土曜日と、山田さん
五月下旬、水色の空。
混雑した改札から外に出たところで、ちょうど停車していたスクールバスに駆け込んだ。広いロータリーを出て、国道沿いに十五分程度。大学に着く。
構内の木々は深緑に染まり、光を漏らす。空気もだいぶ暖かい。
入学して早二ヵ月、土曜日に来たのは初めてで、人もまばらだった。マンモス校と呼ばれるほど大きくはなく、キャンパスもこの地に一箇所のみ。ただ敷地は広く、十近くある校舎は余裕をもって建ち並んでいる。
その一角、先生方の研究室が入る六階建ての研究棟。
隠れる必要はないのだけれど、何となく忍ぶようにして、僕は階段を上る。
屋上には誰もいなかった。がっかりとした気分を十二分に味わいながら、設置されたベンチの近くまで移動する。そして屋上緑化の一環だという植え込みの前、膝の高さほどの石囲いに腰をかけた。
構内の建物と周囲の緑を一望しながら、大きく伸びをする。
そしてショルダーバッグからノートパソコンを取り出し、作業を始めた。家で使っている大きめのパソコンで、携行には不向き。そもそも学内には学生が自由に使えるパソコンが多数設置されており、無理に持ってくる必要はない。
ただ……
「――あら、ツクモ君」
屋上入口の方から、女性の声。
寸刻、顔を上げた僕の表情は、馬鹿みたいに緩んでいただろう。
相変わらずの黒いパンツスーツ。背筋を伸ばし、長い髪をなびかせながら歩いてくる姿に、ついドギマギしてしまう。僕は軽く息を吸ってから。
「こんにちは。アゲハさん」
と、自分なりに普段通りの顔を作って挨拶をした。
アゲハさんは僕の横で足を止めると、パソコンを覗き込むようにして。
「それは、例の――私への対価、かしら?」
表情なく、淡々とした声で言う。
「え、ええ、まあ」
自分のパソコンじゃないと作業できないんですよ、と、目の前にあるアゲハさんの整った顔や、開いたシャツから覗く白い肌を意識しないように、言い訳のように言葉を足した。
「ふうん……」
アゲハさんは興味なさげに呟くと、ベンチに座り、手にした本を読み始めた。
「アゲハさんも、今日は授業ないんですか?」
「ええ」
その一言で会話は終わった。
少し前傾の姿勢で足を組み、本から一切目を離さない。ただ静かに、そこから叡智を取り込むかのように専心し、時折、納得したように頷きながら、ページをめくる。
この屋上でアゲハさんと出会ってから、二週間余りが過ぎていた。
最初に抱いた印象通り、彼女は聡明な人だった。無口というわけではないけれど、余計な話はしない。そんな感じなので、会話が無いことを気にする必要もなく、僕は作業を続けることにした。
「――ねえ、ツクモ君」
不意にアゲハさんが顔を上げる。
「あそこにいる女の子。ツクモ君のお友達じゃないのかしら?」
「え?」
見ると、屋上入口のドアの横、見知った女の子がモジモジとしながら立っていた。
短い髪を明るく染めた、背の低い女の子。
山田さんだった。
山田なに子さんだったか、名前までは覚えてない。つまるところお友達というわけでもなく、必修科目のプレゼミを同じクラスで受けているという、それだけの関係だった。
山田さんは、ようやく気付いてくれたとばかりに、ほっとした表情を浮かべながら、トコトコと近づいてきた。そして僕の前に立つと。
「み、水神君! この前は疑って、ホントごめんねっ!」
言って深く頭を下げた。
「あ、いやいや……」
それはつい先日、僕の身の回りで起きた、ある事件のこと。
些末なことではあったけれど、僕は冤罪をかけられ、山田さんをはじめ一部の人たちに、事件の犯人として扱われてしまったのだ。その疑いを晴らし、まるで探偵のような勘の良さと行動力で真犯人を捕まえてくれたのが、他でもないアゲハさん。
ちなみにその際、アゲハさんがその仕事の対価として、つまりは報酬として要求したのが、今、僕がパソコンで作業をしているものである。
「仕方ないよ。あの状況じゃ誰が見ても、僕が犯人だと思うだろうしね。もう気にしてないからさ。山田さんもこれ以上、気にしないでよ」
