壊れた人形は、狂愛の鳥籠で眠る
※ハッピーエンドではありません。結末にご注意ください。
カンザキ・ミオの兄が殺されたのは、土砂降りの雨が街を濡らす夜だった。
殺したのは、対立組織『ヨルナキ』。
濡れたアスファルトの上、壁に背を預けた兄は、喉から血の泡を吐き出しながら最後まで部下を庇い、ミオの名前を呼んで倒れたという。その場にいなかったミオの耳には、届くはずもない兄の掠れた声が、冷たい雨音のようにずっとこびりついて離れなかった。
だから彼女は、復讐のためにスパイになった。
『ヨルナキ』の中枢へ潜入し、若き凄腕の指揮官——ヨルミ・シオンに近づく。氷のように冷酷で、人間らしい感情を持たないと噂される男。彼を篭絡し、内部情報を抜き取り、兄の仇を討つ。
それが、すべての始まりだったはずだった。
(……どうして、私はこの人の腕の中にいるんだろう)
私室の薄暗い灯りの下、ミオはシオンの孤独な横顔から目が離せなくなっていた。誰にも本心を明かさず、死と隣り合わせの闇の中で生きる男。仇として憎むべきはずの男の中に自分と同じ「壊れかけた孤独」を見出したとき、彼女の復讐心は、歪んだ「守りたい」という執着へとすり替わってしまった。
抗争で彼が死ぬくらいなら、自分がすべてを捨てればいい。
葛藤の果てに、ミオは絶望的な決断を下した。
――
ガラス窓を叩く雨音が、室内を満たしていた。
湿り気を含んだ重い空気が、静まり返った部屋に漂っている。
ミオはソファの端に座り、両手で小さな黒いUSBメモリを握りしめていた。
指先が真っ白になるほど強く。
金属の角が掌に食い込み、痛みでようやく「今、自分が何をしようとしているか」を実感できる。
テーブルの向こうで、シオンがグラスを傾けている。
琥珀色の液体が揺れる音。氷がカランと鳴る音。
シオンの横顔を見る。
氷のように整った横顔。
誰にも心を開かないと噂される男。
兄を殺した組織の指揮官。
心臓が耳の奥で打っている。
もしこれを渡したら、もう戻れない。
残るのは、この男の傍だけ。
シオンがゆっくりと顔を上げた。
蛇のように静かな瞳が、ミオを捉える。
何も言わない。
ミオは深く息を吸った。
冷たい空気が肺に痛みを走らせる。
震える指先で、テーブルの上に小さな黒いUSBメモリを置いた。
カタリ、と軽い音が虚空に響く。
「……お願い。もう、終わりにしたいの」
その声は、自分でも驚くほど静かだった。
シオンがこのメモリを受け取れば、少なくとも彼は死なずに済む。
それだけが、今のミオにとっての救いだった。
重厚な革張りソファに腰掛けたシオンは、手の中の琥珀色の液体を揺らしていた。
ゆっくりと上げられた彼の瞳は、薄闇の中で甘く、恐ろしく光っていた。
カランと氷が鳴る。細く長い指、無駄のないシルエット。ゆっくりと上げられた彼の瞳は、薄闇の中で蛇のように静かに光っていた。
「『シンゲツ』の内部情報、全部ここに入ってる。幹部の隠れ家も、次の取引ルートも。……だから、お願い。抗争なんてしないで。これ以上、誰も殺さないで」
ミオは一歩、踏み出した。冷えた膝ががくぐりと震えるのを、必死に耐える。
「私はもう、あっちには戻らない。あなたのものになる……だから、穏便に済ませて。血を流さないで」
静寂が二人を包んだ。雨音だけが、不気味に時を刻む。
シオンはゆっくりとグラスを置くと、足音もなく立ち上がった。黒いシャツの袖から伸びる太い手首。彼が目の前に立った瞬間、ミオの視界から世界が消え、男の存在だけで満たされた。
触れられた頬。彼の指先は、まるで死者のように冷たかった。
だが、その瞳には、恐ろしいほどの甘い光が宿っていた。
「……馬鹿だな、ミオ」
低い、鼓膜を濡らすような声。
