参
翌朝になった。地平の向こう側から、太陽がその輝かしい姿をあらわした。雲の見えない晴れわたった空で、突き抜けるような青色が羽を広げている。彼方にそびえる山の峰が、くっきりとした色彩の輪郭を形づくっていた。
森の周辺には、まだ夜の名残が残っていたが、あたりに住みかを持つ鳥達は、早くも生き生きと動き出していて、せわしなくさえずり声がたてていた。昨日の陰欝とした重い空の様子が一変し、地表に漂う空気は朝露を含み清新なものになっていたという。
早朝の村には、古老らを先頭にして人の列ができあがっていた。村の入口を出てその先に進む列は、朝もやの中の黒い影のようだったかもしれない。
力のある男衆を中心に、村人らの一部を除いた動ける者達の多くが、大きな桶を乗せた木の車を引いていた。主の住む池へ向かっていたのだった。
まだ幼い大祖父殿も汲み出し用の小さな桶を抱えて、その一行に連なっていた。村には他にも童がいたわけだが、代表として祖父殿一人だけがついていったようだった。この時なぜ大祖父殿が選ばれたのかという理由については、はっきりしていない。おそらく、童の中で一番元気そうだったからだという理由が、考えうるものとしては最も妥当なのではないだろうか。ともかく、一行は目的地へと進んでいったのだった。
だが、その足どりは、あまり軽快なものではなかったという。桶の中身はからっぽだったとはいえ相当の重量があった。村から池までは、一里をわずかに超える程度の距離がある。たかが一里とはいえ、されど一里だった。疫病によって心身ともにまいっている村人らにとっては、決して楽な行程ではなかった。村人らは途中何度か休憩をはさみながら、胸にともるわずかな希望を支えにして畦道を歩いていったのだった。
「頑張れぇ、皆の衆」
かわるがわる交代で車を引いていた古老らは、声を張り上げた。しかし、村人達の心の奥底には、わずかなものではあったが、何かわだかまりに似た沈澱物が堆積していったのは事実だった。
主の住む池は、青緑色に濁っている。しかも、独特の臭いがした。それは異臭と言ってよいものだった。とても人が口にできる性質のものではなかった。その現実はいかんともしがたく、彼らの足どりをいやがおうにも重たいものにしていく。その現状は、村から遠ざかっていくにつれて、いよいよ顕著なものになっていく。
道の途上、行程の四分の一ほどを過ぎた時のことだ。用意してきた二つの大きな桶のうちの一つが、突如壊れてしまった。外側を巻き付けるようにして縛っておいた荒縄がほぐれ、桶は使用に耐えられなくなってしまった。
騒然となる一行の中で、古老の一人が口を開いた。
「やむをえんの……。打ち捨てていくしかあるまい」
桶の修繕には相当の時間がかかるが、主は、今日という早急の日をわざわざ指定してきていた。そこには何かしらの意味合いがあるのだろう。怪異との関わりには、たとえ面倒なことであっても、そういったある種の厳格さが、必要とされるのかもしれなかった。他の古老らの顔つきにも、同意の表情が浮かんでいた。
さらに畦道を進んでいった。そして森の近くに差し掛かった時だ。
車の前で引っぱっていた一人が、うなだれるようにしてかがみ込んだ。村人らはあわてて車を止め、隣で車を引いたいた者が、倒れ込んだ村人を抱きかかえた。周りの者が取り囲み、あわただしくその者を道のわきへと寝かしつけた。草の上に仰向けにさせると、倒れたその村人は、弱々しくも、だがはっきりとした口調で意志を語った。
「俺のことはかまわねえ。行ってくれ」
ひざをつき、腰をかがめて、横たわる村人の顔をのぞき込む古老の一人が穏やかに話しかけた。
「しばらくの辛抱じゃからのう。静かにしておるんじゃぞ」
「ああ。待ってるでな……」
「気をしっかり持っとけよ」
心配そうに見守っている他の村人らも、そう、いたわりの声をかけた。
「わかった。後はたのんだで。……すまねえ」
急遽、代わりに他の一人が引き手にまわることになった。倒れ込んだ村人を路傍に残して、一行は再び道を進み始める。
この時、幼い大祖父殿の目に映った光景、そして心のうちにわき出した思いというものは、いったいどのようなものだったのだろう。いくら無邪気な子供だったとはいえ、起こったこと、そして大人達の容易ならざる姿に、心の内に深く感じざるをえないものがあったのではないだろうか……。
その後、多くの困難をかかえながら、一行は池のほとりまで辿り着いた。目的地に着いて、ほっと一息つくところだったのだが、ようやくのこと辿り着いた村人らは、きわめて不可思議な現象を目の当たりにすることになる。昨日まで濁っていた池の水面が、透き通るようなきらきらとしたものに変貌していたのだった。
「こりゃあ……。なんとも、どういうわけじゃ……」
それはまるで、嵐の過ぎ去った後の空が池に現れ出ているような様子だった。実際水面は、お天道様の光りを四方八方に跳ね返していた。まぶしくきららめいた、まるで飴細工のような池の中で、小魚が縦横無尽に駆け回っている姿が見られた。昨日まで汚れていた泥水が嘘のように澄み切り、臭いまで失せている。