「ほんとっ? ありがと! 優しいね、水神君!」
山田さんは頭を上げると満面の笑みを僕に向けた。ニコニコと笑うその顔に悪意は感じられず、僕もつられて頬を緩ませてしまっていた。
まあ何と言うか……普通に可愛い。
ネットで小動物の動画を見たときのような、ほっこりとした気持ちを覚えた。
「じゃ、あのことはもうおしまい! これからは仲良くしようね!」
山田さんは元気よく言うと、ふと何かを思い出したように表情を改めた。そして喉の調子を整えるかのように軽く咳払いをすると、アゲハさんの方に顔を向ける。
察するに、山田さんはアゲハさんに用があって、ここに来たのだろう。偶然にも僕が一緒にいたため、気まずくて出てこれなかったと、そんなところかもしれない。
「あ、あの、私、一年生の山田といいます! そ、その……ええと……」
言葉を詰まらせる山田さんに目を向けながら、表情を変えずに。
「小鴉アゲハ。アゲハで良いわよ」
「あ、はい! アゲハさんは、えっと、助手さんとか……大学院の方ですか?」
「いいえ、ただの学生よ」
「あれ……? そ、その……すいません、アゲハさん、おいくつなんですか?」
「十九」
「「えっ!?」」
山田さんの驚いた声に、僕も声を合わせてしまっていた。
「……ちょっと待ちなさい」
アゲハさんが冷たい視線を僕に向ける。
「その子はともかく、ツクモ君が驚くのはおかしいでしょう」
「い、いや、まあ、そうなんですけど……」
この大学の二年生だということは聞いていた。だからもちろん、浪人や留年などのイレギュラーな期間がなければ、十九歳か二十歳ではあるのだけれど……
その大人びた雰囲気から、どうも僕の中では『年の離れたお姉さん』というイメージが完全にできあがってしまっていて、まさかまだ未成年だと聞き、驚いてしまった次第である。そんな僕にアゲハさんは少々ご立腹な様子で……前髪をかき上げると呆れたように息を吐いて、本に目を戻してしまった。
一方の山田さんはオロオロと、ともすれば泣きそうな表情で。
「わ、わ、私……四月生まれだから、アゲハさんと同じ年なんだけど……え、うそ、ウソでしょ……?」
五月末の晴れた空の下、何かに絶望したかのように、一人、目を泳がせていた。
漆黒のスーツを着こなし、年齢以上の美しさを備えるアゲハさん。他方、デニムのショートパンツと白いシャツ、上に薄手のカーディガンを羽織った山田さん。格好だけ見れば、まあまあ洒落た感じではあるけれど……
うん。僕の目から見ても同じ年齢とは信じがたい。
背丈も頭ひとつ分は違うので、並んで歩いていたら大人と子供――とまでは言わないけれど、社会人と中学生くらいの子と見られてもおかしくはない。
などと。
見比べていた僕の視線に気付いたのか、山田さんは頬を膨らませて。
「ばかっ! 私だって、一生懸命お洒落して大人っぽくしてるんだからっ!」
ポカポカと両手で僕を叩き始めた。
「――ツクモ君は、女性に対する態度を少し改めた方が良いわね」
アゲハさんが本に目をやったまま、小さく嘆息する。
「はあ……すいません」
「山田さん、大丈夫よ。入学直後と比べたら、あなた、だいぶ大人っぽく見えるから」
フォローするようなアゲハさんの言葉に、僕を叩き続けていた手が止まった。
「え、アゲハさん……なんで、そのことを……」
山田さんはアゲハさんの方に顔を向け、目を丸くする。
「私たち、一緒の授業を受けているでしょう。月曜三限、経済思想史」
「……。あー、あのお爺ちゃん先生の……」
「受講している女子が少ないから。名前はともかく顔くらいは、ね。特にあなた、四月半ば頃、急に雰囲気が変わったでしょう」
そう。入学直後の山田さんは真っ黒な髪を後ろで結んでいて、もっと地味な感じの女の子だった。アゲハさんの言う通り、その後すぐに髪を染め、服装も垢抜けたので、少なくとも僕はしばらくの間、同じ子だと認識できないほどだった。
「ワンテンポ遅れた大学デビューといったところかしら。オリエンテーション期間が終わって、私服で通うようになった途端、思った以上に周りの子がお洒落な格好をしていることに気が付いた。だから、よね?」
