049
「大気中の自由元素を変換、昇華した水蒸気を連接し氷晶を構築。適用範囲を100万平方メートルに固定。――自己調査が終了いたしました。ヒデオ様、いけます」
一連の情報を符号化し、実行権限と動作設定の付与を終えたティティスは、足元に魔法陣を展開しながらヒデオを見た。
「お願いします、ティティスさん」
ヒデオの承認を授かった魔法陣が光を放ち始める。具象化された魔力が空へと立ち昇り、一筋の雲を作りだし、やがて暗々とした雨雲へと成長していく。森を覆い尽くした雨雲は、最初はぽつぽつと、次第に激しく雨を降らして、森を走る炎の延焼を防いだ。しかし、まだまだ鎮火するには至らない。
ヒデオは焦燥感を堪えながら目の前の光景を眺めた。聖都から森までの大地を全速力で駆け抜けたヒデオは、馬車で半日かかる距離を1時間足らずで踏破して、森の北側にある丘の上に降り立っていた。すぐさまティティスに消火を依頼したが、すでに森の半分近くが燃え尽きたあとだった。レクレスとルル、そして妖精たちの安否が気になる。一刻も早く火を消さなければ…。
「みんな無事でしょうかぁ…」
ヒデオの肩に乗ったリコが不安そうに口を開く。
「わかりません。今はティティスさんに任せて、動向を見守りましょう」
そう言って、厳かな様子で詠唱を続けるティティスを見た。その表情には苦悶の色が浮かんでいた。これだけ大掛かりな魔法を使うには、相当な魔力を消耗するのだろう。だが、私にできることは何もない。ヒデオは、ティティスを信じて全ての望みを託した。
森の一部の炎が消えかかった頃。
突然、ヒデオの眼前の地面が激しく吹き飛んだ。土砂が辺りに飛び散る中、えぐれた地面の中にひとりの人影が立つ。
「久しぶりだな、ヒデオ」
ドルガンはにやりと笑ったあと、魔法陣の中のティティスを横目で見た。
「唐突に降り出した不自然な雨に、もしやと思っていたが…。やはりおまえの仕業か」
無言のまま頷くヒデオ。一拍置いて口を開いた。
「あの森の火災は、あなたたちによるものですか?」
「そうだ、と言ったらどうするつもりだ?」
質問を返されたヒデオは、何も答えず、静かに拳に力を込めていった。
ヒデオとドルガンの視線がぶつかり合った瞬間、ヒデオの足元から風が巻き起こり、ドルガンの身体が岩のように硬化し、2人は同時に跳躍した。
風を裂くドルガンの拳が真っ直ぐに向かってくる。ヒデオは身を低くしてそれを避け、ドルガンの足を払い、頭部へと目掛けて下段突きを放った。しかし、直撃するすんでの所で、硬化した腕により防がれてしまう。後転倒立の要領で体勢を立て直したドルガンが、即座に肉薄し、矢継ぎ早に掌打を繰り出してくる。
ヒデオは小刻みのステップで猛攻を凌ぎつつ、瞬時に見切った腕を掴み、そのまま身体を回転させるようにしてドルガンを地面へと叩きつけた。神速の動きで繰り出された背負い投げは、ドルガンに受け身を取らせる暇を与えなかった。
ドルガンが立ち上がろうとする一瞬の隙に、腕に風を集束させて放つヒデオ。旋風とともに直進する風の束。ドルガンは、地面に拳を叩きつけ、その反動を利用して風の束を避けた。風が地面を大きく削り、辺りに轟音が響く。
ヒデオとドルガンは、仕切り直すように互いに距離を取った。気がつくと、上空の雨雲はさらに勢いを増し、2人の身体は容赦なく風雨にさらされた。2人は円を描くように移動し、相手の出方をうかがいながら、じりじりと間合いを詰めていった。
ヒデオ様、必ず勝ってください…。ティティスには、戦いの行方を固唾を飲んで見守ることしかできなかった。今、魔法陣から離れたら、雨雲は消え去り、最初から術式を組み直さなければならないからだ。
均衡を破り、はじめに動いたのはドルガンだった。ドルガンが腕を伸ばすと、近くの大岩が砕け散り、岩の破片のひとつひとつが、まるで意志を持つかのように宙に浮きあがった。破片が物凄い速さでヒデオに向かって飛翔していく。ヒデオが横に飛んでそれらを避けると、その軌跡をなぞるように破片が地面へと突き刺さっていった。