清澄な池と打って変わって異様な空気に包み込まれた村人らは、ぼう然と立ちすくんだ。だがその中から、古老の一人が、よろよろとした足どりで池のほとりへ歩み寄った。水面近くまで来てから腰を下ろし、両手をひしゃくのようにして池の水をさらった。
固唾を飲んで見守っている村人らには、その曲がった背中が見えている。背中の上に乗っかった後頭部が、ゆっくり下に沈んでいった。
――あっ、飲んだ……。
村人らはそう思った。その握られた拳には、自然と力が入っていった。
するとその時だった。ひざまづいて水を飲んだと思われる古老がおもむろに立ち上がり、くるりと体を返した。見守る村人らはしんとして、棒のようにつっ立っている。
「ん、ん、おぉー!」
意味の不明瞭な絶叫が、その古老の口からほとばしった。ぼう然として見つめる村人らの体は、彫像のようにして固まってしまった。
一二歩、おたけびをあげた古老は、村人らのほうに向かって進んだ。
「お、お、おおっ! おお!」
さらに声を張り上げながら、その体には、はっきりとした異変が生じていた。ただならぬ様子で体をがくがく震わせたのだ。恐れおののく村人らは、古老の顔を凝視していた。しかしそこに現れ出てきたのは、意外にも、恍惚と呼べる表情に近いものだったのだ。
池を背にして、一人その古老が立っている。ゆったりとした動作で、みなに向かって手招きをした。何も言葉を発しないままに。
するとそれに応じるようにして、他の古老らが、若い衆を制し一人また一人と池のほとりへと近づいていった。水際に来た古老らは横一列に並ぶと、腰をかがめて池の水をすくい取り、飲んだ。
彼らはとたんに、叫び声をあげた。だが、しだいに古老らの顔は幸福に満たされていくように見えた。涅槃に到達したかのような面持ちだった。卑俗のぬかるみに足を奪われ身動きを取れねまま快楽に溺れているかのような表情では、決してない。だが古老らは、何か意味のある言葉を口に出そうとはしなかったのだった。
「………」
その他の村人らは、狐につままれたような顔つきをして口をつぐんでいた。ただ、じっと古老らを見守っている。ふいに古老らの目に光るものが浮かび始めた。無数のシワが走る古老らの頬は、しだいに滝のように溢れ出る涙の筋に彩られていった。一番初めに水を飲んだ古老も、いまや元から皺の深かった顔をさらに皺くちゃにして、さめざめと涙をこぼしていた。流れていく滴がやけに光っていた。
それまで離れた場所にいた村人らが、おどおどした様子で近づいていき、涙する古老らを取り囲んだ。
「……どうしただ?」
一人がそう問いかける。古老の一人が答えた。
「なんでもねえ……。ああ、なんでもねえんだ……。ただこいつを飲んだ途端だ。どうしても泣かずにはいられなくなったのよ。村のことが心配になったからじゃねえんだ。もちろんそりゃ心配だ。あたりめぇだ。だがそれとはちょっとばかり、ちがうんだ。別のもんだ」
言い終わり、古老は流れ落ちる涙をぬぐいもせず、肩を小きざみに震わせた。すると一人の若い衆が村人の輪から抜け出て、池のほとりに近づいていった。ぬかるみの上に少し腰を浮かしてかがみ込み、池の水をすくい取った。若い男は一瞬のためらいの後、合わせた両手を口に当てた。ごくっごくっと喉を鳴らす音が聞こえた。
飲んだ。そして、やはり震え始めた。だがその動きは、何ごとかに耐えているようにも思えた。男と親しい関係にある他の若い衆が背後から近づいていった。背中ごしに、震える肩にそっと手を置いた。
「どうしただ。大丈夫か?」
池の水を口に含んだ若い男は、まだ池に顔を向けたまま震えていた。その背中にいる者は、肩に置いていた手に力を入れ、強く引っ張り男を振り向かせた。
若い男の眼は濡れていた。鼻水も流していた。男は自らの拳の甲で顔をぬぐった。体の震えが止まらない様子だった。
その頃になると古老らは落ち着きを取り戻していた。古老らは、村人らに水を桶につめ込むように指示を出したという。村人らは奇妙な感覚にとらわれながらも全員が一列に並び、手桶を使い池の水を掻き出し順繰りに手渡しして大桶へと流し入れていった。次々に水が入り、帰りの桶は相当の重量になっていった。それでも、彼らはなんとか村へと戻っていったのだという。途中、さきほど路上に倒れた者を拾いあげて……。
村に戻った一行は、まずは年寄りから池の水を飲ませた。そして、としかさの上の順に病人達に水を飲ませていった。全ての村人達が回復したのだという。それまで病床にふせっていた者達が、のちに起きられるようになった。
事態が奇跡的におさまってから、礼を言うために村人らは池へと向かった。だが主は姿を現さなかった。池の水は変わらず綺麗だったのだが、それからしばらくして池が枯れ始めた。あとには何も残らなかった。
後年、村人らは池のあった場所で祭を開くようになる。この頃から村人達は、主に敬意を表す意味で、また若干の親しみを込めて、濁濁様という呼び名を使うようになっていった。濁った池とともに消えていった主に対して。
本来はだくだくさまと呼ぶのが正しいのかもしれない。だがいつしか、ダグダグサマと言われるようになっていた。消滅してしまった池とともに真相は杳として知れない。
ただ時だけが流れ、言葉が残った。
了