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山田さんと、難しい講義



 

 山田さんがけろりとした表情で戻ってきた頃には、昼休みも終わりかけていた。

 次の三限、僕は空き時間。普段なら図書館で時間をつぶしているのだけれど、何となく二人についていき、経済思想史という授業を聴いてみることにした。

 もし面白そうだったら秋学期に受けようかと、そんな理由を話すと、二人は苦笑いを浮かべた。どうやら期待しない方が良いらしい……

「あれ、でも、履修登録してない授業って受けても良いんだっけ?」

 一緒に教室に向かいながら、山田さんが訊く。

「どうだろ。他大学の講義にモグリ込むのはダメって聞いた覚えがあるけど、自分の大学の講義なら問題ないんじゃないのかな」

「あ、そっか。モグリってそういうことを言うんだね」

 うんうんと頷いた後に「あれ?」と、不思議そうに首を傾げた。

「アゲハさん、次の授業はモグリだって言ってたけど、なんでだろ?」

「さあ。でも、取れる科目数には上限があるしさ。単位と関係なく授業を聴きたい場合は、モグリで受けるしかないんじゃないかな」

「単位が取れないのに授業に出るって……アゲハさん、勉強好きなんだねえ」

 そんな話をしながら教室に入った。

 二百人は入れそうな大教室だけれど、人はまばら。そして入口と反対側、後方の目立たない席に、一人座っているアゲハさんの姿が見えた。

 僕たちに気が付くと、遠目にわかるほどの不機嫌そうな顔を作って、追い払うかのような仕草を見せる。近くに座るなということだろう。群れるのを好む人ではないだろうし、聴講の邪魔になっても悪い。僕たちは教室の反対側に三人並んで腰をかけた。

「ねえ、あの人がアゲハさんなの? 例のメールについて調べてくれてるっていう」

 椎名さんが山田さんに訊く。

「そうだよ。しいちゃん、知ってる人だった?」

「ううん、この教室で見かけるくらいだけど、綺麗な人だなってずっと思ってたの。そっかあの人、二年生だったんだ……」

 そこでチャイムが鳴る。やがて先生が教室に入ってきた。

 お爺ちゃん先生。そう山田さんに評されていたけれど、まさにその通りの人で、背は高くなく、気難しそうな顔つきをしていた。手には古びたノートと、手のひらサイズのコンピュータ端末。その端末を前の方に座っていた学生に手渡すと、教壇に立ち、くるりと教室全体を眺めてから、挨拶もなく淡々と講義を始めた。

 その端末は出席管理システム。他の授業でも使っていて、各学生が学生証をかざすことで、コンピュータで出席を管理できるのだとという。

 リレー的に回ってきたその端末を、そのまま隣にいる椎名さんに手渡した。僕は履修登録をしていないので、学生証をかざしてもエラーとなるだけだろう。椎名さんは端末に学生証をかざし、ピッと音が鳴ったのを確認してから、山田さんに手渡した。

「今日はちゃんと自分でやりなさいよね」

「……ふ」

 皮肉っぽく言う椎名さんに、山田さんは鼻で笑いながら、自分の学生証をかざした。

 察するに、普段はサボっているという山田さんは、椎名さんに学生証を預けて、出席確認をしてもらっているのだろう。いわゆる代返というやつで、もちろん不正行為。

 まあ咎める気はないけれど、プレゼミのときにあの男子学生に説教をしていたことを考えると、つい複雑な思いに駆られる。

 その間も授業は続けられていた。プリントも配らず、時たま黒板に要点を記し、口頭で講義を行うというスタイル。パソコンの画面をプロジェクターで映して行われる授業も多い中、昔ながらの講義とでも言うのだろうか。

 一応、僕なりに一生懸命聴いてはいるのだけど……まったく頭に入ってこない。

 経済学の歴史とでも言うのか、様々な経済学者の思想の違いを説明しているらしいのだけど、時折、先生が口にするカタカナ用語の意味がさっぱりわからない。さらに黒板には難しい数式が並ぶ。数学はさほど苦手ではないのだけれど、知らない記号に出てこられては理解のしようがない。

『君らは数学どころか算数も苦手だろうし、数式とか使わないで授業するから』

 というのは別の先生の談。その言葉に腹を立てた覚えがあったけれど、なるほど、今なら納得してしまう。

 所在なく隣にいる椎名さんを見る。教科書を広げながら、綺麗な文字でノートを取っているものの、ところどころにクエスチョンマークが書かれている。そして椎名さんの向こう側では、机につっぷした山田さんがすーすーと寝息を立てていた。

「……この授業だけはね、にゃん子がサボるのを容認してるのよ」

 僕の視線に気が付いたのか、椎名さんが苦笑いをしながら小声で言う。

「やっぱり椎名さんでも難しいんだ、この授業」

「うん……最初の頃は先生にわからないところを質問しにいってたんだけど、その答えも、ちんぷんかんぷんで……経済学者としてはすごい先生らしいんだけど」

「へえ……そうなんだ」

「良い学者が、良い教育者とは限らない、ってね」

 こほんと、先生がこちらを見て咳払いをする。椎名さんは慌てた様子でノートに目を落とした。先生が黒板の方に目を戻した後、視線を感じ、横を向くと、アゲハさんがこちらを見ており、静かになさいと言うように、唇に人差し指を当てた。

