第七話 蓮の名を持つ者(後編)
四
綾は、香袋の中に残っていたもう一枚の紙を、そっと広げた。
そこには、墨のにじんだ文字でこう書かれていた。
“蓮華 八月二十五日 白檀・蓮根・樟脳 香試一号”
その文字を見た瞬間、
胸の奥で何かが、ひたりと音を立てて波紋を描いた。
「……蓮華」
その名前を口にしたとき、
綾の中で、なにか古くて温かいものが、すこしだけ疼いた。
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五
志岐は、その名前に気づいた瞬間、立ち止まった。
「どこで、それを見つけた?」
「香袋の、いちばん奥に。……ずっと気づかなかった」
「その香袋、もとは誰のものだ?」
「……母のもの。たぶん」
志岐の目が、わずかに揺れた。
「綾。“綾”って名前は……いつから“綾”だったんだ?」
「そんなの、物心ついた頃にはずっとそうだった。
でも……母から一度も“綾”って呼ばれた記憶がないの。
手紙にも、名前は書かれてなかった」
綾は、香袋をぎゅっと抱きしめた。
「志岐。もしも——わたしが“蓮華”だったら、どう思う?」
「……」
志岐は、すぐには答えなかった。
でも、その目には“昔の記憶”が色濃く揺れていた。
「もしそうなら、お前は——
“守れなかった誰かの続き”かもしれない」
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六
こたろうが、ふたりの間にすっと入り込むようにして、
ぽつりと呟いた。
「じゃあ、“ほんとの名前”で呼ばれたら……思い出すかもね」
その声は、あまりに無邪気で、
だけどあまりに残酷だった。
綾は、はっとしてこたろうを見た。
こたろうはきょとんとして、香袋を指差す。
「“れんげ”って、きれいな花だよ。
でも、においはちょっと、さみしい」
志岐がそっと視線を落とした。
綾の手の中で、香袋が小さく震えたように見えた。
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七
その夜、綾は自分の名前を何度も心の中で繰り返した。
(綾、綾、綾……)
だけど、口にすると、どこか“借りもの”のように感じた。
(蓮華、蓮華……)
その名のほうが、ずっと奥深くで馴染んでいる気がした。
(——私は、誰なんだろう)
夜の風が吹き抜けた。
香りだけが、記憶の奥に残り続けていた。
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《第七話『蓮の名を持つ者』——完》




