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ヒーローですが泣きたいです

作者: ふわふわ

 くそ。まただ。

 俺は頭を搔きながら、木造アパートのベッドの上で上半身を起こした。

 やっぱり奴のにおいだ。酸っぱいのとへ泥臭いのが混ざったような凶悪な匂い。

 腹の上で団子になっているタオルケットをそっと持ち上げてみる。タオルケット異常なし。プロレス雑誌が散らかった畳の上、夜食の残りの皿がのった小さい机、大家さんが取り付けた昭和くさい電気の傘、すべて異常なし。まだここまで奴らは来ていない。

 だが、俺には、俺だけにはわかる。ヤバいと思ったときがそのときなのだ。

 そっと窓の外を覗いてみると、やはり、奴らは現れていた。ここから見えるだけでもアパートの前の狭い通りに3匹、ブロック塀の上に1匹、いや2匹。幸いまだそんなに多いわけじゃない。早めに目が覚めてよかった。これで1分でも遅く行動していたら、面倒が増えるばかりだ。

 さっさと片づけてしまおう。

 俺はベッドを抜け出して、すぐにベッドの下に落ちていたジーンズに右足を入れた。続いて左足を入れようと足を突っ込む。が、そのとき、左足の膝あたりの布がぶにゅっとして、ジーンズが溶けるように伸びた。

「うおっ」

 しまった。もっとそっと履くべきだった。ジーンズの膝が溶けるように裂けてしまった。

 口から悪態が洩れる。これ以上ジーンズを傷めないように、慎重にジーンズを腰までひきあげ、ジッパーを上げる。普通、ただ履くという動作だけでジーンズの布が裂けるわけはない。これは奴らが現れたときの現象だ。ぐずぐずしていたら、色々なものがぐにゃぐにゃに腐ったようになってしまう。

 俺はTシャツを着るのをあきらめた。この調子じゃTシャツまでボロボロにしかねない。俺は簡単に服を購入できるほど裕福じゃないんだ。今着ているこの寝間着で十分だ。

 さっさと行こう。

 部屋を横切ろうとして、プロレス雑誌を踏みつけた。雑誌がそこだけ飴が伸びたように潰れてしまった。昨日買ったばかりの雑誌じゃないか。まだ全部読んでねえんだぞ。

 ふと、部屋の隅に動くものを見止めた。 

 奴だ。ピンクがかった肌色のぶよぶよの蟹。いや、こいつは足が多いので蟹のようにみえるだけで、ハサミはないし、そもそも本当の蟹とは根本的に違う。

 普通の蟹というのは、海や川で自然の一員として、つつましく横にシャカシャカ歩いたり、もはもはと泡を吹いているもんだ。時には人間に食われたり、昔話の中で柿の種を植えたり、およそ邪悪とは正反対なものだ。

 しかしこいつは、ただ俺を苦しめるために存在しているのだ。他にもたくさん人間がいるのに関わらず、常に俺だけだ。

 いや、実際は他の人間や動物も蟹どもの被害に遭っているのだが、みんな俺が毎回助けているから、結局被害に遭っていることも助けられてることも誰も知らない。みんな何も知らないのだから、俺だけが被害に遭っているというのは間違いじゃないだろう。

 しかしなんで俺が毎回こんな目に遭うんだ。俺がみんなをほっとけば、みんな蟹の毒で死んでしまうし、かといって助けたって誰も感謝なんてしてくれない。一体なんなんだ。どうしてこうなった?まったく腹の底からむかつく。

 俺は部屋の隅にいる蟹を横目に玄関のスニーカーに足を突っ込んだ。

 そのとたん、スニーカーはぐにょーんと何の抵抗もなく伸び、俺は股裂き状態で転倒、壁に頭をぶつけた。

 側頭部の激痛と、股関節の悲鳴で、しばらく動けない。

 スニーカーはダンプカーがカエルを轢き殺していったみたいに、ぺったんこになっていた。

 くそっ。奴に気を取られて慎重に靴を履くのを忘れた。靴を失ったのは痛い。もう今度靴を買うときは一足980円でいい。お気に入りのスニーカーよさらば。

 玄関のドアノブをそっとまわす。毎回ドアノブが千切れやしないかとハラハラする。よし。今回も大丈夫。なぜか自分の持ち物以外は、蟹の毒で腐るのが遅いように思う。いや、思うだけで、油断はできない。アパートのどこかを腐らせて弁償だけは勘弁である。

