第五話 夢より遠く(前編)
一
朝の市は、眠気と香りで満ちていた。
干し魚、香草、焼き立ての団子に、人々の声。
ふだんは静かな町が、この時間だけは別の顔を見せる。
綾はこたろうの手を引いて歩いていた。
「これは“たでぐさ”。お刺身に添えるときれいでしょ?」
「……たでって、たべるの?」
「ちょっと苦いけどね。……でも、体にいいの」
「じゃあ、しきにあげる」
「……なんで?」
「しき、くちわるいから」
「……苦味関係ないでしょ、それ」
綾は笑いながらも、こたろうの無邪気な視線を真正面から見られずにいた。
あの日の夜、彼がつぶやいた「おかあさんのにおい」という言葉が、
まだ心のどこかに引っかかっている。
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二
志岐は、少し離れたところで市場を見ていた。
木の影に背を預け、腕を組みながら、
綾とこたろうが歩く姿をただ静かに目で追っていた。
(……もうすっかり“親子”みてぇだな)
いや、そう思うのは勝手だが、
自分がその“外”にいるのを意識してしまうのが癪だった。
ふたりの間には、気配がある。
それは、言葉じゃなく、温度でもなく、空気みたいなもの。
志岐は、そっと視線を逸らした。
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三
「ねえ、綾ちゃん」
こたろうが、袋いっぱいの香草を抱えながら言った。
「おかあさんって、どういうにおいがするの?」
綾は、ふと足を止めた。
「……どう、って言われても」
「こないだ、ねてたとき。……なんか、におった」
「におった……?」
「うん。あまくて、すこしつめたくて……なつかしかった」
綾は目を伏せ、香草の匂いをかぐふりをしながら、こたろうに言った。
「……そういうの、覚えてるの。すごいね」
「しきは?」
「え?」
「しきのにおいは、“しけた ひのにおい”」
志岐が後ろで盛大にくしゃみをした。