犯人と、切ない想い
キャンパス内、人通りの少ない屋外。
ベンチに腰を掛け、木漏れ日を浴びながら。
「あの先生、研究者として、本当にすばらしい方なのよ――」
言って、アゲハさんは悔いるように息を吐いた。
隣に座る山田さんも、何とも困ったような表情を浮かべている。
先生はあの後、僕たちと目を合わせることなく、肩を落として立ち去ってしまった。
椎名さんは、山田さんのことを気にしながらも一人、四限の授業へと向かった。
「先生がこの大学に来られたのは数年前、学長選挙の対立候補として祭り上げられてのことらしいのだけれど、それは失敗して……それでもこの大学で精力的に研究を続けられていた。生涯独身。まさに学問に身をささげた人なの」
そんな人間が、生まれて初めて恋をした。
相手は自分の講義を聴く女子学生。
もちろん大きく歳の離れた相手。まさか直接、心の内を告白するわけにもいかない。
せめて名前を知りたくとも、初恋が故か、どう声をかけて良いかわからない。
そこで彼は、履修者名簿をもとに相手の名前と学籍番号を割り出し、恐らくは悩んだ末に、ラブレターのようなメールを出した。もちろん身元は伏せた上で。
返事が来ないことに焦りを感じ、年甲斐もなく感情をこめたメールを送ってしまったりもした。
だがしかし、彼はとんでもない勘違いをしてしまっていた。
履修者名簿に、学生の顔写真など載っているはずもなく。
彼は、消去法で、彼女の名前を割り出した。
つまり、授業に出席している女子学生のうち、想い人以外の名前を調べたのだ。外堀から埋めていくとでも言うのか、椎名さんのように質問をしにきた者に対して、名前を確認するなどしたのだろう。元より名前を知っていた者もいたかも知れない。幸いにも授業に出席している女子学生は少なく、その企みは成功した。
そして最後に残ったものが、彼女の名前だと。
彼はそう思いこんだ。
しかし、彼が恋をした相手――着飾る様子もなく、純粋という言葉が似合うと評した女子学生は、実はモグリで、そもそも名簿に名前が載っていなかった。
その上、授業をサボっているにもかかわらず、不正により出席扱いとなっていた女子学生がいたことが――彼にとって厄難だったのかも知れない。
「教室にいないはずの者がいて、いるはずの者がいなかった、か」
木々の隙間から覗く水色の空に向かって、思わずそんなことを呟いていた。
高校の先生が名前を読み上げて出席を取っていたのは、顔と名前を一致させるためだったんだなあと、そんな当たり前のことを再認識した後、僕は立ったまま、ベンチに並んで座っているアゲハさんと山田さんの顔を眺めた。
二人とも気まずそうに眉をしかめている。美人と美少女が台無しだ。
「そういえば同じ年なんだっけ……」
などと、聞かれたらまた怒られてしまいそうな言葉を呑み込み、僕は気になっていたことを尋ねてみた。
「ええと、アゲハさん。あの先生がメールの送り主だったってこと、最初から気付いていたんですか?」
モグリだからと目立たない席に座っていたのに、授業後に先生を呼び止めたこと。
先生が、アゲハさんを一年生だと誤解していたことを、知った後の反応。
それらは、メールの送り主が先生であると、理解した上での行動のように思えた。
アゲハさんは軽く息を吐き、顔を上げると、普段通りの凛々しい表情で答える。
「最初からではないわ。土曜日、あなたたちと別れた後、とりあえずいくつか条件を絞って調べてみたのだけれど、その条件に当てはまる人物があの先生だけだったの」
「条件?」
「山田さんが受講している授業の担当教員であること。独身。そして山田さんが今のようにお洒落な格好をしていることを知り得ない者。でも最後の条件は――」
「ちょ……ちょっと待ってください」
山田さんが口を挟む。
「メールを送った人が独身かもってことは、メールの内容から何となくわかります。でも私が受けている授業の『先生』だというのは、どうしてわかったんですか?」
「――句読点よ」
「くとうてん?」
「日本語文章における区切り符号。いわゆる『てん』と『まる』ね。あのメールでは『てん』が一般的な読点ではなく、『カンマ』が使われていたでしょう?」
「え」
