表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/58

第九話 偽りの筆跡(前編)


雨が上がったばかりの石畳が、うっすらと光を反射していた。


綾は帰り道の小さな路地で足を止めた。

手の中の香袋が、いつもより重く感じられたのだ。


香りは、変わらないはずだった。

白檀と蓮、ほんのりと芍薬の甘い気配。


……なのに。


(なにかが……違う)


指先で布をなぞると、ごくわずかに引っかかる感触。


(……縫い目?)


周囲を気にしながら、香袋の裏地をそっとめくる。


確かにそこには、一度ほどかれたような細い縫い直しの跡があった。

糸の色が微妙に違う。針目の幅も一定ではない。


「……誰かが、この香袋を開けた……?」


その瞬間、香りがふっと変わった気がした。


それは“母の香り”ではなかった。

むしろ、自分とは無関係な、誰かの過去がふと鼻先をすべったような——そんな記憶の残り香だった。




「おい、そんなとこで立ち止まって、何かあったのか」


路地の奥から、志岐の声がした。

綾が振り返ると、雨で裾を濡らしたままの志岐が歩いてくる。


「……買い出し?」


「ああ。そっちこそ、薬草市の帰りだろ?」


綾は香袋を手にしたまま、戸惑うように口を開いた。


「この香袋、ちょっと変なの。裏地が縫い直されてる」


志岐は綾の手元をのぞきこみ、布をひっくり返す。


「……たしかに、針目が不揃いだな。慣れてないやつの手つきだ。

しかも、袋物にしては糸が太すぎる。……何かを入れたか、入れ替えた跡だ」


綾が表情を曇らせる。


「お母さん、裁縫は得意だった。こんな不器用な縫い方、するはずない」


志岐は香袋をじっと見つめながら、低く呟いた。


「……なら、それをすり替えたのは、お前の母親じゃないってことだな」


志岐の目が、静かに綾を見据えた。


「もしかしたら、おまえが渡された香袋は……誰かがすり替えた“似せ物”かもしれない」


綾の胸の奥が、すっと冷えた。




その夜、綾は帳の灯りのもと、香袋をじっと見つめていた。


(……あの縫い目、やっぱり不自然。母の縫い方じゃない)


香袋を手に取り、そっと裏地を撫でる。

糸の色、針目の不揃いさ──違和感は、確かにそこにあった。


そのとき。


「綾ちゃん、これ見てみて」


こたろうが、縁側からちょこちょこと歩いてやってきた。

手には、古びた紙片。


「納屋で見つけたんだ。薬包かと思ったけど、裏に名前みたいな字が書いてあってさ。なんか……綾ちゃんの香りに似てる気がしたの」


綾は受け取って、紙をゆっくりと広げた。


表には、蓮の花が淡く描かれている。

裏には、滲んだ墨の筆致で──見慣れない名前が、やわらかく記されていた。


「……綾、じゃない……」


小さく呟きながら、その字をなぞる。

なぜか指先が震えた。


(……この字、知ってる……? いや……なぜ、懐かしいの?)


こたろうが、隣でぽつりと呟く。


「“れんげ”って、きれいな花だよ。香りはちょっと、さみしいけど」


綾はその言葉に、はっとしたように顔を上げた。


(れんげ──蓮華? この名前……わたしの?)


こたろうは、にっこりと微笑む。


「わたし、綾がほんとに自分の名前かどうかあやふやになってきたの。 だから、こういうの見ると、なんだか不安になるよね」


綾は紙をそっと胸元にしまいながら、微笑んで頷いた。


「うん……そうだね。だから──覚えておこう。“れんげ”って名前。もしかしたら、どこかで会った気がするから」


香袋の奥で、白檀と蓮の香りが、静かに混じり合っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