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年をとった、ただそれだけ ~夫も、女も、奪われた財も、どうでもよかった~

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/26

 夫に女がいることを、わたしは知っている。


 知っていて、何も言わなかった。


 言えば、この静かな暮らしが崩れる。崩れたところで、わたしに行く場所などない。だから、知らないふりをした。


 もっとも、夫の女のことなど、もう、どうでもよかった。


 この家に嫁いで、三十年。心は、とうに冷えきっていた。


 今日、家令が青い顔で帳簿を持ってきた。


 夫が、わたしの名義の財を、少しずつ動かしていた。あの女のために。


「奥様、いかがいたしましょう」


 家令は震えていた。わたしの代わりに、怒ってくれていた。


 でも、わたしは。


 ああ、と思っただけだった。


 それだけだった。


 怒りは、湧かなかった。夫にも。女にも。奪われた金にも。不思議なほど、何も。


 そのことに、ぞっとした。


 わたしは、いつから何も感じなくなったのだろう。


「……下がっていいわ」


 家令が出ていく。部屋に一人になる。


 鏡の前に立った。


 目尻に、見覚えのない皺がある。頬は少しこけて、昔は誰かに褒められた髪も、もう艶を失っている。


 きれいだと言われたことが、あった気がする。


 何かに夢中だった頃が、あった気がする。


 気がするだけだ。思い出せない。


 わたしの時間は、いったいどこへ行ったのだろう。


 夫を責めることは、できる。女を詰ることも、財を取り戻すこともできる。


 でも、どれにも心が動かない。


 動かないわたしが、いちばん恐ろしかった。


 諦めていたのだ。


 夫を。暮らしを。そして、たぶん、わたし自身を。


 いつから。


 わからない。


 わからないまま、わたしはふらりと立ち上がっていた。


 屋敷の、外へ。


   * * *


 外出が、なかったわけではない。


 夜会。茶会。家のための、義務の外出。供を連れ、馬車に乗り、決められた場所へ行き、決められた顔で笑う。そういう外出なら、いくらでもあった。


 でも、こんなふうに。


 供も連れず、行き先も決めず、ただ自分の足で街へ出るのは――いつ以来か、思い出せなかった。


 門をくぐった瞬間、風が頬を撫でた。


 ただの風だ。なんの変哲もない、午後の風。


 なのに、涙が出た。


 外は、ばかみたいに明るかった。


 わたしが屋敷の奥で時を止めている間も、世界はずっと、こうして動いていたのだ。


 わたしだけが、止まっていた。


 誰かに止められたわけじゃない。


 わたしが、わたしを閉じ込めていた。


 あてもなく歩いた。


 貴族の妻が供も連れず、こんなところを歩いてはいけない。頭の隅でそう思う。でも、足は止まらなかった。


   * * *


 最初に出たのは、大通りだった。


 石畳が、午後の日を照り返している。


 荷馬車が軋みながら過ぎていく。御者が威勢よく声を張り、道の端を行く人々がそれを避ける。仕立てのいい外套を着た紳士。籠を抱えた女。駆けていく丁稚の少年。


 誰もが、どこかへ向かっていた。


 目的があって、足を動かしている。


 わたしには、それがなかった。行き先も、用事も、何もない。ただ歩いている。


 なのに、不思議と惨めではなかった。


 むしろ、軽かった。


 どこへ行ってもいいということは、どこへも縛られていないということだ。


 わたしは、ひさしぶりに、どこへも縛られていなかった。


   * * *


 大通りを抜けると、広場に出た。


 噴水があった。


 水しぶきの中で、子どもたちが歓声を上げている。母親が「濡れるよ」と笑いながら手を引く。老人がベンチで鳩に豆をやり、若い男女が肩を寄せて何かを囁いている。


 わたしは、噴水の縁に腰かけた。


 貴族の妻が、こんなところに。


 でも、もう誰も、わたしが何者かなんて気にしていない。ここでは、わたしはただの、年をとった一人の女だった。


 その匿名さが、心地よかった。


 屋敷では、わたしは「奥様」だった。誰かの妻で、家の体面で、諦めた女だった。


 ここでは、わたしは、ただのわたしだ。


 水音を聞きながら、ぼんやりと座っていた。


 どれくらい、そうしていただろう。


