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第九話 偽りの筆跡(後編)


翌朝。

町外れの茶屋近く、日差しの差し込む小路にて。


志岐はいつものように、ぼんやりと香布をいじりながら立っていた。

その背後から、ぱたぱたと足音が近づく。


「志岐!」


「あ? どうした、朝っぱらからやけに元気だな」


綾は香袋を握ったまま、少し息を弾ませながら立ち止まる。


「昨日、変な紙を見つけたの。裏に“蓮華”って、名前が書いてあったのよ!」


志岐の指が一瞬止まる。


「……蓮華?」


「うん。なんだか妙に懐かしくて」


綾が香袋を掲げてにおいをかぐ。


「でね、ふと考えたの。“やっぱり私、綾じゃないかも?”って」


志岐は、あきれ顔で腕を組んだ。


「おいおい。お前、それ今までにも“茶碗の裏に桜って書いてあった”“表札の“ふ”の字が気になる”“香材の束に“ちとせ”って名前が書いてた”……毎回“これが本当の名前かも?”って言ってなかったか?」


「い、言ってないし! たぶん!」


「たぶん、って言ってる時点でアウトなんだよ……」


綾はぷくっと頬を膨らませた。


「志岐のせいよ。“もしかしたら、別の名前があったかもな”なんて、あんな言い方するから──!」


志岐は、ふっと真顔に戻る。


「……ああ。すまん。……けしかけたのは俺だ」


綾の目が、ぱちぱちと瞬く。


「え?」


「……俺が“本当の名があるかも”なんて口にしたのは──お前にとって、重すぎたかもしれねぇ。

香ってのは、記憶を動かす。……それをわかってたくせに……」


志岐は視線を外す。


(……“蓮華”って名を、こいつと結びつけたがってる俺の気持ちが──どこかにあったんだろうな。

……今も、少しだけ)


綾は、志岐の顔を見上げる。

風に乗って、香袋からふわりと甘い香が立ちのぼった。


「でも、私はまだ“綾”だからね?」


志岐は小さく笑って、ぽつりとこぼした。


「……ああ。じゃあ“桜”“ちとせ”“茶碗の裏の桜”……それも全部、候補ってことか?」


「だから、それは違うってば!」


ふたりの笑い声が、ゆっくりと町の明るい空にほどけていった。



「れんげおねえちゃんは、この匂いじゃなかったよ」


こたろうが香袋を指さしながら、ぽつりと呟いた。


「もっと、あまいにおいだった。たんぽぽ……じゃなくて……なんだっけ。白檀じゃなくて……こう、おひさまみたいなにおい」


綾の目が大きく開かれる。


(れんげおねえちゃん……)


知らない名前なのに、頭の奥に何かが引っかかる。


その名を心の中で繰り返すたび、誰かの笑顔がぼんやりと浮かびそうになる。


「……私が覚えていた香りは、母のものじゃなかったのかもしれない」





綾は香袋を胸に抱きながら、問いかけるように言った。


「……わたし、“誰かの代わり”なの?」


志岐は火鉢の炎を見つめながら、静かに口を開いた。


「……芯ってのは、本来その人だけが持てるもんだ。体験、感情、記憶、それらが積み重なって形成される核みたいなものだ」


「でも、香袋の香りを嗅いだとき──わたし、自分の記憶じゃない感覚に飲まれそうになった。……あれは、何?」


志岐は少し考えてから、言葉を選ぶように答えた。


「たぶん、それは“他人の芯を疑似体験させるための香”だ。香を通じて特定の記憶や感情を再現するように設計された、実験的な香──」


「実験……?」


「“誰かの芯”を、香の処方で再現して、それを綾に嗅がせることで“記憶が継がれたような感覚”を与える。

──でもそれは、あくまで“誰かの感情の模造品”だ。綾の本物の芯じゃない」


綾は息を呑んだ。


「……それって、最初からわたしに“誰かを演じさせるため”に、香を仕掛けたってこと?」


「可能性は高い。名と記憶を結びつけて、“本当の綾”を塗り替えようとした」


「……誰が?」


志岐は目を細めた。


「“芯を創る計画”。香を使って、名をすり込み、芯を模造する。

──その先にあるのは、“器”の創造だ」


綾は、震える指で香袋を握りしめた。


「……じゃあ、わたしは“器”にされかけてた?」


「でも、されなかった。なぜなら、綾には“自分の芯”があったからだ」


志岐の声は静かだったが、決して迷いはなかった。


「……香は、芯を揺るがせても、壊せはしない。自分の芯を持っている人間にはな」


綾は目を伏せ、香袋をそっと抱きしめた。


「ありがとう。……その言葉、ちょっと救われた」


綾は香袋を握ったまま、じっと志岐を見た。


「……あのさ」


「ん?」


「なんでそんなに“芯の仕組み”とか、“香で記憶を植えつける技術”とか、やたら詳しいのよ。っていうか……なに? 香の博士なの? 怪しすぎるんだけど」


志岐はわずかに肩をすくめて、面倒くさそうに返した。


「昔な。ちょっと香に関わる“妙な研究”の現場にいたことがあってな」


「へぇ〜? それって、もしかして……」


綾はわざとらしく目を細めて、じりっとにじり寄る。


「“元・香術師”とか、だったりして?」


「違ぇよ。俺は医師だった……少なくとも、名目上はな」


「ふーん……ますます怪しい」


綾は膨れた頬で志岐を睨んだが、どこか楽しそうでもあった。


志岐はため息をひとつ。


「おまえな……少しは疑うときも遠慮ってもんをだな……」


「私は、香袋の中身より、あなたの頭の中の方がよっぽど謎だと思うけど?」


「……言うようになったな、お前も」


「前からでしょ?」


志岐はふっと笑った。綾も、それに釣られるように笑みを浮かべる。


その香は、張りつめた真実の中にふわっと差し込んだ、柔らかい“日常の香”だった。


ラスト


その夜、綾は布団の中で香袋をそっと握りしめた。


名前が、香りが、記憶が、あいまいに混ざり合う中で——

ただひとつ、自分の中に浮かび上がっていた思い。


「……わたしは、わたしになりたい」


誰かの代わりじゃなくていい。名前を知らなくても、思い出を抱えたままでいい。


“綾”として、生きたい。


火鉢の中で、炭がぱちりと音を立てて弾けた。


その香りが、また新しい記憶を刻みはじめていた。



《第九話『偽りの筆跡』——完》

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