 仕方ない。裸足で走るか。俺はアパートの階段を駆け下りた。

 ぼやんとした不明瞭な明け方。奴らの一番好きな時刻と空模様だ。

 俺はその場で屈伸運動をし、手足をぶらぶら振って関節をほぐした。

 こうしている間にも、俺の周りには、蟹どもが一気に20匹ぐらいに増えてきている。1匹1匹が大人の拳大ぐらいの大きさのこいつらは、時折口からぶくぶくと腐ったような悪臭を発する泡を出し、俺の胃を雑巾を固く絞ったような感覚にさせる。

 この感じだと15周くらい走れば足りるかな?

 俺は狭い小道を走り始めた。

 

 まずアパートを左にまっすぐ走る。そして、アパートと大家さんの屋敷を囲むように左へ左へと曲がりながら一周する。距離にして300メートルほどだろうか。ここをぐるぐる回ることで、なぜかこのぶよぶよのピンクの蟹はだんだんと消えていく。なぜ走れば消えていくのか何度考えてもわからない。わからないが走らないと消えてくれないので走っている。

 さっきの小道を曲がると、さきほどとはくらべものにならないほどの沢山の蟹どもが、ピンクの身体をぶよぶよさせて大通りを埋めていた。

 思わず鼻を覆う。

 すげえ臭いだ。こりゃもう誰かやられてるに違いない。

 案の定見つけた。電柱に鼻柱をめり込ませて停止しているワゴン車があった。車体に秋川クリーニングとある。近所のクリーニング屋のおやじだ。

 運転席の窓が大きく開いていたせいで、早いうちに蟹の毒を吸ってしまったのだろう。運転席から助手席の方に身体が流れるようにぐったりしている。半開きの目、だらしなく開いた口。確かめるまでもない。死んでいる。額から血が流れているが、他に怪我らしい怪我は見当たらない。車が衝突したときの怪我で命を落としているわけではなさそうだ。これなら蟹の毒を除けば生き返るだろう。

 窓を開けてなければ、蟹が多少現れたくらいでは毒を吸わずに済んだだろうに。

 明け方に窓を開けるべからずっていう法律を作るべきだ。くっそ、これであと10周追加か。

 足で蟹のぶよぶよな腹を蹴っ飛ばしながら走る。人も車も通らない、いやらしい色をした蟹だけが蠢いている大通りで、信号がぽつりと色を青に変えた。

 人は蟹の毒を吸うと死ぬ。大抵この時間、人々はまだ眠りの中だし、朝の早い新聞配達もこの時間よりもう少し遅い時間に来る。だから、窓さえ開いて閉めていれば人が死ぬ確率をぐっと下げることができる。毒を吸う機会の少ない、窓を閉め切っている冬は、断然走る距離が短くてすむ。問題は真夏だ。いくら泥棒が最近頻発するとはいえ、2階の窓だったら大丈夫だろうと開けて寝ている家が多い。

 去年の7月8月あたりは、週に2、3回、毎回20周以上は走ったっけ。もういい加減ブチキレた俺は、一計を案じて、大家さんと立ち話していた近所のおしゃべりなおばさんに、それとなく空き巣がこの辺りで頻発しているから窓を閉めて寝た方が良いと嘘をついてみた。秋川商店街のスピーカーと呼ばれるそのおばちゃんは、見事もくろみ通りふれまわってくれため、見事夏の終わりの残暑のころは、ぐっと走る距離を減らすことができたのだ。

 だが、最近ではその嘘の効果が薄れ、窓を開けて寝る家が増えてきた。今は6月だから、そろそろまた何か手を打たないといけない。

 町の人たちの安全のために!

