第六話 氷蔵の夢(前編)
一
深夜、灯りの落ちた茶屋の裏手で。
志岐は古びた帳面を手に、誰かを待っていた。
足音がひとつ。
草履の音を立てずに現れたのは、かつての密偵仲間・玄兵衛だった。
「……まーた変な香り追ってるって聞いてよ、急ぎ足で来てやったんだぜ」
「悪いな」
「気にすんな。おまえが呼ぶときは、だいたい“匂い”が絡んでるからな」
玄兵衛は帳面を開いた。
「“白檀、蜜柑、樟脳、氷蔵、蓮華”。この配合、確かに覚えがある。
……十年前、ある屋敷の奥で、記憶を香りに閉じ込める研究があった。
そこに出入りしていた調香師の名——“蓮華”だ」
その名を聞いた瞬間、志岐の指先がぴくりと揺れた。
(……蓮華)
忘れもしない名前だった。
自分が“守れなかった過去”の、たったひとつの名。
⸻
二
朝露に濡れた野辺を越え、小さな村の外れに建つ掘っ建て小屋の扉が、ぎいと音を立てて開いた。
綾はそっと足を踏み入れ、中に佇む老婆のもとへと歩み寄る。
「お身体は……いかがですか?」
老婆は返事をせず、ただ、煤けた畳の上にじっと腰を下ろしたままだった。
その膝元には、擦り切れた香袋が一つ、くたびれた手の中に握られている。
「……息子がね、最後まで……あたしの顔を思い出せなかったよ」
掠れた声で、老婆は呟いた。
「何度も話しかけた。手を握った。なのにあの子は、“あんた誰”って……まるで、わたしじゃない誰かを見るような目で」
綾の眉がわずかに動く。
「その香袋を持っていたのですね」
「ええ。あれは村の娘がくれたんだ。“これを持っていれば、病も和らぐ”って……。でも、あれから、あの子の目は日に日に虚ろになって……」
綾はしゃがみ込み、香袋に鼻を近づける。
漂うのは、白檀に似た甘い香り。しかし、その奥に、微かな苦味と薬草の匂いが混じっていた。
「これは……白檀と甘松、麝香も……いえ、何かもっと複雑な……」
その瞬間、綾の視界がかすんだ。脳裏にふと浮かぶ、けれど輪郭の定まらない、誰かの背中。遠い日の影。
「綾」
低く、確かな声に我に返る。
扉の外に立っていた志岐が、薄い煙草の煙とともにこちらを見ていた。
「その香、海馬に直接届く。記憶を記す脳の部位だ。強すぎる刺激は、記憶を“上書き”することもある」
綾は志岐を見上げた。
「……知っているの?」
「少しな。昔、香を追う仕事をしていたことがある」
志岐の声には、わずかな苦味が滲んでいた。
綾はふたたび香袋を見つめる。
「もし、この香が……人の記憶を変えるのだとしたら」
ふと、自分の胸元にぶら下がる香袋が、微かに揺れた気がした。
その中に詰められた何かが、今にも語り出しそうな気配を孕んでいる。
思い出せない過去。知らぬ誰かの声。
香りの奥に、それが眠っている。