 その仕草に鼓動が高まる。僕は軽く頭を下げてから、教卓の方に目を戻した。

 その後、僕は授業に集中できず、ついアゲハさんを目で追ってしまっていた。

 口元に手を当てながら、ノートも取らず、じっと先生の話に集中する。時折、目を閉じて、何かに納得するかのように小さく頷く。

 思考するという行為が、美しいものであると錯覚するような。

 そんな姿を鑑賞することができただけでも、この授業に出た価値があったと。

 僕はそんなことを思ってしまっていた。

 

 終業のチャイムが鳴る前に授業は終わった。

 大あくびをする山田さんを尻目に、僕はカバンを持って立ち上がる。折角だし、アゲハさんに声をかけようか悩んでいると。

「――すいません、先生」

 当のアゲハさんが、教卓付近で先生を呼び止めていた。

「ん……? なんだね」

 先生は眉間にしわを寄せ、険しい表情をアゲハさんに向ける。

「今日の講義、とても面白かったです。多くの経済学者が示したモデルを、個々の思想のみならず、彼ら自身の数学的素養といった一風変わった軸で分類されたという点や、社会科学だけではなく、自然科学における数理モデルまで取り込んだ大域的な枠組みを示されたという点は、凡庸の書物からは決して得られない貴重なお話でした」

「……ほほう!」

 先生の目が子供のように輝いた。評価されて嬉しいというよりも、よくぞ言ってくれたという風に、目の前の女子学生を賞賛するような表情だった。

「私も長年、様々な大学で教鞭を取っているが、この講義の本質を見抜き、そこまで端的に要約できた学生は今までいなかった。なるほど、君のような子がいるのであれば、この大学も捨てたものではないな」

 嬉々として話す先生に対し。

「――でも、先生、一つ疑問があるのですが」

 アゲハさんは表情を変えず、淡々とした口調で告げる。

「講義内で先生が示されたどの数理モデルにおいても、不確実性を陽に表現していないのは何故ですか?」

「……なんだって?」

 先生の表情が険しいものに戻る。

「アゲハさん、先生と何を話してるんだろ」

 僕の隣で山田さんが首を傾げる。会話の内容は聞こえていたけれど、その内容は正直わからない。それでも二人の間に不穏な空気を感じた僕は、そっと近くへ移動して、その話に耳を傾けた。

「極端な例として」

 アゲハさんが凛とした声で言う。

「予期しなかった事故、世界的な犯罪行為、巨大な自然災害、そういった不確実な現象が社会に影響を与えるのは明らかです。ですから――」

 先生は話をさえぎるようにして、はは、と呆れたように笑う。

「それは君、無理というものだ。そんなことまで馬鹿丁寧に考慮しては、理論になりえない。まさに神のみぞ知るといったことだろう? だからこそのリスクヘッジ――」

 言いかけて言葉を止める。アゲハさんの目を見て、何かを見抜いたように。

「……ひょっとして君は、我々にはわからないことがあることを理解しろと、黒い白鳥に立ち向かえと、そう言っているのかい?」

 その言葉は哲学的で、何を訊きたいのか僕にはわからない。ただアゲハさんは、肯定の意を示すかのように、無言のまま深い眼差しで先生を見つめ続けていた。

「なるほど。無知ゆえの愚問ではなく、理解した上での訊問か」

 先生は妙に嬉しそうな声で言う。

「つまり君が言いたいのは、社会における不確実性、すなわち我々には決して予測できない事象が存在する以上、いくら立派な理論を並べ立てても、それらは現実とは乖離している。だからこんな学問には意味がないと、そう言いたいのだろう?」

「違います」

 アゲハさんは強い口調で返した。

「意味のない学問なんて存在しない。どこかで歩みを止めてしまえば、積み重ねられてきた叡智は、すべて崩れ落ちてしまう。過去を紡ぎ、未来へ伝えるだけであっても、そこに尊い価値は存在する」

 落ち着くように、ふうと息を吐いてから。

「確かに、社会は自然よりも混沌としていて、そのすべてを知ることは、人間にとって困難なことなのかも知れません。しかし――」

 わずかに悲哀の色を浮かべて。

「だからと言って、それらをカオスだと切って捨ててしまうのは、それが数学の――いえ、人間の頭脳の限界だと暗に認めてしまったからなのですか? 研究者たちはその先にある真の目的を実現することを放棄してしまったのですか?」