 そうだ。俺は彼らを救わなければならない。

 何も知らず蟹の毒で死んでしまう彼らを、俺は救っているんだ。なんだこれ、俺ってばヒーローじゃん。

なぜかわからないけれど、俺は走ることによって、蟹を退治し、毒を除去することができる唯一の存在なんだ。あれ?俺マジかっこいい。

 俺は気分が良くなり、走るスピードを上げた。大通りをまた左に曲がって、小さい店舗がずらっと並ぶ秋川商店街に入る。すべての店はまだシャッターをおろしていて、ひっそりと静まり返っている。ここにもそこかしこに蟹がわいていた。それでもこの商店街は、他の道に比べてあまり蟹がわいていないような気がする。みんなが固く窓やシャッターを閉めて寝ている傾向にあるからだろうか。蟹は人や動物の気配があるところでわきやすいということか。

 一番死人が出たときのことを思い出す。そうだ、あれは3年前の元旦のときだった。なぜか近所で初日の出を拝もうと盛り上がって、酒が入って酔っぱらった大人たちがこの商店街の不動産屋の屋上に集まって夜通し大騒ぎしたときだった。あのときだけで、あのビルだけで36人死んでいた。他のマンションの屋上でも死んでいたので、いちいち数えはしなかったが、相当数の人間が初日の出を拝もうとして死んでいた。総勢100人は超えるだろう。

 あのときのことを思い出すと、辛すぎて涙が出てくる。あのとき、俺は1周走るたびに電柱にマジックで正の字をつけていったのだが、蟹が完全に消えるまでに、俺は1020周も走っていた。なんで新年早々こんなに走らなくてはならないのか、走りながら涙が溢れてとまらなかったっけ。そして、酷い孤独を感じたんだ。例えば、マラソン選手は走っている間孤独なのだろうが、俺に言わせてもらえば、走るとき以外は支えてくれる仲間がいるのだから全然孤独ではない。だが、俺は、徹頭徹尾独りだ。

 誰も感謝するどころか、この事象の存在すら知らない。メロスだって、あそこまで頑張れたのは友人がいたからだ。だが、俺には誰もいない。誰もいないんだ。

 

 ひっそりとした商店街をまたさらに左に曲がり、住宅地の小道に入る。ここは地区30年以上経つ戸建てが並んでいるところで、定年か、定年間近の父親のいる家庭ばかりだ。

 ここの道には、ある家の小ぢんまりとした庭に、秋田犬のジョンとセキセイインコのピーコとピッピがいる。どちらも家の外で飼われているため、毎回蟹の毒にやられて死んでは、俺に助けられて生き返る奇跡の動物だ。俺はこのかわいそうなこいつ等のために、頑張らなくてはならないと思う。

 俺はジョンが好きだ。こいつはおやじ臭い顔をして、いつも犬小屋の前でどてっと寝ているくせに、人が通るとすごい勢いで吠える。見知った近所の人間でも構わず吠える。

 だが、ジョンは家人と俺にだけは吠えないのだ。これは密かな俺の自慢である。

 俺が毎回助けてやっていることをわかっているのではない。他の事件で助けてやったことを覚えてくれているからだ。

 以前、雷に驚いたジョンが、リードを繋いでいた杭を引き抜いて逃げ、迷子になった時、俺が見つけて家に連れて帰ったことがあった。そうだ。今でもよく覚えている。あの時ジョンは家から2キロメートルも離れた民家のガレージに縄を絡ませて、身動きがとれなくなっていた。壊れた自転車を修理屋においてきた帰りに、土砂降りと雷に見舞われて、俺自身だいぶくさっていたときだ。雨宿りする気もなくなるほどびしょ濡れで歩いていると、なにやら視線を感じて立ち止まった。すると、そこには身動き取れなくなったジョンが、やっぱりびしょ濡れの姿で、情けない目で俺を見上げていた。

 俺は以前からジョンには何回か話しかけていたが、吠えまくりの返事で歓迎されたことはなかったので、はじめはジョンによく似た別の犬かと思った。だが、もしジョンじゃないとしても、こんなところでガレージにリードを絡ませてびしょびしょになっているのを放っておくわけにもいかない。

 俺は、試しに、「ジョン」と声をかけた。すると、その犬は情けないおやじ臭い顔を少し上げ、元気なく尻尾を振った。

「あれ?ジョン?本当に?」

 ジョンはまた俺の声に反応して尻尾を振り、そのしょぼくれた顔をガレージの門にからまりついたリードに向け、くんくんと臭いを嗅いだ。

 俺はリードをガレージから解いてやり、家に連れて帰った。まだ雷は鳴っていたが、ジョンはおとなしくついてきた。

 それ以来、ジョンは俺を信用してくれている。

 そうだ。ジョンの俺への信用に答えるためにも、俺が助けてやらなくてはならない。

 俺はジョンとの思い出に元気づけられて、一気にその道を駆け抜けた。

 蟹のせいで、しょっちゅう走っている俺の走りはとても軽い。しかも裸足で走ることが多いため、足の裏の皮も厚い。おかげでここ数年、風邪をひいたことはないし、身体も引き締まっている。俺は顔は冴えないが、身体だけは自慢できるのだ。