山田さんがスマートフォンを取り出して操作する。僕は上からそれを覗き込んだ。
「あ、ほんとだ」
「日本語の横書き文章においては、読点として『カンマ』を用いよ――国などが作成する公文書においてはそう定められているの。戦後すぐに、当時の文部省が定めた基準がそのまま使われているらしいのだけれど、社会科学分野の学術論文や専門書においても、その基準に従っているものは多いわ。ちなみに自然科学分野では、句点は『まる』ではなく『ピリオド』を使うのが一般的だったりするのだけれどね」
「へえ……」
初耳だった。僕は納得したように言う。
「なるほど、そういった専門的な文章をよく書く人であれば、パソコンの日本語変換機能の設定を、句読点として『カンマ』と『まる』がすぐに表示されるように変更しているということですね」
「そう。でもメールに些末な誤字があったでしょう。まさか大学教員たる者がこんなミスに気が付かないわけがないと思って、最初は大学院生あたりではないかと推測していたのだけれど――」
アゲハさんは僕の顔を見て、わずかに優しい表情を浮かべながら。
「推敲もせずにメールを出してしまう場合もある――確かにその通り。専門的な文章を書く技術を持っている人でも、感情をこめた文章を人に送る術を知っているとは限らないもの、ね」
言って、再び悲哀の色を見せる。
「それで……送り主が教員であると仮定して調べてみたの。山田さんが受講している授業の先生で、独身の男性は何人かいたけれど、一つを除いて、語学やプレゼミといった少人数の授業だった。どれもきちんと出席していたようだし、山田さんの恰好が変わったことに気が付かないことはないと考えて候補から外した。残った一つが経済思想史だった。でも――」
口元に手を当てて、続ける。
「山田さんは、あの授業に途中から出席してなかった。先生からしてみれば、想い人が教室からいなくなってしまったということ。そんな状況で『どうして返事をくれないの』というメールを出すのはおかしいでしょう?」
「あ、そうですね、何かあったのかと心配すると思います。それをメールに書くかどうかは別としても……」
山田さんが答える。
「そう。私もそのように考えたのだけど――思い出したの。山田さん、あなたが『経済思想史は出席確認を友達に頼んでいる』と言っていたことを。それで私は、ある可能性に気が付いた。先生が、その……大きな勘違いをしている可能性に……ね」
アゲハさんが、彼女にしては珍しく言葉を濁す。まあ言いにくいことだろう。
彼の想い人が山田さんではなく、自分自身かも知れないということなのだから。
「もちろん勝手な憶測でしかない。それでも念のため確認することにしたの。それは、先生に私の名前を告げるだけで事足りたはずだった。ただ折角だからと質問をして――つい熱くなってしまったのが良くなかったのかしら……ね」
その言葉には後悔の念が滲んでいた。
アゲハさんとしては、もし先生が勘違いしていたのであれば、その勘違いについて、人知れず気付いてもらうだけで十分だったのだろう。でも……
「山田さん、それにツクモ君――」
アゲハさんは僕たちに誠実な目を向けて、言う。
「ラブレターとはいえ、あんな形でメールを出すことが良いことだとは思わない。けれど、先生ほど学術的権威のある――いえ、先生ほど老齢の男性が、衆目の中で頭を下げる。それがどういうことか、わかってあげて」
「……はい」
山田さんは小さく頷いた後。
「あのメールのことはもう忘れます。でもアゲハさん、お願いがあるんですが――」
少し遠慮がちに言う。
「先生と、その、もう少しお話し……してあげてくれませんか」
「え」
「さっきアゲハさんと先生が話をしていたとき、私には難しくて全然わかんなかったですけど……その」
緊張気味に、唾を呑み込んで。
「先生、とても楽しそうだったから……」
もじもじとしながら、そう言った。
アゲハさんは少し驚いた様子だったが、やがて穏やかな声で。
「了解。今から研究室に伺ってみるわ。先生と研究についての話をすること自体は、決してやぶさかではないから。あのメールの内容については――そうね。先生のお気持ちを傷つけないように、何とかしてみるわ」