「……真の目的?」

 戸惑う先生に向かって、アゲハさんは鮮明な、それでも優しい声で言った。


「――すべての人間が幸せに生きられるような、社会的意思決定の方法を作りあげること」


「なるほど、そうきたか……」

 先生の顔付きが明らかに変わっていた。

 いつの間にか僕の隣に立っていた山田さんは、初めて大海を見たカエルの如く、ぽかんと口を開けている。椎名さんも同じように呆然と立ち尽くしているものの、まるで感動的な話を聴いた後のように目を輝かせていた。アゲハさんと先生の会話から、何か得るものがあったのだろうか。

 対して僕は、やはり僕なりに一生懸命聴いてはいたものの、ぼんやりとしか理解できていなかった。

 けれど、アゲハさんの疑問――それは僕にですら、結論づけられることだった。

 すべての人間が幸せに生きられる方法を実現すること。

 そんなことは不可能だ。子供が思う夢物語だと。

 聡明なはずの彼女が一体何を言っているのかと、僕は怪訝な想いに包まれていた。

 でも、と、すぐに思い返す。

 果たしてそれは、簡単に否定していいことなのだろうか。

 僕はともかく、先生からすれば、アゲハさんに――つまるところ、たかが一学生に、それを放棄したのかと、そう問われたのである。偉い学者先生の気持ちなんて僕にわかるはずもない。けど……

「はは……」

 先生は天を仰ぎ、呆れたように乾いた笑い声をあげる。そして才知を示す鋭い目をアゲハさんに向けると、熱のこもった声で言った。

「答えは、ノーだ。決して諦めてなどいない。だいぶ長い間、忘れてはいたが、な」

 刹那の静寂。

「――そうですか、ありがとうございます」

 アゲハさんは安堵したような表情を浮かべた後、丁寧に頭を下げた。

「だがもちろん、それは研究者としての答えだ。教育者としての答えは『君自身が努力せよ』だ。我々が教授したことを糧にして、学問に励むことが学生の本分だろう。さっき君自身が言っていた通り、な」

「はい、精進します」

 言うと、彼女は微笑んだ。

「……!」

 先生が驚いたように身体を引く。心なしか顔が赤くなっているように見えた。

 やがて姿勢を正すと。

「――なるほど、君は悪魔か何かかね」

 呻くようにそんなことを言った。

「悪魔?」

「ああ、いや……」

 先生は、ふふ、と、照れたような顔で笑う。

「君が何か悪いことをしたというわけじゃない。だが、さっき君は私に言ったんだ。この世のすべてを知り、すべての人間を幸福に導けとな。それはつまり」

「あ」

「そう。私に神になれと、そそのかしたんだよ、君は。定年間際のロートルに対してな。まさしく悪魔の誘惑だろう」

「――なるほど、そういう解釈もあるのですね」

 くすくすと笑いながら。

「そう言えば、あるSF小説でも、超科学を用いて人類を平和に導いた宇宙人を、悪魔の姿で描いていました。確かに、悪魔とはそういう存在なのかも知れませんね」

 楽しげに返す彼女に、先生は動揺した素振りを見せる。

「いや、失敬……比喩だとしても失礼だったな。特に君のような純粋な子に、悪魔などと……だが、しかし」

 ふうと息を吐いてから。

「君のように学問に通じた学生は近頃珍しい。恐らく普通の授業は、君にとって退屈なものではないのかね? どうだろう、授業時間外にはなるが、その、私と、研究について少し深い話をしようじゃないか。ええと、君は一年生だろう? 名は確か――」

 不意にアゲハさんの表情が曇った。

「いいえ、私は二年生です。名前は――小鴉アゲハといいます」

「……え」

 先生は目を丸くして、立ちすくむ。そしてすぐに慌てた様子で、教卓に置いてあった出席管理システムに手を伸ばした。

「ごめんなさい、先生。私、モグリなんです。この科目の履修者名簿に私の名前は載っていません」

「そんな、馬鹿な……」

 そこでようやく終業のチャイムが鳴った。

 教室に残っていたのは僕たちだけだったが、その音が鳴り終わると同時に、次の授業の学生たちが教室に入ってきた。そんな中で、うろたえた様子の先生は、僕の隣にいた山田さんに目を向けると、はっとした表情を見せて。

「ひょっとして……君が、山田さんかい?」

 震えた声でそう言った。

「……はい」

 山田さんは、何かを察したような顔で小さく頷いた。

 この時点で流石の僕も、犯人は誰で、彼がいったい何を勘違いしてしまったのか、理解できていた。

「そうか……」

 先生は再び天を仰ぎ、大きく息を吐く。その様子は、今までアゲハさんと話していたときとは真逆で、後悔と、悲壮感に満ちたものだった。

 教室内に人が増え、少しばかり騒がしくなってきた。

 先生は真面目な、それでも悲哀を隠せない表情を山田さんに向けて。

「――理由は訊かないで欲しい。謝らせてくれ。すまなかった。山田猫子さん」

 はっきりとした声で言うと、深く頭を下げた。

 山田さんは、そして僕たちは、何も言えず、ただその姿を見つめることしかできなかった。

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