 そして、また右折する。これで1周。まだ蟹どもはびくともしないで小道を蠢いている。時折り、口から黄色い泡を吹きだすのがたまらない。これを直接吸うと、死なない俺でさえ、頭の奥が強烈にしびれる。

2週目に突入。大通りに出て、向いのビルの銀行の時計を見る。朝の4時45分。

 クリーニング屋のおやじは死んだまま。

 蟹が一斉に毒を吹いている所を、息を止めて走り抜ける。

 3周目、4周め、5周目、まったく周りの状況は変わらない。おやじも、ジョンもピーコもピッピも死んだまま。蟹は数は増えないが、減りもしない。

 6周、7周、まだ変化はない。だが、銀行の時計の針の秒針が、少しずつ左巻きにじわじわ動きだしていた。よし、変化が出てきた。

 8周目、ピッピだかピーコだか、色が同じでどちらかわからないが、片方が止まり木に戻っていた。

 9周目、もう1匹のインコが止まり木に戻っていた。

 13周目、ジョンがそれまでとは違う態勢になっていた。生き返って寝返りを打ったのだ。だが、苦しそうだ。まだ蟹の毒が強いのだ。

 俺はジョンが苦しまないように、ジョンのそばにいた蟹を、遠くに蹴り飛ばした。

 このあたりから急に蟹の数が減り始めた。ゴールは近い。

 15周目に入ると、あれだけ大通りを埋め尽くしていた蟹が、まったくいなくなっていた。銀行の時計を見ると、針は左に回るのをやめ、右に回りだしている。

 クリーニング屋のおっさんが、ワゴン車の中で、苦し気に頭を振っているのが見えた。生き返ったのだ。怪我の状態が軽ければいいのだが。

 もう1周すると、おっさんは車から降りて、電柱にめり込んだ車を腕を組んでじっと眺めていた。怪我の程度が軽いようでよかった。

 また商店街を通り、ジョンのいる家の前を通り、アパートの前を通り過ぎる。

 うっし。念のためもう2周しておくか。俺はスピードをあげた。これくらいの距離ではまだまだ息はあがらない。早く終わらせてしまおう。

 俺は、いつもこの謎のマラソンが終わるころ、いつも同じ不安にかられる。だから、その考えを振り払いたくてスピードをあげる。

 その不安とは、つまり、はっきりと、ズバリ、明確に言えば、俺自身が狂っている可能性についてだ。いやいやいや、絶対に俺の頭がおかしいわけではないことはわかっている。なぜなら溶けた自分の持ちものが世界が正常に戻ってもそのままだということが動きようもない証拠だ。妄想だけの出来事なら、なぜジーンズが溶けて破れたり、プロレス雑誌が潰れるだろうか。

 だが、同時にこの現象を自分自身しか認知していないというのが気になる。誰か他にも俺と同じ体験している人間がいれば安心するが、どうも蟹の毒の被害にあった人は、そのときの記憶がないようだし、もっと言えば、蟹の毒で死なない俺のような人間に会ったとがないんだ。

 もし蟹が現れても、無視してベッドの中で寝ていたらどうなるんだろう。そう考えると胸がどきどきする。

 もちろん、みんな蟹の毒で次々と死んでいくだろう。窓を閉めていたって、密閉しているわけではないから、いつか家の中で死ぬ。その規模はどれくらいになるのだろう。この近所だけで済むのか、町ひとつか、日本中なのか、世界丸ごとなのか。

 っていうか、なんだよ世界とか。この近所を救うだけで精一杯だっつうの。ああ狂ってる。

 ………狂ってる?

 ………いや、やっぱり狂ってるのは俺じゃないのか?

