第八話 消えた香、囁く熱(前編)
──それは、春祭りの翌朝だった。
「おい、誰か来てくれ! 子どもが……!」
早朝の市場通りに、男の叫びが響いた。
駆けつけた綾と志岐が見たのは、青い顔でうわ言を繰り返しながら、意識を失った少年の姿。
その傍らには、しわくちゃになった香袋がひとつ、土に落ちていた。
「……香りが、混じってる」
綾はしゃがみこみ、香袋に鼻を寄せた。
「紫蘇、甘草、薄荷、それに……附子?」
「附子?」志岐が声を低くした。「毒だぞ。加熱すれば解毒できるが、生のままでは危険な成分だ」
綾の眉がぴくりと動く。
「この香袋、誰かが意図的に“薬のように見せて毒を仕込んだ”可能性があるわ。たぶん、この子は……」
──香袋を“癒し”だと信じ、そっと懐に入れたのだろう。
志岐は少年の瞳をのぞき込み、脈と呼吸の変化を静かに読み取っていた。
「脈が遅い……四肢の反応も鈍いな。附子の“遅発性神経毒”が出てる」
綾は頷き、湯を38度前後に温め直した。
「熱すぎると逆効果。体温を上げすぎたら中毒が加速するから、ぬるめで体の表面から温めるの」
志岐は懐から反魂丹(大黄・人参・白朮)を取り出し、煎じるように指示した。
「附子の作用を緩める。あと乾姜と桂皮も混ぜよう。胃腸にも来てるはずだ」
こたろうが差し出した薬草を煎じた香りが部屋に満ち、湊の呼吸が徐々に安定していく。
「……もうすぐ峠は越えるはずだ。あとは時間との勝負だな」
その香が、彼の体温でほんのり温まり、毒がじわじわと回っていったのだ。
「こたろう、熱湯を用意して」
「はいっ!」
「志岐さん、この子の脈が浅い。呼吸も弱ってる。香だけじゃ間に合わないかも……」
志岐は頷き、懐から包みを取り出す。
「反魂丹と白朮だ。蘭方の処置なら、これで中毒の進行を抑えられる」
「やっぱり、詳しいんだね……香や薬のこと」
「……昔、そういう仕事をしていたことがある」
ふと綾が目を上げるが、志岐はもう視線を逸らしていた。
少年の呼吸が次第に落ち着き、うわ言が収まる。
やがて、汗をかいた額から熱が少しずつ引いていった。
綾は香袋を布に包み、深く息をついた。
「ねえ、志岐さん……この附子の使い方、妙よ。あまりにも……“仕込まれた”ような意図を感じるの」
「俺もそう思う。しかも、この香組成──」
志岐は香袋を手に取り、少し眉をひそめた。
「……かつて、長崎で見た“ある香”に似ている。“蘭香流”と呼ばれていた古い香術の流派だ」
志岐がぽつりと呟いた。
綾の手が止まる。
「母の……香。──母が属していた、流派...」
──そのとき、風がふと吹き抜け、香袋の口がふわりと開いた。
ほんの一瞬だけ、どこか懐かしい、けれど冷たい香りが空気に混じった。
それは、綾が幼い頃に感じた“母の背中の香り”と、どこか似ていた。




