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七
その夜、綾は布団の中で香袋をそっと握りしめた。
名前が、香りが、記憶が、あいまいに混ざり合う中で——
ただひとつ、自分の中に浮かび上がっていた思い。
「……わたしは、わたしになりたい」
誰かの代わりじゃなくていい。名前を知らなくても、思い出を抱えたままでいい。
“綾”として、生きたい。
火鉢の中で、炭がぱちりと音を立てて弾けた。
その香りが、また新しい記憶を刻みはじめていた。
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《第九話『偽りの筆跡』——完》




