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第七話 蓮の名を持つ者(前編)


「名前って、かえたらその人もかわるの?」


こたろうのその問いは、

ただの言葉以上に、綾の胸をふるわせた。


火鉢の横で、香袋がふわりと揺れ、

甘くて少しだけ苦い香りが、空気の奥に広がっていく。


「……どうして、そんなこと聞くの?」


「なんとなく。綾ちゃん、たまに“綾”じゃないかんじがする」


「“綾じゃない感じ”って……なにそれ」


綾は苦笑しながら、こたろうの頭をくしゃりと撫でた。


けれど、その指先は、どこかぎこちなかった。




志岐は、その様子を遠くから見ていた。


こたろうの問いは、まるで過去の“あのとき”をなぞるようだった。

あの少女——蓮華も、ある日突然、「自分の名前に違和感がある」と言った。


「この名前、ほんとは私のものじゃない気がするの」

「でも……この名前しか呼ばれたことがないから、私はこれでしかいられない」


志岐の記憶の中の蓮華が、綾の影と重なる。

目元、話し方、香の選び方、そして——

言葉の奥にある、言いかけてやめる“静かな孤独”。


(……二人が関係してるなんてこと、まさかないよな...)


志岐は、心の中でその可能性を否定した。

けれど、否定すればするほど、胸の奥がざわついた。




その夜、綾は母から受け取った唯一の手紙を取り出した。


薄く黄ばんだ紙。

文字は、ところどころ滲んでいて読めない。


けれど、その筆跡を見た瞬間、

綾の中で何かが“引っかかる”感覚があった。


(……この字、知ってる気がする)



綾は、両手で香袋をそっと包み込むように持ち上げた。

一呼吸おいて、ゆっくりと紐を解く。


ぱたり、と布の口が開き、

中からひらりと、一枚の薄紙が滑り出した。


光にかざすと、その端に、滲んだような朱の印が押されていた。


——まるで、蓮の花びらが一枚だけ舞い降りたような、

柔らかな曲線で描かれた小さな落款。


綾の指先が、紙の縁に触れるたび、香袋に残っていた香がふわりと立ちのぼる。

白檀、薄荷、そして、どこか懐かしい花の香り──あれは、薄桃の花だった。


「……会いたいなぁ、お母さん。」


目が潤んでいたことに、綾は気づかなかった。


(この香りは……確かあのときの……)


──幼い頃。熱を出して寝込んだ夜、誰かが枕元に座り、小さな手で額を撫でてくれた。

その袖口から、ふわりと漂ってきた香り。

「大丈夫。香りで眠れば、夢の中では痛くないわよ」

そう囁いた声と、頬に落ちた涙のぬくもりだけが、今も記憶に残っている。


綾の唇が、かすかに震える。


「……母さん、どこにいるの...」


その声は、誰にも届かないほどかすかだったけれど、

香だけが、部屋の中をやわらかく漂っていた。


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