表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/58

第七話 蓮の名を持つ者(後編)


綾は、香袋の中に残っていたもう一枚の紙を、そっと広げた。


そこには、墨のにじんだ文字でこう書かれていた。


“蓮華 八月二十五日 白檀・蓮根・樟脳 香試一号”


その文字を見た瞬間、

胸の奥で何かが、ひたりと音を立てて波紋を描いた。


「……蓮華」


その名前を口にしたとき、

綾の中で、なにか古くて温かいものが、すこしだけ疼いた。




志岐は、その名前に気づいた瞬間、立ち止まった。


「どこで、それを見つけた?」


「香袋の、いちばん奥に。……ずっと気づかなかった」


「その香袋、もとは誰のものだ?」


「……母のもの。たぶん」


志岐の目が、わずかに揺れた。


「綾。“綾”って名前は……いつから“綾”だったんだ?」


「そんなの、物心ついた頃にはずっとそうだった。

でも……母から一度も“綾”って呼ばれた記憶がないの。

手紙にも、名前は書かれてなかった」


綾は、香袋をぎゅっと抱きしめた。


「志岐。もしも——わたしが“蓮華”だったら、どう思う?」


「……」


志岐は、すぐには答えなかった。

でも、その目には“昔の記憶”が色濃く揺れていた。


「もしそうなら、お前は——

“守れなかった誰かの続き”かもしれない」




こたろうが、ふたりの間にすっと入り込むようにして、

ぽつりと呟いた。


「じゃあ、“ほんとの名前”で呼ばれたら……思い出すかもね」


その声は、あまりに無邪気で、

だけどあまりに残酷だった。


綾は、はっとしてこたろうを見た。

こたろうはきょとんとして、香袋を指差す。


「“れんげ”って、きれいな花だよ。

 でも、においはちょっと、さみしい」


志岐がそっと視線を落とした。


綾の手の中で、香袋が小さく震えたように見えた。




その夜、綾は自分の名前を何度も心の中で繰り返した。


(綾、綾、綾……)


だけど、口にすると、どこか“借りもの”のように感じた。


(蓮華、蓮華……)


その名のほうが、ずっと奥深くで馴染んでいる気がした。


(——私は、誰なんだろう)


夜の風が吹き抜けた。


香りだけが、記憶の奥に残り続けていた。



《第七話『蓮の名を持つ者』——完》


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