言うと、アゲハさんはベンチから立ち上がり、研究棟の方へと足を向けた。
山田さんも慌てて立ち上がって、言う。
「あ、ありがとうございますっ! って、あ、そういえば、報酬の件は……?」
アゲハさんは足を止めて振り返ると、小さく首を横に振った。
「結構よ。半分は私が原因なのだし」
「でも……」
「なら、そうね。今後、授業をサボるな――とは言わないけれど、ズルはしちゃダメ。そう約束してもらえるかしら?」
「あ……はいっ! わかりました!」
元気よく答える山田さんに目を細めると、アゲハさんは再び背を向けて、立ち去っていった。
山田さんが再びベンチに腰をかける。五月の日差しが暖かい。
とりあえず一件落着なのかな、と、僕は山田さんの隣に座りながら言う。
「先生と話をしてあげて、か。優しいんだね、山田さん……って、え?」
隣を見ると、頬袋にヒマワリの種を詰め込んだ巨大なシマリスがいた。
ではなく。
ぷうと、正面を向いたまま、頬を目一杯膨らませた山田さんがいた。
何の冗談かと思ったが、その横顔から窺える目付きは、少し怒っているような、泣いているような、ともかく真面目な様相が浮かんでいる。
その膨らんだ頬をつんつんと突きたくなる衝動を抑えて。
「ど、どうしたんですか、山田さん……」
思わず敬語で話しかける僕。
山田さんは、じろりと僕の方を見ると。
「……これ、しいちゃんにも、アゲハさんにも言っちゃダメだからね」
言って、はあ、と、頬の空気を吐き出すかのように、息をついてから。
「なんか、くやしい……女として、負けた気がする」
うつむいて、そう呟いた。
草木がざわめき、風の流れる音が響く。
「……そっか」
一瞬、意味がわからなかったけれど、なるほど、自分に届いたラブレターが、本当は違う人に宛てたものだった。例えるなら、バレンタインに女の子からチョコを渡されて喜んだのもの束の間、「これ、○○君に渡しておいて!」と言われたのと同じような気持ちなのだろう。残念ながら身に覚えがある。
しかしまあ何と言うか、相手はあのアゲハさん。
頭脳明晰、容姿端麗。もしアゲハさんが男性で、僕が似たような立場だったら、次元が違いすぎて、比較するのもおこがましいという感情を抱きそうだけれど、それは流石に山田さんに失礼か、と。
そんなことを考えていると、山田さんが僕を睨みつけていた。
「ふんだ……どうせアゲハさんと私じゃ、月とスッポンだとか思ってるんでしょ」
「あ、いや……」
ある意味、図星だったということもあり、返す言葉がうまく見つからない。
思わず。
「可愛いと思うよ――にゃん子は」
などと、つい思っていたことをそのまま口にしてしまい、慌てて茶化すように彼女のあだ名を付け加えていた。
そんな僕の目を見て、山田さんは再び頬を膨らませると。
「にゃん子ゆーな……」
ぷいと、顔を背けてしまった。余計なことを言ってしまったかと反省する。
ベンチの上、涼しい風を感じながら、しばらくぼんやりしていると。
「――いくつか気になることがあるんだけど」
山田さんが目を細めて、睨むように僕を見た。
おや、不機嫌なネコのようだ、と、僕は変なところに感心する。
「アゲハさんがさ。水神君にお願いしたこと。あれ、何だったの? プレゼミの学生に好きな異性のタイプを訊いて欲しいって言ってたけど、あの時点でアゲハさんは、大学の先生が怪しいってわかってたんでしょ?」
「ああ、あれね」
僕は苦笑いしながら言う。
「たぶん、聞くべき内容に意味はなかったんだと思う。クラスの奴と恋話でもして、仲良くなれってことだと思うよ」
「へ……? って、あ、そうか」
山田さんはポンと手を叩くと。
「友達を作りなさいってことね。にひひ。水神君、アゲハさんに心配されてるんだ。子供扱いされちゃってるのかなあ?」
さっきの仕返しとばかりに、ニヤニヤと笑いながら、そんなことを言う。
「子供扱いというか、弟扱いの方が近いかもね。もしくは先生と生徒、かな」
実際、初めてアゲハさんと会ったとき、僕は色々なことを教えてもらった。
大学のこと、学問の意味、そして――彼女自身の生き方の一端。
もしその話を聞いていなかったら、僕は今頃、大学を辞めていたかも知れない。
