【短編】香りの席
香りが消えていく
第一の喪失――牛丼
最初に異変を感じたのは、いつもの牛丼屋だった。
高瀬は並盛の牛丼を受け取り、カウンターに座った。
湯気とともに、甘辛い醤油の香りが立ち上る。
牛肉と玉ねぎを煮込んだかえし。溶け込んだ牛脂の、少し重たい香り。
高瀬は、この匂いが好きだった。
ところが、その日は何かが違った。
「……ん?」
丼に顔を近づける。
香りはある。
醤油の匂いも、玉ねぎの甘さも感じられる。
しかし、いつもなら鼻をくすぐるはずの牛脂の香りが、妙に弱い。
ひと口食べた。
味はいつもどおりだった。
「今日は、ちょっと煮込みが足りないのかな」
高瀬はそう結論づけた。
そのとき、隣の席から、ふわりと甘い香水の匂いが漂ってきた。
自分の香水だった。
高瀬は満足そうに、もうひと口食べた。
牛丼は、うまかった。
ただ、その日を境に、彼は牛丼を食べるたび、以前と同じ満足感を得られなくなった。
原因が自分にあるとは、考えもしなかった。
第二の喪失――豚骨ラーメン
数日後、高瀬は行きつけの豚骨ラーメン店を訪れた。
引き戸を開けた瞬間、いつもなら鼻を包み込むはずの濃厚な豚骨臭が、ほとんど感じられなかった。
店内には、確かに湯気が立ち上っている。
厨房では大きな寸胴鍋が煮えたぎり、店主が麺を湯切りしている。
高瀬はカウンターに座り、ラーメンを待った。
運ばれてきた丼から、白濁したスープの湯気が立つ。
レンゲでひと口すすった。
うまい。
豚骨のうまみも、脂のコクも、舌には感じられる。
なのに、あの独特な匂いがない。
骨を長時間煮込んだときの、少し野性味のある香り。
好き嫌いが分かれる、あの匂い。
それが、まるで遠くに追いやられてしまったようだった。
高瀬は、店主を呼んだ。
「すみません。今日、スープ変えました?」
「いいえ。いつもどおりですよ」
「いや、何か違うんですよね」
店主は困った顔をした。
高瀬は納得できなかった。
店を出たあと、試しに入口の近くで深呼吸してみた。
豚骨の匂いは、かすかに感じられた。
しかし、以前のように食欲を刺激するほどではない。
「鼻が疲れてるのかな」
高瀬はスマートフォンを取り出し、検索した。
嗅覚疲労。
香水。
匂いに慣れる。
いくつかの記事を読んだが、どれも決定的な答えにはならなかった。
それでも彼は、香水をやめようとは思わなかった。
むしろ、翌朝はいつもより念入りに香水をつけた。
自分の香りが、以前ほど感じられなくなっていたからだ。
第三の喪失――焼き鳥
次に消えたのは、炭火の香りだった。
仕事帰り、高瀬は小さな焼き鳥屋に入った。
店先では炭が赤く燃え、鶏肉の脂が網に落ちるたび、小さな火が上がっていた。
以前なら、それだけで腹が鳴った。
炭の香ばしさ。
焼けた鶏皮の匂い。
醤油とみりんを合わせたタレが焦げる、甘く濃厚な香り。
高瀬にとって、焼き鳥屋の醍醐味は、あの匂いにあった。
ところが、その夜。
目の前で焼き上がったねぎまを食べても、香りがほとんど感じられなかった。
タレの甘さはわかる。
鶏肉のうまみもわかる。
しかし、炭火で焼いたからこその風味が、すっぽり抜け落ちている。
高瀬は串を置いた。
「なんだよ、これ……」
ふと、入口から新しい客が入ってきた。
その客が上着を脱ぐと、強い香水の匂いが広がった。
高瀬は、思わず顔をしかめた。
だが、すぐに考え直した。
自分だって、同じように香水をつけている。
誰かに注意されても、やめる必要などないと思っていた。
そのことを思い出すと、なぜか急に腹が立った。
「……何なんだよ、いったい」
彼は残った串を食べ、会計を済ませた。
帰り道、ふと足を止めた。
焼き鳥屋の換気口から、煙が流れ出している。
あの匂いを、もう一度感じたい。
そう思った自分に、高瀬は戸惑った。
たかが匂いではないか。
そう言い聞かせた。
しかし、その夜はなかなか寝つけなかった。
第四の喪失――カレーとそば
翌週から、異変はさらに広がった。
カレー専門店で、スパイスの香りがわからなくなった。
鼻を近づけても、感じられるのは熱い空気だけだった。
舌には辛さが伝わる。
しかし、クミンやコリアンダー、炒めた玉ねぎの甘い香りが、まるで抜け落ちている。
別の日には、そば屋で異変が起きた。
ざるそばを注文し、つゆに少しだけ麺をつけてすすった。
いつもなら、そばの香りと、だしの深みが鼻へ抜けていく。
その瞬間が好きだった。
ところが、何も感じなかった。
つゆはしょっぱい。
そばには、確かな歯応えがある。
だが、香りがない。
高瀬は、箸を置いた。
「どうしてだ……」
それから彼は、食事の前に必ず料理の匂いを確かめるようになった。
牛丼。
ラーメン。
カレー。
そば。
焼き魚。
どれも、以前より香りが弱い。