 だっておかしいだろう。なぜこの状況を俺しか知らないんだ。誰か気が付くだろう普通。

 そうだ。これは全部俺の脳みそが作り上げた幻想だ。すべて非現実なんだ。買ったばかりのデジカメが、持ち上げたとたんスライムのように崩れたのも、こたつが生まれたての小鹿のように膝をついたのも、お気に入りのスニーカーが伸びきったことも、すべて幻だ。実はすべて何ともなくて、俺以外の人間が見ればちゃんと元の姿で見えるはずだ。

 そうだったのか。俺は狂っていたんだ。じゃあ、精神病院行けばいいじゃないか。こんなふうに毎回苦しい思いして走るよりも、精神病院行って、病名もらって、薬飲んで安静にするほうが何倍もマシだ。理由がないこの苦しみから解放されるなら、どんな病名でも受け入れてやる。

 俺が病気なのなら、俺はもう走らなくていい。今度蟹が現れても、布団の中で眠り続ければいい。

 きっと精神病院の薬を飲んでいても、はじめのころはまだ強烈に蟹の毒を感じるのだろう。そして、周りのものが腐るのを感じ、しまいには自分も腐っていくのを感じるのだろうか。俺は、それに耐えなければならない。治療の過程は耐えることが必要だ。忍耐だったら自信がある。俺の忍耐力があれば、きっと病気だって完治するだろう。

 そうだ。もう家に帰ろう。一回ぐるっと周ったら、シャワー浴びてもうひと眠りして、そんで起きたら保険証を持って精神病院にゴーだ。

 また大通りに出る。大通りでは車が何台か通り過ぎていく。完全に時が元通りになったようだ。

 走りながら、ふと、視線を感じた。

 クリーニング屋のおっさんが、こちらを睨んで、仁王立ちで立っていた。そして彼は怒鳴った。

「おい!貴様。さっきもここを通ったな!何を呑気にジョギングなんかしてる。貴様は困っている人を見殺しにするよう親にしつけられてるのか!」

 俺はびっくりして、標識に右足の甲を思い切りぶつけて無様にこけた。激しい痛みに、うずくまって足の甲をおさえる。

 おっさんの怒りは止まない。固い髪質の髪が逆立っている。怒髪天を衝くってこういうことか。額から血を流しているから、余計恐ろしい。

「貴様のように自分の事しか考えとらん若者がいるから日本が駄目になるんだ!それに、なんだそのぼさぼさ頭は。ちゃんと就職してるのか」

「だ、大学生っす」

 俺も答えなきゃいいのに、おっさんの権幕につい答えてしまう。

 手のひらが擦り剝けて血が滲んでいる。足の甲がズキズキする。もしかして骨がいったか?

 おっさんはうずくまっている俺の前に立ちはだかり、腕組みをして上からギロリと睨みつけてきた。

「擦りむいたくらいでなんだ。軟弱な。情けない顔してないで、さっさと警察に連絡してくれ!」おっさんは俺の襟をつかんで、えい、と俺を持ち上げ、立たせた。「ったく、今時の若いやつは、そんな破けたジーパンなんか履きおって。格好つけてるつもりか」

「わわわわわわわ」

 俺は生来気が弱い。もうこうなると言いなりになってしまう。

 俺は電話をかけに走り出したが、ふと、さっきのおっさんの言葉が頭をよぎって走りが止まる。

 おっさんは、俺のジーンズが破けてると言ったよな?もし、この蟹の化け物が俺の頭の妄想の産物だとしたら、蟹の毒で敗れたこのジーンズは、普通の人間なら破けてるように見えないはずだ。いや、それも俺の妄想なのか?え?いやそんなわけないだろう。ああ、もうわけが分からなくなってきた。

 いやとにかく!おっさんもジーンズが破れているのは見えている。ということは、きっと、これは、「現実」だ。

 俺は電話をかけにアパートに戻ることをやめて、また走り出した。足の甲がずきずき痛むが、あと1周はしておきたい。この1周をさぼったせいで、蟹がまた出現したら、俺はまた余計に走らなければならない。

 このおっさんだけが死ぬなら、俺はもう走らないだろう。だが、蟹は相手を選んで出現するわけじゃないから、またジョンをはじめ、近所の人や動物を苦しめることになってしまう。

「たまには人の役にたったらどうだ!」

 後ろからイライラしたおっさんの怒鳴り声が、朝早い交差点のビルに反響した。

 俺は足の甲の激痛に歯を食いしばった。

 なぜか足の甲の激痛よりも、手の平の皮が剥けたところの痛みが悲しかった。 



 

 

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