「一人でそんな重いものを抱え込んで。お前にそんな思いをさせるくらいなら、俺が先に全部片付けてやろうと思ってたのに」
ミオの目から、溢れ出た涙がボロボロと溢れ落ちた。
指先から広がる安堵感が、胸の奥を激しく締め付ける。シオンも、私と同じことを望んでいた。私が彼を選んだのは、正しかったんだ。
シオンは親指の腹で彼女の涙を優しく拭うと、そのまま引き寄せるように唇を重ねた。
熱い、息が詰まるほどのキス。ミオは彼の黒いシャツを強く掴み、爪を立てた。シオンは彼女の腰を細い腕で抱え込み、シーツの敷かれたベッドへと押し倒した。
「約束するよ。お前が望む通りにしてやる」
耳元でささやかれる甘い毒。
衣擦れの音と、荒い吐息が雨音に混ざり合う。冷たいシーツの上で、ミオを包み込むシオンの体温だけが狂おしいほど熱かった。
「好き……シオン、本当に好き……」
「俺の全部をあげる。……だからお前も、魂ごと俺に預けろ」
肌と肌が擦れ合い、互いの体温を刻み込んでいく。ミオは彼の首筋に顔を埋め、背中に回した手でその存在を確かめ続けた。彼に愛されているという実感が、兄を失ってからずっと胸を刺していた痛みを、麻酔のように麻痺させていった。
――
朝の冷気とともに、重なり合うサイレンの音が遠くから部屋へ届いていた。
ふと目を覚ましたミオの鼻腔を突いたのは、心地よい朝の匂いではなく、かすかな硝煙と血の匂いだった。
隣の枕は冷たく冷えており、そこにシオンの姿はない。
胸騒ぎに背中を押されるように起き上がり、彼女はテレビの電源を入れた。
青い光が部屋を照らし、液晶画面に映し出された映像に、ミオの血の気が引いた。
『本日未明、指定暴力団・シンゲツの複数拠点が同時襲撃を受け、完全壊滅——』
画面の中で燃えさかる煙。崩れ落ちた壁、黒いシミが広がる石畳。
リモコンが手から落ち、乾いた音を立てて床を転がった。
「嘘……嘘でしょ……約束、したのに……」
ガチャリ、と重い扉が開く音がした。
黒いロングコートを羽織ったシオンが入ってくる。襟元から漂うのは、濃厚な鉄と火薬の匂い。彼は手にした温かいコーヒーのカップをテーブルに置くと、ベッドの上で蒼白になって震えるミオを見つめ、極上の笑みを浮かべた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「シオン……これ、何……? 誰も殺さないって……」
「約束は守ったよ? 組織そのものを消し飛ばせば、そもそも抗争なんて起きないだろ?」
シオンはゆっくりと近づき、彼女の前にしゃがみ込んだ。まるで今日の天気を語るような軽やかさで、言葉を続ける。
「お前がくれた情報のおかげで、一匹残らず片付けられた。完璧だろ? これで誰も俺たちの邪魔はできない」
視界がぐにゃりと歪んだ。
ミオが手渡した情報は、平和をもたらすための鍵などではなく、仲間たちの命を狩り尽くすためのデスノートだったのだ。
「シオン……私を、騙したの……?」
「騙してなんてないさ。お前は俺を選んだんだから、俺はお前の障害を全部排除しただけだ。……ああ、それとね」
シオンは彼女の顎を指ですくい上げ、瞳の奥を逃がさないように覗き込んだ。
「——お前の兄貴を殺させたのも、俺だよ」
頭の中で、何かがぶちりと切れる音がした。
「潜伏先をあえてリークして、お前の兄貴を殺させた。お前が絶望して、俺を激しく憎んで、復讐のためにスパイとして俺の懐に飛び込んでくるようにね。……全部、俺が仕組んだ筋書きだ」
息が吸えない。肺が凍りついたように動かない。
兄の死。復讐心。潜入。彼との出会い。愛の告白。
そのすべてが、この男の手の上で踊らされていた戯言だった。自分が抱いていた愛おしさも、あの甘い夜も、すべてが男の計算通りだったのだ。
「ひ……あぁ……っ!」
声にならない悲鳴が漏れた瞬間、爆音とともに部屋の扉が叩き割られた。