さらに、着地の隙を追撃するように放たれた破片を、ヒデオは風をまとった腕で残らず打ち落とした。――が、いくつかの破片が、ティティスに向かって飛翔していった。身を翻しながら風の束を放ち、なんとかティティスにあたる直前で打ち落とす。その隙をドルガンが見逃すはずがなかった。
素早くヒデオの死角に回り込んだドルガンは、その脇腹に向かって硬化した裏拳を打ちつけた。ゴッと鈍い音がして横へ吹き飛ぶヒデオ。衝撃が肋骨まで届き、視界が揺らぐほどの痛みが襲う。歯を食いしばって立ち上がろうとするが、雨でぬかるんだ地面に足を取られ、すぐに転倒してしまう。
「り、リコ……、ヒデオ様を守りなさい…!」
ティティスは、魔法陣の上に膝をつきながら、声を絞り出すようにして言った。命を削り、極限の状態で魔力を放ち、もはや身体の原型を維持することすら困難だった。
「うぅ…。あ、あたしひとりじゃあ、なにもできないです…。おじ様…! 起きてください…!」
地に倒れたヒデオの上着をぐいぐいと引っ張るリコ。そこへドルガンが近づく。
リコは、目に涙を浮かべながらドルガンを睨みつけ、風の壁を呼び起こした。ドルガンはそれよりも早く動き出し、鋭い鉄拳をリコに打ち付けていた。小さなリコの身体は大きく飛ばされ、地面に落ちた後、ぴくりとも動かなくなった。
リコさん…。ティティスさん…。ヒデオがよろよろと立ち上がる。
傷ついたヒデオに対して、ドルガンは一向に手を休めようとはしなかった。
ヒデオは上段の構えを崩さず、必死にドルガンの攻撃に堪えた。しかし、リコによる強化を失ったことにより、ドルガンの拳を防ぐたびに、その防御を突き抜け、体内にダメージを蓄積していく。そして、ドルガンの渾身の一撃を受けて、ついに力を使い果たし、地面に倒れてしまう。
「…ヒデオよ、老いぼれの割にはよく戦ったな。おまえの名は覚えておこう」
ドルガンは、そう言ってヒデオの健闘を褒め称えると、とどめを差すべく、ゆっくりとヒデオへと近づいた。
手足の感覚がない。眠くもないのにまぶたが閉じかけていく。口と鼻に血がたまり、息ができない。…ここまでか。ヒデオは、拳を握りしめて、悔しげに地面を叩いた。
そのとき。ヒデオの耳に聞き覚えのある歌が聞こえてきた。
それは、ふ化する鳥を、芽を出す花を、夜明けの太陽を讃える、力強い歌だった。
リコの穏やかな歌声は森へと広がり、やがて空へと伝わっていく。
森の動物たちは、足を止めて空を見上げた。
ヒデオの真紅のネクタイが熱を帯びていく。
ヒデオの身体に――パンチ1発分の――力が湧き上がってくる。
不思議な現象に戸惑いながらも、何の根拠もない、勝利への確信を抱く。
…十分だ。正義のヒーローに2発目は必要ない。
ヒデオは口から血を吐きながら、バーコードのような薄い頭髪を揺らめかせながら、眼鏡を指で押し上げながら、静かに立ち上がった。
両者の身体が激突する。ヒデオは、ドルガンの拳を避けようとはしなかった。ただ、己の拳に、すべての力を注ぎ込み――振り上げた。
一撃必殺のアッパーカット。
風を裂き、雨粒を蒸発させ、ドルガンのあごにクリーンヒット。
反り返るようにして吹き飛ぶドルガンを見て、ヒデオはふっと笑った。直後、派手に後ろにぶっ倒れた。
やがて森の炎はすべて鎮まり、静寂を取り戻した。雨に濡れた木々が太陽の光を浴びてきらきらと輝いた。
ヒデオは大の字になって地面に転がったまま、大きく深呼吸をした。羽をたたんだリコが、カエルになったティティスが側にやってくる。
ヒデオたちは一緒になって青空を見上げた。
…さすがに疲れた。ビールの一杯でも飲みたい気分だ。
突如、辺境の地にて勃発した人間と動物の戦いは、互いになんの利益ももたらすことなく、その幕を下ろした。駆けつけた聖都軍によってヒデオが救助されたのは、次の日になってからのことだった。