 日が少し傾いて、噴水のしぶきが金色に光りはじめた頃。


 わたしは、また立ち上がった。


   * * *


 広場から、細い路地に入った。


 石畳が狭くなり、両側に古い建物が迫る。洗濯物が頭上に渡され、どこかの窓から鍋の匂いが漂ってくる。


 子どもが二人、棒きれを振り回して駆けていく。


 猫が塀の上で、わたしを見下ろしていた。


 路地の奥から、川のせせらぎが聞こえた。


 音をたどって歩くと、橋に出た。


 川沿いだった。


 ゆるやかな流れに、夕日が溶けている。


 岸辺には柳が並び、釣り糸を垂れる老人がいた。洗濯をする女たちの笑い声が、水面を渡ってくる。


 わたしは、橋の欄干にもたれた。


 流れる水を、ただ眺めた。


 水は、止まらない。


 昨日も、今日も、わたしが屋敷で諦めていた三十年のあいだも、この川はずっと流れていたのだ。


 止まっていたのは、わたしだけ。


 その事実が、もう、悲しくはなかった。


 むしろ――遅れて、いま、わたしも流れに戻ってきた。そんな気がした。


   * * *


 橋を渡りきったところで、声をかけられた。


「……もし。失礼ですが」


 振り向くと、年配の女が立っていた。


 質素だが、きちんとした身なり。買い物籠を腕にかけている。


 その顔に、見覚えがあった。すぐには、思い出せない。


 女は、わたしの顔をまじまじと見て、それから、はっと口元を押さえた。


「……お嬢様。お嬢様では、ありませんか」


 お嬢様。


 その呼び方に、胸の奥が、ことりと動いた。


 もう何年も、誰にもそう呼ばれていない。


「あなたは……」


 記憶が、ゆっくりとほどけていく。


「ハンナ。わたしが嫁ぐ前、実家にいた」


「はい! はい、ハンナでございます。まあ、まあ……こんなところで」


 ハンナは、目に涙を浮かべて、わたしの手を取った。


 その手の、ごつごつとした感触。粉と水仕事で荒れた、働き者の手。


 覚えていた。この手に、わたしは何度も支えられた。


「お変わりに……」


 ハンナは言いかけて、言葉を呑んだ。


 お変わりになって。


 その先を、言えなかったのだろう。


 無理もない。嫁ぐ前のわたしと、今のわたしは、きっと、別人のように違う。


 ハンナの目が、それを語っていた。困惑と、それから、かすかな哀しみ。


 わたしは、自分がどんなふうに変わってしまったのかを、その目の中に見た気がした。


「……ええ。年をとったわ」


 わたしが言うと、ハンナは慌てて首を振った。


「いいえ、いいえ。お元気そうで、何よりでございます」


 優しい嘘だった。


 しばらく、近況を交わした。ハンナは嫁いだ娘を頼って、この近くで暮らしているという。実家の屋敷を下がってからの長い年月を、ぽつぽつと話してくれた。


 別れ際。


 ハンナは、何かを思い出したように、ふと笑った。


「お嬢様。わたくし、今でも時々、思い出すんですよ」


「何を?」


「お嬢様が、台所にいらした頃のこと」


 台所。


「いつも粉だらけになって。叱られても叱られても、菓子を焼いてらして。あの頃のお嬢様ったら、それはもう、楽しそうで」


 粉だらけ。


 菓子。


 その言葉が、胸の奥の、固く閉じた扉を、こつん、と叩いた。


「焼きあがると、わたくしどもに配って。『どう、おいしい?』って、それはもう、いい笑顔で」


 ハンナの目が、遠くを見ている。


「あんなに楽しそうなお嬢様、わたくし、ほかに知りません」


 わたしは、何も言えなかった。


 言葉が、出てこなかった。


 ただ、胸の奥がざわめいて、なぜか、泣きそうになった。


「……ありがとう、ハンナ」


 やっと、それだけ言った。


 ハンナと別れ、わたしはまた歩きだした。


 粉だらけの娘。


 菓子ばかり焼いていた娘。


 いい笑顔の娘。


 ――それは、誰だろう。


 思い出せそうで、思い出せない。


 でも、確かに、いた。


 わたしの中に、そういう娘が、確かに、いた。


   * * *


 屋敷に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。


 門をくぐると、使用人たちが駆け寄ってきた。


「奥様! ご無事でしたか。供もお連れにならず、どちらへ……みな、心配しておりました」


 そうだろう。供も連れず、行き先も告げず、一日じゅう屋敷を空けたのだ。これまで一度もなかったことだ。