日に日に、その範囲が広がっている気がした。
高瀬は、もう笑えなかった。
第五の喪失――食卓
ある晩、高瀬は自宅でコーヒーを淹れた。
豆を挽き、湯を注ぐ。
ふわりと立ち上る香り。
「……ああ」
コーヒーは、ちゃんと香った。
窓辺の花も匂った。
洗面所の石鹸も、いつもの香りがした。
高瀬は安堵した。
自分の嗅覚がおかしくなったわけではない。
そう思った瞬間、テーブルの上に置かれた夕食が目に入った。
スーパーで買った焼き魚。
白いご飯。
味噌汁。
高瀬は、恐る恐る魚に鼻を近づけた。
何も感じない。
味噌汁も同じだった。
試しに、ご飯をひと口食べた。
温かい。
甘みもある。
しかし、炊きたてのご飯から立ち上る、あのほのかな香りがない。
高瀬は箸を置いた。
食卓を見回した。
コーヒーは香る。
花も香る。
石鹸も香る。
なのに、料理だけが香らない。
「……そんなこと、あるわけないだろ」
彼は何度も鼻を近づけた。
何度も料理を口に運んだ。
やがて、椅子から立ち上がり、洗面所へ向かった。
香水の瓶を手に取る。
いつもの香りがした。
その香りだけは、今までどおりだった。
高瀬は、瓶を見つめた。
そして、初めて恐ろしくなった。
第六の喪失――香水をやめる
翌朝、高瀬は香水をつけなかった。
出勤前、いつものように瓶を手に取ったが、蓋を開けたところで動きが止まった。
自分が毎朝つけていた香水。
その香りが、周囲の人間にとってどんなものだったのか。
彼は、初めて考えた。
会社では、何人かの同僚が不思議そうに彼を見た。
「高瀬さん、今日は香水つけてないんですね」
「……ああ。ちょっとね」
それだけ答えた。
昼休み、彼は牛丼屋へ行った。
香水はつけていない。
いつもどおりの牛丼を注文した。
丼が運ばれてくる。
高瀬は、ゆっくりと顔を近づけた。
「……」
何も変わらなかった。
牛肉と玉ねぎの香りは、遠いままだった。
高瀬は、その場で目を閉じた。
一週間。
二週間。
一か月。
香水をやめても、何ひとつ戻らなかった。
病院でも、決定的な原因は見つからなかった。
医師は、嗅覚の変化にはさまざまな要因があると説明した。
高瀬はうなずいた。
だが、彼の心には別の疑念がこびりついていた。
あのとき、女性に言った言葉。
「そんなに気になるなら、外で食べればいいじゃないですか」
あれから、すべてがおかしくなった。
そんな考えが浮かぶたび、高瀬は頭を振った。
馬鹿馬鹿しい。
香水と嗅覚に、何の関係があるというのだ。
そう思おうとした。
しかし、もう以前のように、自信を持って笑うことはできなかった。
第七の喪失――残された味
高瀬が、あの定食屋を訪れたのは、それから数日後だった。
入口には、いつもの札が掛かっていた。
『お料理本来の香りをお楽しみください』
彼は、しばらくその文字を見つめていた。
そして、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
店主は、以前と変わらない声で迎えた。
高瀬は焼き魚定食を注文した。
料理が運ばれてくる。
高瀬は、箸を持った。
魚を口に運ぶ。
味はする。
しかし、香りはしない。
「……もう、戻らないんですかね」
思わず、声が漏れた。
店主が顔を上げる。
「何がでしょう」
「料理の匂いです。どこで食べても、前みたいに感じられなくなってしまって」
店主はしばらく、高瀬を見つめていた。
「それは、お気の毒に」
その声には、同情があった。
だが、どこか冷たい響きもあった。
高瀬は、うつむいた。
「……昔は、そんなこと、考えもしなかったんです」
「そうでしょうね」
「自分が好きな香りをつけているだけなのに、何が悪いんだって。周りが気にしすぎなんだって、ずっと思っていました」
高瀬は、指先を握りしめた。
「でも、今ならわかります。自分が楽しみにしていたものを、誰かに邪魔されるって……こんなに、つらいんですね」
店主は、何も言わなかった。
高瀬は、焼き魚をもうひと口食べた。
香りはない。
それでも、今度はゆっくりと味わった。
失われたものの大きさを、ようやく理解したからだった。
そして数日後。
高瀬は、再び牛丼屋で、強い香水をつけた男に出会う。
男は、かつての高瀬と同じ言葉を口にする。
「香水くらい、別にいいでしょう?」
高瀬は、何も言い返せなかった。
ただ、目の前の牛丼を見つめた。
湯気が立ち上っている。
あの甘辛い香りは、もう戻らない。
高瀬は、目を閉じた。
自分が失ったものを、ようやく理解した。
それは、単なる匂いではなかった。
食事を、食事として楽しむための、当たり前の喜びだった。
そして、その喜びがどれほど大切なものだったのかを知ったときには、もう遅かった。
(終)




