マグリブ・イベリア遠征&イタリア遠征論
さて、イサキオスの軍はハフス朝・ザイヤーン朝・マリーン朝を圧倒していた。
1331年9月 - ザイヤーン朝滅亡
1332年8月 - ハフス朝滅亡
1333年11月 - マリーン朝の北部を併合
さらにイサキオス軍はイベリア半島にも上陸した。
1334年1月 - ナスル朝滅亡
イサキオス軍はカスティーリャ王国・アラゴン王国・ポルトガル王国を圧倒し、そして…
ーーーーーーーーー1334年10月
ーーーーーートレ・デル・カンポの戦い
1334年10月16日にハエン近郊のトレ・デル・カンポで両軍は戦闘を開始した。
イベリア連合軍の配置は、カスティーリャ王の軍勢が中央に陣取り、ナバーラ王、ポルトガル王の軍勢が右翼、左翼にアラゴン王の軍勢が陣取っていた。
はじめは小競り合いのような戦いが繰り返された。イベリア連合軍は約50000、東ローマ軍は約15000の兵力であった。
イベリア連合軍は正面からの衝突をなるべく避けて、東ローマ軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。イベリア連合軍は東ローマ軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するように見せかけて、主力の厚みを生かして一気に反攻するつもりであった。
イベリア連合軍が後退を始めた時、それを見ていた東ローマ軍は、アルフォンソ11世の本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた。
カスティーリャ軍は大混乱に陥った。アラゴン軍やナバーラ軍、ポルトガル軍との小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。
イベリア連合軍は慌てふためいて、3万とも4万ともいえる犠牲者を出して敗走した。
その後イサキオス軍は1335年3月までには南イベリアを征服した。
そのころ東ローマ帝国中枢では、ある論争が起こっていた。
「北イタリア遠征を行うべきである!」
「いや、行うべきではない!」
「行うべき理由は
一つ、南イタリアとの連絡が陸路で出来るようになる
二つ、ローマ帝国復興にはどうしても欠かせないローマがある」
「行うべきでない理由は
一つ、莫大な戦費が掛かる
二つ、神聖ローマ帝国との全面対決となる」
「「どうするんですか皇帝陛下!」」
「…」




