夢現境《ゆめうつつのさかい》
「天帝様、お久しぶりです」
春も初めの蒼い空の下、咲き始めた花の匂いを含みつつ未だ冷えた風が音もなく吹き付ける中、断崖に独り立つ、長い黒髪を垂らし、白衣に緋袴を着けた、まだ若い、といっても二十四、五にはなる女はどこか諦めた風に微笑んだ。
――何故、剣を捨てた。
舟じみた細長い雲に乗り、虹色の光に包まれて立つ、やはり虹色に照り返す長い髪を垂らした、背高く端整だが女とも男ともつかない姿をした天帝の声が響く。
「もう私には必要ないものですから」
女は崖の遥か下に流れる、一筋の光る糸じみた河に目を落とした。
――まだ、道は半ばだ。
――ここまでそなたは懸命に戦って旅路を進んできたではないか。
天から冷厳な声が降ってくる。
「ええ」
女はまるで懺悔するように目を伏せたまま乾いた声で続けた。
「最初の藍燈港で討った白毛大狼と碧眼紅甲狼は元は異人に嫁いだ女とその子として街の人々に放火の濡れ衣を着せられ叩き殺された親子でした」
女の目は少し離れた崖の断面に固まって咲く黄色い福寿草に注がれている。
「母狼を庇って先に私に斬られた碧眼紅甲狼は七つにもならずに死んだ女の子です。小さな足に母親が縫った粗末な赤い端切れの靴を履いていた」
ビュオオオオ……。
人の泣き声にも似た風の音が崖上に立つ女を斜めに斬りつけるようにして吹き始めた。
「次の高麗鎮で倒した焰虎と氷虎の二頭も元は継母に憎まれ、実の父親にも見捨てられて湖に身を投げた姉妹です」
再び断崖の遥か下を流れる河に目を落とした女の手が握り締められたまま震えた。
「互いに鏡に映したように良く似た、優しく愛らしい面差しの娘たちでした」
ザッ……。
崖の断面に生じた僅かな段に留まっていた小石の一つが風に攫われるようにして落ちていった。
女はその一石が深い谷底に吸い込まれていく様を見詰める。
「そして、この散華谷で倒した九叉巨龍の正体は、身売りされて客を取らされ、病気になるともう使い物にならないと谷に落とされて殺された女性たちだったんです」
風がふと止んで、女の密やかな声が浮かび上がる。
「皆、私より若くて、まだ少女といってもいい年頃の人もいた」
天を見上げた女の顔は両の目からは透き通った粒が溢れて零れ落ちていくところであった。
「あの剣で切って倒した怪物は、皆、元の人の姿に戻って死んでいくんです」
――聖剣は怪物にされた者に掛けられた呪いを解く。
――呪いで蘇った者はそれが解ければ死ぬのだ。
天からの声に女は激しく頭を振った。
「どの人も生きている内には救われずに死んで、化け物になって、また私に殺された」
まだ若い滑らかさを多分に残した女の面に皮肉な笑いが浮かぶ。
「怪物を倒せば、確かに土地の人たちからは感謝されます。“聖剣の女侠”と持て囃されもします」
剝き身の苦さに変わった顔と声で続ける。
「でも、誰も化け物を産み出したのは他ならぬ自分たちだと省みはしない」
力なくまた谷底に目を落とした女は乾いた声で語った。
「怪物がいなくなった後でも、藍燈港の街では異人の子を産んだ女性は石を投げられ、高麗鎮では寒空の下で物乞いをしている子供たちがいます。九叉巨龍が破壊した遊郭の城塞も再建が進んでいますし、逃げ出した女性たちもほとんどが連れ戻されたようです。元から親兄弟に売られて身寄りも何もない人たちですからね」
「こちらにはどうすることも出来ません。剣客なんて言ったところで、所詮は流れ者の殺し屋ですからね。怪物が消えれば土地の人からはもう用無しですよ」
「私はただ、怪物を殺して得た報酬で食い繋ぎながら、次の土地に向かうだけ」
「遥か西方にある、仙魔大皇の住まう虚幻境を目指して」
女は白衣の腕で抑え込むように我が身を抱いた。
「あの剣を持っている限り、また化け物に変えられた人たちをこの手で殺さなくてはならない」
「化け物になる前に助けることも出来ないのに、化け物になった後に殺して手に入れた金で暮らしている」
「もう耐えられない」
雲の上に立つ存在は黙したまま変わらぬ厳然たる眼差しで見下ろしている。
「私は元から平凡な、弱い人間です。たまたま事故で死んで、あなたに言われるままこの世界に転生しただけの」
蒼穹の下に広がる初春の山河の光景を女は虚ろな目で見渡す。
「こんな巫女みたいな格好して、聖剣を携えて、仙魔大皇なんて底知れない存在を打ち倒すお役目には端から向いてなかったんです」
女は再び雲の上に立つ相手を見上げると寂しく笑って続けた。
「そんなこと、天帝様なら初めからお見通しだったのではありませんか」
何も言わずに見下ろす存在に空になった白衣の両腕を広げる。
「地獄にでも、どこにでも落として下さい」
むしろそれが唯一の希望であるかのように碧空に訴える。
「私のような弱い者が身を寄せ合って共に罰を受ける場所へ」
身に纏った白衣と緋袴が風を吸って膨らむ。
「いっそこの魂が消えても構いません」
天から眩い虹色の光が降り注いだ。
――それでは、そなたのこの世界での聖剣客としての任を解く。
*****
「気が付いたね」
消毒液の匂いが漂う病室でベッドの傍らの椅子に腰掛けていた眼鏡にスーツ姿の青年はパッと顔を輝かせた。
「酒井さん」
頭に白い包帯を巻いて横たわった女は驚いた風に目を見張る。
「ちょうど外回りから帰ってきたところで君が会社から飛び出すのが見えてさ、追っていこうとしたら俺のすぐ目の前で車に轢かれたんだよ」
「そうでしたね」
遥か遠い過去を懐かしむように女は微笑んだ。
「私、もう、上の人たちの不正にあれ以上、耐えられなくて」
青年は苦い笑いを浮かべて頷く。
「さっき、社長が逮捕されたって」
再び虚を突かれた面持ちになった怪我人に向かって飽くまで穏やかに告げた。
「俺もこれからどうするか考え中だけど」
「生きていれば、またやり直せますよね」
女はまだ真新しい包帯を巻かれた自らの両の拳を確かめる風に握り締める。
「私もこうして生き返らせられたのだから」(了)