第五話 夢より遠く(後編)
四
その日、綾はこたろうの手を引いて市場の裏手を歩いていた。
「このへん、人通り少ないけど……なにか変な香りがする」
いつもの湿気と魚のにおいとは違う。
古びた木の箱のそばに、ふと視線が落ちる。
——そこに、一枚の紙片があった。
ぼろぼろにほつれていて、片方が焦げている。
けれど、どこか馴染みのある香りが、かすかに漂っていた。
綾「……これは」
裏返してみると、そこには古い筆跡で、
「蓮花香」──という香の名前らしき文字が残っていた。
綾(蓮花香……聞いたことがない。でも、香りは知ってる気がする)
—
その香りは、綾の記憶の奥で、何かを微かに揺らした。
「おねえちゃん、それ、なに?」
「……お香の紙。昔の処方かもしれない」
綾は、焦げた紙片を指先で持ち上げた。
その表面から漂ってきたのは、淡くて落ち着いた香り——
「……白檀?」
目を細めたその瞬間、綾の記憶がふと引き戻される。
香袋には何の記しもなかったが、柔らかく折られた薄紙がひとつ入っていた。
その端に、朱の蓮の花びらをかたどった落款が、静かに浮かんでいた。
(そうだ……あの香袋にも、わずかに白檀が残ってた)
似ている、というより“重なった”。
香りの層が、記憶の奥で合図のように繋がる。
_____
夜、茶屋の灯りが落ちたあと。
綾はこたろうとふたり、囲炉裏の傍で静かに並んでいた。
「ねぇ、綾ちゃんのお父さんは生きてるの?」
ふとこたろうにぽつりと語る。
「……お父さん、いるよ。遠くの町で、医者をしてる」
「じゃあ、なんでいっしょにいないの?」
綾はしばらく黙ってから、
火の揺らめく中で小さく笑った。
「“あの人は娘を巻き込みたくない”って、そう言ったの」
父は幕府の医師として、江戸で大名家の治療や毒見に関わっている。
母が行方不明になってからというもの、
父は危険な香薬や、権力者の病を扱うようになっていった。
(たぶん、私が近くにいれば……あの人は、もっと壊れていた)
だから離れた。
だから、この香袋だけが、両親と自分を繋ぐ“最後の香”になった。
—
火がちり、と音を立てるたびに、こたろうの瞼はゆるく落ちていく。
その膝の上には、今日、市場で拾った古い紙片があった。
墨のにじんだ筆跡で書かれていたのは——
「白檀、干し蜜柑、樟脳、蓮華、氷蔵」
香の配合。
それは、綾の記憶の奥で、確かに一度だけ、母の手から渡されたことのある香りだった。
「……やっぱり、この香りは母の香りに似ている。」
綾の声は、吐く息よりも薄かった。
こたろうが小さく動いた。
「……綾ちゃんのにおい、すき。あんしんするにおい」
「え?」
「綾ちゃんと、におい。……でも、目がちがう」
「……目?」
「綾ちゃんは、わかんなそうな顔してる」
綾は、こたろうの言ってる意味がわからず言葉を返せなかった。
(まぁ、齢で言ったらまだ5〜6才だもんな。)
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五
その夜、志岐はひとり、香袋の中身を並べていた。
白檀、蜜柑、樟脳、そして……“氷蔵”。
それは、冷気に香を閉じ込める加工技術。
かつて、志岐が密偵として追った“記憶を操る調香事件”で使われた成分と酷似していた。
(……まさか、やっぱりあの事件と……)
志岐は、眉を寄せて香を閉じた。
そしてゆっくり立ち上がる。
⸻
六
綾は、店の片付けを早めに切り上げると、
裏口の近くにそっと腰掛けていた。
——今日の昼間、志岐が何か言いかけて、やめた。
そのときの視線。
そのときの手のひら。
(……言いたいことがある人の目だった)
綾は香袋を握ったまま、
うつむいてつぶやいた。
「どうせ来るなら……逃げないで、ちゃんと腹割って話したら?」
(う...挑発的な話し方になってしまった。)
「なんでもないって言ってるだろ。」
志岐はちょっとイラついた様子で肩を翻して行った。
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裏口が軋んで開く音。
振り返ると、そこにはやはり志岐の姿があった。
「……おれが来るって、どうしてわかった」
「……なんとなく。言いたそうな顔、してたから」
「……顔に出てたのか」
「ううん、目と、……背中」
志岐は返す言葉が見つからず、
ただ、顔を少しだけそらした。
綾は背を向けたまま、ふわっと笑った。
「でも、何も聞かないわ。まだ」
志岐は答えなかった。
「……そういえば、この家、よく見つけたね。誰も住んでなかったのに。快適に住まわせてもらってるよ、ありがとう。」
「あぁ、町の外れにちょうど空いてる場所があった。
昔ちょっとだけ通ってた家でな。持ち主の婆さんが今は隣町にいて、
話をつけたら“気に入ったら使いな”って」
「へえ……そっか、じゃああんた、この家のこと前から知ってたんだ?」
「……昔世話になったことがあっただけだ」
「ふぅん……なんか、ずっと“あの香り”が残ってたんだよね。ちょっとだけ、あったかくて、でも寂しい香り……そのお婆さん気になるなぁ。」
「……そうか」
(あの香りが、あんたに届いてたんだな)
____
志岐は黙って懐から小さな香袋を取り出した。
綾の持つ袋と、色も大きさも、刺繍の柄さえもよく似ている。
「……それ、どこで?」
「火事場の残骸の中だ。もう誰も住んでいない家の、梁の裏に引っかかってた」
「……偶然?」
「わからん。ただ――」
志岐は二つの香袋を並べ、
鼻先に近づけてそっと香りを嗅いだ。
「同じ調香だ。香りの流れ、成分の重なり方が一致してる」
「誰かが……作ったってこと?」
「意図的に、似せてな。誰かに“見つけさせる”ために置いたのかもしれない」
「それって……どういう意味?」
(偶然じゃない。……やっぱり、何かが始まってる
綾は、じっと袋を見つめ、鼻を近づかせた。
「香原料だけじゃない……これ、香芯に極少量のケシ成分が混ざってる」
「阿片か。脳の“海馬”に作用して、記憶の再構築を誘導する……母君の調香に近いな」
恐る恐る綾は言葉を紡いだ。
「香りを嗅ぐことで、過去の記憶が別の記憶と“結び変わる”。だから“思い出す”じゃなく“思い込む”のよ」
「……思い出させるために、かもな」
綾はしばらく黙っていたが、
香袋からふっと香る甘い香りに目を細めた。
ふたりの間に、風が吹いた。
けれど、それは冷たくはなかった。
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七
こたろうは、寝床で丸まっていた。
うつらうつらしながら、小さく呟く。
「綾ちゃんと、しき……」
「うん?」
「ふたりとも、においはちがうけど……なんか、にてる」
綾が首をかしげた。
「どこが?」
こたろうは、また眠りに落ちそうになりながら、最後にぽつり。
「どっちも、さびしそうなにおい……」
綾と志岐は、何も言わず、ただ静かに同じ方向を見ていた。
香の記憶が、ふたりの間にまだ名付けられない距離を残したまま、
そっと夜に溶けていった。
⸻
《第五話『夢より遠く』——完》




