最高に倫理的な生き方が許される時代
1
私は今日タイム・マシンに乗る。
タイム・マシンに乗って未来へ行く。
過去に行くことはできないが、未来に行くことは可能である。
これは20世紀後半からよく知られた事実だった。
何も難しい話ではない。
ただ超高速で移動すればいい。
問題は乗り物と…だれが乗るのか?ということだった。
人類の進歩は凄まじく。
乗り物については、どうにかこうにか都合がついた。
宇宙空間に建設された…巨大な構造物。
この構造物は筒を環状に繋げた輪っかのような形になっており、グレートリングと呼ばれた。
その中をタイム・マシンが超高速でぐるぐるとまわるという寸法だ。
その搭乗者第一号に、このたび私がめでたく選ばれた。
(応募数100億人の中から、1人を選ぶ抽選だった)
「世界初のタイム・トラベラーになるお気持ちはいかがですか?」
「ご家族と今生の別れになるわけですが、昨夜はどのように過ごされましたか?」
「世界一高価なジェットコースターに乗るわけですね」
「あなたは今日死ぬようなものだ。今生きている人には二度と会えない。葬式は上げましたか?」
くだらない質問。くだらないヤジ。意味のない感想。
彼らインタビュアーは詰まるところ、こう聞きたいのだ。
「どうしてタイムトラベルをするのか」
どうして!私にとっては愚問も愚問。大愚問だ。
私は一つのカメラの正面に立ち、言った。
「この世には問題が多すぎる。飢餓、戦争、貧困があるかと思えば、飽食、贅沢、堕落に満ちている。差別や分断が蔓延っている。真正の誠実さや正しさが報われず、虚無主義がこの世を支配している。」
「こんな世界では、とてもやっていけない。私はただ、もうちょっとマシに生きて、死にたいだけなのです。」
「もう少しだけ、倫理的に生きて、死にたいだけなのです。」
そういって私はタイム・マシンに乗り込んだ。
その際、パシャリとカメラのシャッター音がした。
結局はそれが、タイム・トラベル前に聞いた、最後の音となった。
2
未来へ去って行ったタイム・トラベラーには知る由もないことだが、
彼の今際の言葉は波紋を呼んだ。
たいていの場合は、真面目を気取った厭世家の言としてなかば馬鹿にされ、重く受け止められはしなかった。
ただし、極少数の人間の心には響いたのだった。
彼はある意味で死んだ。
生きている人間はもう彼にあえないからだ。
だがある意味で永遠に生きている。
人が何世代も生まれ死ぬ時の流れのなかで、事実として生きているのだ。
彼がある種の宗教的シンボルになることに時間はかからなかった。
その宗教の教義は概ね以下のようなものであった。
「タイム・トラベラーが帰ってくる前に、最高に倫理的な生き方が許される時代にしよう」
月日が流れた。
3
「タイム・マシン歴134987年、ついにこのときが訪れました!」
感動を隠せない、アナウンサーの声が響き渡る。
そう、タイム・トラベラーがその人類未踏の旅行を終えたのだ。
「今のご気分はどうですか?」
女性インタビュアーがタイム・トラベラーに質問する。
タイム・トラベラーは首を振ってこたえた。
「妙な気分だ。なにもかも変わっていないように見える。ここは本当に未来なのか?」
「ええ、あなたにとって途方もない未来です。」
メンタル面へのショックを軽減するために、
タイム・トラベル前の環境をできるだけ再現したのだと説明を受け、
タイム・トラベラーはやや不満ながらも納得をした。
「お腹が減っているでしょう?ずいぶん長い間何も食べていなかったのですから」
歓待を担当するものが、タイム・トラベラーを食事へと連れて行った。
「これは?」
「ステーキです。おいしいですよ。」
メニューはこれもトラベル前と変わらぬ、最高級ステーキだった。
タイム・トラベラーはがっかりした。
「なんだ、結局、未来でも人間は家畜を殺生しているのですね。」
トラベラーは、裏切られたような気分だった。
「いえいえ!家畜の殺生などしておりません。
現在は医療が発達しておりまして、すべての肉は切り取ったのちに再生しております。サイボーグ技術・人工生命学の技術を用いる場合もありますが、ケースバイケースですね」
タイム・トラベラーは絶句した。確かに、『殺して』はいない。
その点で、倫理的という主張も分からなくはない。
だが、どこか釈然としない理屈だと感じた。
牛のある部分を切り取り、それを人工的に延命し生かすことは、やはり不自然ではないだろうか?