そういう意味で、アゲハさんは、僕の先生とも呼べる人であるのは間違いない。
「弟扱いって……素直に認めちゃうんだ……」
山田さんは何か可哀想なものを見るような目を、僕に向ける。
「高嶺の花、だよ」
色々と面倒くさいので、僕はその一言で片づけた。
山田さんは、ふうん、と呟いた後、興味がなくなったのか。
「それと、もう一つ――アゲハさんへの報酬のことなんだけど」
と、話題を変える。
「結局、報酬って何だったの? 水神君、聞いても教えてくれないし」
「そりゃ、アゲハさんがあれだけ楽しげな感じで勿体ぶってたのに、僕が説明しちゃったら、アゲハさんに悪いだろ?」
「だって気になるじゃん。私の魂、とか言ってたし……」
「でもまあ、もう言っても良いのかな。報酬は要らないって言ってたし」
僕は、こほんと、取ってつけたような咳払いをすると、背筋を伸ばして話を始めた。
「えっと、にゃん子は」
ぎろりと睨まれる。
「……山田さんはさ。何のために大学なんかに来たの?」
「え」
驚いた表情を見せた後、少し気まずそうに言う。
「私は別に……お父さんとお母さんが、今の時代、大学ぐらいは出ておけって言うから……」
「そうなんだ。僕も似たような感じだけど」
「あ、ホント? でも、そういうもんだよね」
「じゃあさ。どうして大学を出ておいた方が良いんだと思う?」
「え? 勉強して……少しでも良い会社に入るため?」
「うん。じゃあ、良い会社に入る理由は?」
「――遊ぶ金欲しさ」
「こらこら」
僕は呆れたように首を振る。
「冗談だよう。でもお金を稼ぐためでしょ? 生きていくためにお金は必要だし……」
山田さんは小首を傾げてから。
「水神君、何が言いたいの?」
「いや、同じ問答をアゲハさんとしたんだけどね。アゲハさんは言い切ったんだよ。私は、自分の人生をより楽しいものにするために、大学に入ったんだって、ね」
「ふーん、アゲハさんなら勉強自体が楽しいんだろうねえ……でも人生を楽しくするってことは、遊ぶ金欲しさで間違ってないじゃん」
「言い方」
「私が大学に進学した理由は、お茶くみとコピー取りを忍耐強く繰り返すことで、アフターファイブを楽しむためのお給料がもらえる会社に入るためであります」
「身も蓋もないし、色々と昭和だよ、山田さん……」
「それで?」
「ん?」
「報酬の話だったと思うんだけど……アゲハさんには要らないって言われちゃったけど、できるなら、ちゃんとお礼はしようと思ってるんだけど」
「うん」
「……私、アゲハさんに何をあげれば良いの?」
山田さんの頬が膨らみ始める。アゲハさんの代わりに僕が勿体つけてみたりしたのだけれど、そろそろ限界のようだった。
僕はベンチから立ち上がり、軽く伸びをした。
にゃあ、と、いつの間にか足元にやってきていた野良猫を、山田さんが嬉しそうに抱え上げる。その姿を微笑ましく見つめながら、僕はアゲハさんが求めているものについて、きちんと説明することにした。
「アゲハさんは自分の人生を楽しいものにするために大学に来ている。彼女にとっては学問も楽しみの一つ。彼女に仕事を頼むということは、その時間を奪っているということ。だから仕事を依頼したものは、その対価として――」
「え、ひょっとして、アゲハさんに勉強を教えなきゃいけないとか?」
「それでも良いとは思うけど。無理だよね」
「超絶無理だよね」
にゃん、と、山田さんの腕の中で猫が鳴く。
「だから何でも良いんだ。とは言え、誠意は見せて欲しいらしい。人に頼らず、自らの手で、ひたすら相手のことだけを考えながら、脳をフル回転させる――それはある意味で、人間の本質であり、つまりは魂であると、アゲハさんは言っていた。つまり――アゲハさんのために、己の魂を込めて創りあげたものを提供すればいいんだよ」
「えっと、それって……」
山田さんは不思議そうな顔で。
「アゲハさんを楽しませる何かを、頑張って作れば良いってこと?」
「そういうこと。だからアゲハさんへの報酬。仕事への対価、それは――」
僕は彼女がそうするように、自分の口元に手を当てる。
そしてわざとらしく、大人びた声色を作って言った。
「娯楽だよ」