弐
その出来事があってから、かなりの年月を経てのことだった。
池近くにあるこの村において、非常に切迫した事態が生じていた。やっかいな疫病が蔓延したというのだ。
当時の病の恐ろしさは、現代とは比較にならないほどに深刻なものだったらしい。事実、すでにいく人かの村人らが黄泉へと旅立ち、重とくの者は多数にのぼるという有様だった。
その疫病の正体が何であるかについては、定かではなかった。そして犠牲者のとどまる気配は全くもって見られないままに、危急存亡の恐怖が、まさに村を飲み込もうとしていた。疫病の猛威はとどまることを知らず、むしろかさにかかったようにして村人らの体と、そして心を蝕んでいく。混迷と悲壮を極めた村の惨状の中、村の古老らは等しく示し合わせ、ついに池の主に懇願することを決意したのだという。古老らの胸のうちには、幼いころに言い聞かされた池の怪奇譚が、烈しいほどによぎっていた。
それは日が沈んでからのことだった。空一面に厚い雲がのしかかり、月も星も、その姿を見せてはいなかった。吹き抜ける風も感じず、あたりは閉塞したかのような闇に包まれていた。
古老らは、いく人かの若い衆を伴って村を出て、池のほとりへとたどり着いた。供物として、酒と作物を携えていたという。
古老らは、ほとりで捧げ物を広げ明かりを消すと、湿った地面に膝を濡らして両手を地に置いた。そして静まり返った水面に向かって事細かに窮状を訴えかけたのだった。
池の周囲に群生する草むらからは、虫の声がりんりんと鳴り響いてくる。古老らは深く額ずいて、おのれの両手の間にある泥を見つめた。強い湿り気のある土の中に、古老らの指先が音をたてずにめり込んでいった。
しばらくしてから、切々と池の水面に言葉を投げかけていた古老らの手元に、ゆるやかな明かりがさしてきた。何か暗がりを作っていた薄皮が、一枚一枚剥がされていくような感覚だったという。
それは異様な光りといったものだったらしい。当時における夜の暗さというものは、例えようもないほど深く、そして恐ろしげなものだったという。あたり一帯が、息がつまりそうなほどの闇に包み込まれていた。それにもかかわらず、古老らの手元に、みるみるうちに光がさしていった。しまいには、まるで自分達が星のかたわらに飛ばされでもしたかのような錯覚をおぼえるほど、まばゆくなっていったのだという。
そして唐突に、古老らの頭ごしへと声が落ちてきたのだった。
「委細は承知した」
という意味あいの言葉だったらしい。ただ、それが沈痛な面持ちの古老達においては、いささか肩すかしをくらうほどにそっけない返答だった。だが、声を聞きながら地面を凝視している古老らの頭は、目に見えない力によって下に向かって強く押さえつけられている。
続けざまに、あした再び来いと声は言った。そして池の水を村の者達に飲ませろという言葉を残して急に静かになった。しだいに、それまでは燃え上がるようだった地面が、ゆるゆると、しかし確かな様相で元の薄暗い泥土へと戻っていった。
しばらくしてから古老らは頭を上げた。だがそこに残っていたのは、古老ら自身のわずかな興奮の余滴と、茫漠とした池のみなもだけだった。誰一人として、主の姿を見る者はいなかった。一行は供物を池のほとりに残し、みな無言のうちに帰路についたのだという。
夜更けでありながらも起きて待機していた村人達に、村に戻った一行は事の経過を伝えた。
古老の一人が住む家の中で、話を黙って聞き終えた村人達は、それぞれにうつむいて沈黙したり腕を組んで考え込んだり、古老に質問を飛ばしたりなどして、一様ではない反応を示した。
村の被害は甚大なものであって、なんとかしなければならないというせっぱ詰まった思いは、当然どの村人の胸のうちにもあった。だが、全ての村人達が、あまねく一枚岩というわけではなかった。実際、村人らの中には、あくまで自分達の力だけで何とかしようという考えを持つ者もいた。そして、そういった者だけに限らず、村人の多くが心に思い抱いた根本的な問題というものがあった。村人達は、あの池の水はとうてい飲めないと考えていたのだった。
あの池の水は山深くにある清流とはわけが違うということを、実際、年端のいかない幼な児ですら知っていた。魚や鳥やその他の獣ならともかく、人間が飲めばたちまちに体をこわしてしまうものだった。
しかしこの時の古老らは、ひどく頑迷だった。古老らはそれらの一切の意見をきっぱりつっぱねた。そして、急いで水を運ぶ桶を用意するようにと命令を下した。半信半疑の村人達を有無も言わさず強行に説き伏せ、あるいは老獪にやり込め、頭ごなしに指図をした。
古老らにとってみても、藁にもすがり付くようなせっぱ詰まった思いがあったのは確かだったろう。だが、何より大きかったのは、主との衝撃的な邂逅が心に刻み込まれていたということだったようだ。彼らは、理屈よりも長年つちかってきた己の嗅覚といったものに信を置いたのかもしれなかった。
結局、村人達は古老らの迫力に気圧される形となったようだ。このような経緯から、夜中にもかかわらず村人達がせかせかと動き回る中で、まだ元気のある童らも総出で作業の手伝いをすることになった。みなが必死だったし、成すべきことが定まったからには一心不乱に行動しなければならない局面に入っていた。
そして実は、この時働いた童らの中の一人こそ、祖母の祖父のそのまた祖父であるその人がいた。
この大祖父殿は、まだ疫病に冒されていなかった。祖母の話によると、大祖父殿は事の深刻さをいま一つわかっていない様子ではあったのらしいが……。