心臓や内臓の料理もあるようである。
技術の進歩には脱帽だが、これはどうなのか。
とにかく、タイム・トラベラーは食事をした。
その肉の美味たるや!
とても柔らかく、ジュウシィだ。
少し肉が小さいが、さまざまな部位があり、とても美味しい。
これで何も殺生していないというのだから、恐れ入る。
「おいしい」とトラベラー。
「味付けの技術も格段に進歩しましたからね」と胸をはる歓待係。
思うところはあるが、人間は欲望と倫理の妥協点を見出したのだろう、
とトラベラーは納得した。
何も殺さず、これほどおいしいものを食べられるのだから、
それはそれで、いいことなのだろうと。
「なるほど。随分と、人間は倫理的になりましたな
家畜を寿命まで飼うとは」
係官はきょとんとした顔になった。
タイム・トラベラーは急に正体不明の不安に襲われた。いやな予感がする。
「ただ食べられるためだけの、ヒトに都合のいい家畜を飼うことは、はたして倫理的でしょうか」
係官は教典をそらんじるかのように言葉を重ねる。
「我々はそう考えませんでした。あらゆる可能性を検討した結果、
「自分で自分を傷つける」ことは、他者を傷つけることに比べて、いくらかはマシだろうと」
タイム・トラベラーは数秒の沈黙のあと、ステーキの皿を見た。
係官は言った。
「つまりそれは私です。」
タイム・トラベラーはあっけに取られた。「なんですって?」
「ええと、つまり、私です。ステーキ用の肉を生産する遺伝情報を人体に一時的に組みこみまして…。即成でも良いのですが、せっかくですので、10ヶ月かけてじっくり仕込みました」
トラベラーは吐き気を覚えたが、必死に堪えた。
「失礼…少し驚きました」とタイム・トラベラーは言った。
「ああ、申し訳ありません。それはそうでしょうね。
ここはあなたにとって途方もない未来ですから。
感覚が違うのは当然のことです。」と係官。
「ですが、我々もあなたを最大限に歓待したいと思ったのです。ご理解ください。
確かに子宮利用食用肉生産術は嬰児食いを思わせてグロテスクという意見もあるのですが…」
「なんですって?」
もう一度、間の抜けた声でタイム・トラベラー。
「子宮利用食用肉生産術です。」と係官。
タイム・トラベラーは改めて肉をみる。
彼は理性を総動員する。
なるほど。
子宮は肉を生成するには良い場所だ。
何せ元々そのための場所だからだ。
合理的で…しかも、倫理的だ。
何せそれはただの肉だ。
意思のない…肉を生成する遺伝情報に人間の肉体が反応したにすぎないものだからだ。
そうしてタイム・トラベラーは理性的に考え自分を納得させ、もう一度肉を口に運んだ。
あまりにも柔らかく、あまりにも小さく、あまりにも美味しいその肉を食べて…
タイム・トラベラーは強烈な吐き気に見舞われた
本能が叫んでいる
子どもだ!
お前は子どもを食べた!
理性が必死に否定する
違う!違う!違う!
子どもじゃない
遺伝情報に人間の肉体が反応してできた、意思のない肉だ!
だが、自分の中のそれは反論する
なんだって?お前自分が何を言っているのかわかっているのか?
子どもは遺伝情報に人間の肉体が反応してできた、肉じゃないか
どうして意思がないなんてお前にわかるんだ
タイム・トラべラーは嘔吐した
技術の進歩のため、嘔吐さえ美味であったという