「……えへへ。おっしゃる通りデス」
首元を掻きながら、頬を染める山田さん。
「良い意味で、化けたわね、と、ひそかに感心していたのだけれど――その後すぐに、どうしてか、その子の姿を見かけなくなってしまったのよ。あの授業、毎回出席をとっているのだけれど、あの子、単位は大丈夫なのかしらね」
「あっ……いえ、それは、その……」
アゲハさんの皮肉めいた言い方に、山田さんは、あはは……と苦笑いを浮かべる。
まあ大方サボりだろう。特に年配の先生による講義は退屈で眠くなるものもあり、出たくなくなる気持ちは理解できなくもない。
「で、でも、アゲハさん。あの教室にいたんですね。私、ぜんぜん気付きませんでした」
「いつもあまり目立たない席にいるから――実はモグリなのよ、私」
「へ? モグリって何……って、えっ!?」
突然、ショックを受けたように山田さんの動きが止まる。その視線は、会話をしながらもアゲハさんが読み進めている本にあった。
「……アゲハさん。そ、それ英語の本ですか?」
それはハードカバーの洋書だった。表紙にEconomicという文字が見えたので、経済学に関する本だとは思うのだけど、それ以外の単語の意味はさっぱりわからず、内容は想像すらつかない。
「な、なんで……? 頭の良さそうな人だとは思ってたけど、そんな分厚い英語の本をすらすら読めるような人が、どうして……こんな大学なんかに……」
山田さんの疑問はもっともで、僕も同じように思っていることだった。
都心から電車で三十分ほどの場所に位置するこの大学。地元ではそれなりに知られているけれど、世間一般的に――つまるところ偏差値的には、決して誇れるような大学ではない。
アゲハさんの具体的な学力レベルついて、訊いたことはない。
だが、彼女がいわゆる一流大学に合格できるほどの、優れた頭脳を持っているのは間違いない。それなのに一体なぜ……
「――それで、山田さん。私への用件は何かしら?」
アゲハさんは、ぱたりと本を閉じ、強めの口調でそう言った。
相変わらずの無表情。ただその黒水晶のような鋭く美しい眼光の奥に――わずかながら悲哀の色が見てとれた。それは以前、僕が同じ質問をしたときにも見せたもので。
理由は訊くな、と、そんな意志が込められているのは明らかだった。
「え、あ、はい! すいません!」
山田さんはピンと背筋を伸ばすと。
「あの……私、困っていることがあって……相談にのってもらえませんか?」
先生に怒られた生徒のように目を逸らしながら、小声でそう言った。
「……どうして私に?」
アゲハさんは足を組み直し、怪訝そうに眉をひそめる。
「ええと……アゲハさん。この前、水神君の事件のとき、私と、私の友達に話を聞きにきましたよね。そのときの聞き込みというか、話を聞く様子がすごい慣れてる感じだったので……私たち、てっきりプロの探偵さんかと思ってたんですが……」
違いますよね? と、首を傾げる山田さんに向かって。
「ふうん」
と、アゲハさんはどこか感心したような表情を見せた。
「え、アゲハさん。本当に探偵だったんですか?」
僕は思わず口をはさむ。
「昔、知り合いが探偵業をしていてね。その真似事をしたことはあったのだけれど」
「へえ……」
初耳だった。多彩な女性だと感服する僕を尻目に、アゲハさんは、ふふ、と、わずかに頬を緩めた。探偵のようだと評されたのが嬉しかったのだろうか。
「それで、あの、私……」
困ったような表情で、もじもじと身体を揺らす山田さんに、アゲハさんは、話してごらんなさいとばかりに、手のひらをくるりと上に向けた。
「あ、ありがとうございます! え、ええと――」
言うなり、山田さんは肩にかけていたポーチから、スマートフォンを取り出すと。
「私の大学のメールアドレス宛に、こんなメールが届いてたんです」
操作をしてから、アゲハさんにその画面を見せた。僕も気になったので、ノートパソコンを脇に置いて立ち上がり、アゲハさんの横から覗き込んだ。