「シオン! カンザキを返せ!!」
血まみれの服を着た、生き残りの同僚たちだった。ミオの裏切りに血涙を流しながらも、彼女を救い出そうと殴り込んできた者たち。
シオンの瞳から感情が消えた。彼は引き出しから冷たい黒のピストルを抜くと、狂乱するミオの細い手首を掴み、強引にその指をトリガーへと絡めさせた。
背後から彼女の体をすっぽりと抱きすくめ、鋼鉄のような力で逃げ道を塞ぐ。
「やめて……! やめてシオン、お願いだから!!」
「さあ、お前の手で引導を渡そう。お前が情報をくれたから、俺たちは一つになれたんだ」
シオンの指が、ミオの指の上から重なる。強い圧力がトリガーに加わる。
「嫌ぁぁぁっ!!」
パンッ! と乾いた爆音が狭い部屋に炸裂した。
反動が腕を跳ね飛ばし、前列にいた元同僚の胸から鮮血が吹き出す。
「……ミオ……なぜ……」
崩れ落ちる同僚の絶望に満ちた目が、ミオを射抜く。
「私じゃない! 私じゃないのぉっ!!」
「いい子だ、ミオ。もっとお前の手で綺麗にしよう」
二発、三発。
跳ね上がる銃口、硝煙の激しい匂い、飛び散る赤い血、耳を裂く悲鳴。
シオンは彼女の耳元で甘い愛の言葉を囁きながら、確実にミオの指を使って、部屋の中の命を一つずつ刈り取っていった。
最後のひとりが床に倒れ、ピチャリと血の海が広がったとき、ミオの中で決定的な何かが壊れた。
激痛。恐怖。罪悪感。兄の記憶。同僚の血。シオンの冷たい体温。
許容量を超えた狂気が頭脳を駆け巡り、やがてすべての思考が真っ白な光の中に溶けて消えた。
「……あ……う……」
手から滑り落ちた銃が、血溜まりに跳ねる。
ミオの瞳から、最後の一滴の感情が消え去り、濁りのない空虚なガラス玉へと変わった。
シオンは崩れ落ちた彼女の身体を優しく抱き上げ、血の匂いが充満する部屋の中で、壊れてしまった彼女の冷たい唇に、何度も何度も狂おしいキスを落とした。
「愛してるよ、ミオ。……これで永遠に、俺だけのものだ」
――
そこは、音のない白い部屋だった。
壁も、床も、天井も、すべてが完璧な無菌室のように白く塗りつぶされている。高く取られた窓には頑丈な鉄格子が嵌め込まれ、差し込む光すら細い線となって床に影を落としていた。
「ねえ、シオン。もっとこっち来て?」
白く柔らかいベッドの上で、ミオは無垢な少女のような笑顔を浮かべ、男のシャツの裾を引っ張った。
かつて復讐に燃えていた鋭い瞳はどこにもない。そこにあるのは、彼という存在だけを反射する、空っぽで美しい瞳。
シオンは愛おしさに目を細め、彼女の望み通りにベッドへ滑り込んだ。絶対に逃がさない力で、彼女の華奢な体を抱きしめる。
「私ね、たまに胸の奥がチクチク痛むの。何か、とっても大事なことを忘れてる気がして……」
「何も思い出さなくていいんだよ」
シオンはミオの首筋に残る、自分が噛みついた消えない痕跡を指先でなぞった。
「君のお兄さんも、君の過去も、名前すらもいらない。君には俺だけがいればいいんだ」
「……うん。私、シオンのことしか解らないの。シオンが私の世界だもんね」
ミオは恍惚とした表情で目を閉じ、彼の胸元にすり寄ってトクトクと鳴る心臓の音を聞いた。
自分が誰なのか、なぜここにいるのか、外にどんな世界があるのか。
何も解らない。知る必要もない。
この男の腕の中の熱と、首筋に残る痛みが、彼女の世界のすべてだった。
愛おしくてたまらないと言わんばかりに相手を抱きすくめ、シオンはその背後で、鳥籠の扉をただ静かに見つめていた。
逃げ道など、最初からどこにもなかったかのように。
もう二度と開くことのないその鍵を、暗闇の奥深くへと沈めながら。
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