第八話 消えた香、囁く熱(後編)
──少年は眠っていた。
浅くなった呼吸、少しずつ戻る体温。
綾は額の汗を丁寧に拭いながら、そっと香袋を握り締めた。
「熱は下がってきたわ。あと少し……大丈夫、きっと」
その横で、志岐は少年の脈を確かめる。
「脈も戻ってる。よくやったな、綾」
「ううん……まだ、安心できない」
その言葉に、志岐は少しだけ目を細めた。
「……心の話か?」
綾は小さくうなずいた。
しばらくして、少年がかすかに目を開けた。
「……あれ、ここ……どこ……?」
「よかった……! まだ頭がぼんやりしてるかもしれないけど、大丈夫よ。私たちがいるから」
綾の声に、少年──湊はゆっくりと視線を向ける。
「……おねえちゃんの、におい……」
「香り、ね。ちゃんと効いたみたい」
湊は一瞬、何かを思い出すように目を細めた。
「……あの袋、もらったんだ。……白い着物のおねえさんに……」
「白い着物?」
志岐の顔色が変わる。
「どんな人だった?」
「えっと……顔はよく見えなかった。けど、髪が長くて……手がすごく冷たかった。
“これを持っていれば、大事なことを思い出せる”って……」
綾と志岐は視線を交わした。
(香で“記憶を植え付ける”ような言葉……)
「ねえ、湊くん。その人、どこで見かけたか覚えてる?」
「……お祭りの夜。人がいっぱいの橋の近くだった。
すぐいなくなったけど、香りが残ってて……綺麗で、なんだか……悲しかった」
綾が沈黙する中、こたろうがぽつりと口を開いた。
「……たぶん、それ……“れんげねえちゃん”かも」
志岐が目を丸くした。
「れんげ……?」
志岐は慌ててこたろうの前に膝をつく。
「こたろう、それは誰だ?」
「お祭りのときに、ぼく、見たの。
お面売りの前で迷ってたら……細い手で、ほっぺ触ってきて……“香りが似てる”って言ってた」
綾の表情が強張った。
「似てる……?」
「うん。れんげねえちゃん、やさしかったけど、どこか……こわい目をしてた。
“もうすぐ戻れる”って言ってたの、ぼく、覚えてる」
その場の空気が一瞬、止まった。
志岐の目が細くなる。
「戻れる……? どこに、“何から”……」
こたろうはしばらく黙っていたが、思い出すようにぽつりと続けた。
「れんげねえちゃんのにおい、
あの日の香袋と同じだった……でも、もっと、奥の方に“しんどくなるにおい”が混じってた」
綾は、自分の胸元の香袋を握りしめた。
湊は、町医者の屋敷にいったん預けられた。
大事には至らなかったとはいえ、まだ体は本調子ではない。
綾と志岐は、その足でいつもの茶屋へ戻っていた。
けれど、ふたりの心には、湊が残していった“言葉”と“香り”が静かに燻っていた。
「母も……昔、よく白い着物を着てた」
「……偶然、かもしれない」
志岐の声は低く、どこか不安を隠していた。
「でも、この香の配合は偶然じゃない。これは……“想い出させる香”だわ。
香によって、意図的に記憶を揺らがせるもの」
綾は香袋を開き、内容物を乾いた布の上に少しずつ取り出した。
「この甘い匂い……ただの香原料じゃない。これはスコポラミンに似た成分、情動を刺激して記憶に干渉するアルカロイド系……」
志岐が頷く。
「昔、南方で“記憶を緩める毒”と呼ばれた成分だ。香と混ぜることで吸収されやすくなり、思い出を“上書き”するように刷り込む。条件反射のように、特定の記憶と香りが強く結びつく……」
「……誰かが、香を使って“記憶を創ってる”ってこと?」
「そうだ。香を嗅いだ相手が、まるで“昔からそうだった”と信じ込むように……」
「……俺にも、そういう香を嗅いだ記憶がある」
「え……?」
志岐は、手のひらに残る香袋の感触を見つめながら、言葉を選ぶように続けた。
「何かを思い出したような、何かを忘れたような……香だけが残っていて、記憶が曖昧になる。
誰かが、香を使って“記憶そのもの”に手を加えている──そういう気配を、昔から感じてた」
その夜、湊はうなされることもなく、静かに眠りについたそうだ。
綾は戸口に立ち、夜風に揺れる香袋を見つめていた。
「志岐。
“香で記憶が揺れる”のが本当なら……私が覚えてる母のことも、もしかしたら“作られた記憶”なのかな」
「そうだったとしても、君がその記憶に何を感じてきたかは……誰にも消せない」
綾は香袋を胸に抱きしめ、小さく笑った。
「ありがとう。……大丈夫、私は、負けないよ」
志岐はフッと笑った刹那、真剣な顔で綾の方を向いた。
「……あの湊の香袋、渡した相手はお前を狙っていた可能性がある。今夜は、俺がここに残る」
綾は志岐をじっと見つめたまま、茶をひとくち啜った。
「……必要ないわ」
「いや、状況を考えろ。
お前の“香”が、誰かにとって利用価値のあるものだとしたら──」
「だから?」
「……は?」
綾は淡々と続けた。
「誰かに狙われるほど、価値があるって証明されたなら──
それは、それで“悪くない”ことだと思う。
でも、他人に夜中ついてこられるのは、普通に迷惑よ」
志岐は少し唖然とした顔で立ち尽くす。
綾は火鉢に手を伸ばしながら、視線を戻さないまま言った。
「……それとも、心配のふりして、ただ茶をタダ飲みしに来たの?」
「……っ!」
志岐は眉をひそめたが、口を開きかけて、結局言葉にできなかった。
「帰って。
私、護身用の香くらい、いくつも持ってる。
そのへんの間者より、よっぽど効くやつ」
一拍の沈黙のあと、志岐は鼻で笑った。
「……ああ、そうだったな。
“毒にも薬にもなる女”だったっけか」
「間違ってないわ」
志岐は肩をすくめながら立ち上がった。
「……じゃあ、せいぜい気をつけろ。
お前が眠ってる間に香袋ごと持ち去られないようにな」
「香袋の中身にまで“仕掛け”してあるから、持ち去ったら火傷するわよ」
その冷たい口調の奥に、かすかに笑ったような気配があった。
だが、志岐はそれを背にして、音もなく戸を閉めた。
火鉢の火が、ふわりと揺れる。
その光の中で、綾はふっと笑った。
「……志岐さん、ほんと、めんどくさいな」
でも──その声色は、どこか嬉しそうだった。




