第九話 偽りの筆跡(前編)
一
雨が上がったばかりの石畳が、うっすらと光を反射していた。
綾は帰り道の小さな路地で足を止めた。
手の中の香袋が、いつもより重く感じられたのだ。
香りは、変わらないはずだった。
白檀と蓮、ほんのりと芍薬の甘い気配。
……なのに。
(なにかが……違う)
指先で布をなぞると、ごくわずかに引っかかる感触。
(……縫い目?)
周囲を気にしながら、香袋の裏地をそっとめくる。
確かにそこには、一度ほどかれたような細い縫い直しの跡があった。
糸の色が微妙に違う。針目の幅も一定ではない。
「……誰かが、この香袋を開けた……?」
その瞬間、香りがふっと変わった気がした。
それは“母の香り”ではなかった。
むしろ、自分とは無関係な、誰かの過去がふと鼻先をすべったような——そんな記憶の残り香だった。
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二
「おい、そんなとこで立ち止まって、何かあったのか」
路地の奥から、志岐の声がした。
綾が振り返ると、雨で裾を濡らしたままの志岐が歩いてくる。
「……買い出し?」
「ああ。そっちこそ、薬草市の帰りだろ?」
綾は香袋を手にしたまま、戸惑うように口を開いた。
「この香袋、ちょっと変なの。裏地が縫い直されてる」
志岐は綾の手元をのぞきこみ、布をひっくり返す。
「……たしかに、針目が不揃いだな。慣れてないやつの手つきだ。
しかも、袋物にしては糸が太すぎる。……何かを入れたか、入れ替えた跡だ」
綾が表情を曇らせる。
「お母さん、裁縫は得意だった。こんな不器用な縫い方、するはずない」
志岐は香袋をじっと見つめながら、低く呟いた。
「……なら、それをすり替えたのは、お前の母親じゃないってことだな」
志岐の目が、静かに綾を見据えた。
「もしかしたら、おまえが渡された香袋は……誰かがすり替えた“似せ物”かもしれない」
綾の胸の奥が、すっと冷えた。
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三
その夜、綾は帳の灯りのもと、香袋をじっと見つめていた。
(……あの縫い目、やっぱり不自然。母の縫い方じゃない)
香袋を手に取り、そっと裏地を撫でる。
糸の色、針目の不揃いさ──違和感は、確かにそこにあった。
そのとき。
「綾ちゃん、これ見てみて」
こたろうが、縁側からちょこちょこと歩いてやってきた。
手には、古びた紙片。
「納屋で見つけたんだ。薬包かと思ったけど、裏に名前みたいな字が書いてあってさ。なんか……綾ちゃんの香りに似てる気がしたの」
綾は受け取って、紙をゆっくりと広げた。
表には、蓮の花が淡く描かれている。
裏には、滲んだ墨の筆致で──見慣れない名前が、やわらかく記されていた。
「……綾、じゃない……」
小さく呟きながら、その字をなぞる。
なぜか指先が震えた。
(……この字、知ってる……? いや……なぜ、懐かしいの?)
こたろうが、隣でぽつりと呟く。
「“れんげ”って、きれいな花だよ。香りはちょっと、さみしいけど」
綾はその言葉に、はっとしたように顔を上げた。
(れんげ──蓮華? この名前……わたしの?)
こたろうは、にっこりと微笑む。
「わたし、綾がほんとに自分の名前かどうかあやふやになってきたの。 だから、こういうの見ると、なんだか不安になるよね」
綾は紙をそっと胸元にしまいながら、微笑んで頷いた。
「うん……そうだね。だから──覚えておこう。“れんげ”って名前。もしかしたら、どこかで会った気がするから」
香袋の奥で、白檀と蓮の香りが、静かに混じり合っていた。