「ごめんなさい。少し、歩いていただけ」


 使用人たちは、戸惑った顔で、互いを見合わせていた。


 夫は、まだ帰っていなかった。たぶん、あの女のところだろう。


 わたしのいない屋敷を、夫が気にした様子もない。


 それで、いい。


 わたしは、自分の部屋に戻った。


 足は棒のようだった。なのに、心は、妙に澄んでいた。


 何かが、戻りかけている。


 でも、まだ、戻りきってはいない。


 それが何なのか、わたしには、まだわからなかった。


 ハンナの言葉が、耳に残っている。


 ――粉だらけで、楽しそうで。


 その娘の顔が、もう少しで、見えそうだった。


 その夜、わたしは久しぶりに、夢を見た。


 粉だらけの手の夢を。


   * * *


 翌朝、目が覚めて、わたしは思った。


 もう一度、外に出よう。


 昨日は、衝動だった。気づいたら、外にいた。


 でも今日は、違う。


 わたしは、自分の意志で、扉を開ける。


 昨日見えかけた、あの娘の顔を、確かめに行くために。


   * * *


 街は、昨日と同じように、動いていた。


 でも、わたしの足取りは、昨日とは違った。


 あてもなく、ではない。


 わたしは、何かを探していた。それが何なのかは、まだわからない。けれど、足は、ひとりでに、ある方へ向かっていた。


 角を曲がったとき、足が止まった。


 小さな菓子屋だった。


 硝子の向こうに、焼き菓子が並んでいる。素朴な、なんでもない焼き菓子。


 その匂いが、鼻に届いた瞬間。


 わたしの手が、勝手に動いた。


 指先が、何かをこねる形に丸まる。生地をまとめ、型に流し、卵を割る――その動きを、わたしの手は、覚えていた。


 思い出した。


 昨日、ハンナが言っていた娘。


 粉だらけで、楽しそうだった、あの娘。


 それは、わたしだ。


 嫁ぐ前。


 わたしは、菓子ばかり焼いている娘だった。


 貴族の娘がやることではないと、母に何度も叱られた。それでも厨房に忍び込んで、粉だらけになって、焼いた。


 卵の泡立つ音が好きだった。


 窯の前で待つ時間が好きだった。


 焼きあがった菓子を、ハンナたちが「お嬢様のは世界一だ」と笑って食べてくれるのが、たまらなく好きだった。


 あの頃のわたしは、夢中だった。


 わたしの時間は、あそこにあった。


 嫁いで、やめた。


 貴族の妻が厨房に立つなどみっともない、と夫に言われて。


 最初は寂しかった。でも、だんだん、それも諦めた。


 諦めて、諦めて、諦めることにも慣れて――気づいたら、何も感じない女になっていた。


「いらっしゃい。何か、お包みしましょうか」


 菓子屋の女将が、にこやかに声をかけてきた。


 わたしは、硝子越しの焼き菓子を一つ、買った。


 店を出て、その場で、一口かじる。


 素朴な、なんでもない味。


 なのに、その味が、喉の奥を熱くした。


 ああ。


 わたしは、これが好きだった。


 食べるのも、焼くのも、ぜんぶ。


 三十年、忘れたふりをしていた。みっともないと言われて、仕舞い込んで、鍵をかけて。


 でも、好きなものは、好きなままだった。


 ずっと、わたしの中で、焼きあがるのを待っていた。


 わたしは、残りの菓子を口に押し込んで、来た道を引き返した。


 屋敷へ。


 今度は、逃げるためじゃない。


   * * *


 屋敷に着くと、わたしはまっすぐ、厨房へ向かった。


 使用人たちが、ぎょっとした顔をする。奥様がこんなところへ来るなど、三十年、一度もなかったのだから。


「奥様? あの、何か……」


「厨房を、少し借ります。粉と、卵と、砂糖を。あとは、わたしが」


 料理長が、目を白黒させている。


 無理もない。でも、わたしは構わなかった。


 エプロンを巻く。


 その瞬間、背筋が、自然と伸びた。


 ここは、わたしの家の厨房だ。


 三十年前、夫に「立つな」と言われた場所。みっともないと、取り上げられた場所。


 でも、ここは、わたしの家だ。


 誰に遠慮することがあるだろう。


 粉を量る。卵を割る。砂糖を加える。


 手が、覚えていた。


 三十年近く触れていないのに。指は、当たり前のように動いた。


 泡立て器を握る。卵が、白く、ふわりと泡立っていく。


 ああ、この音だ。


 この音が、好きだった。


 使用人たちが、遠巻きに見ている。最初は戸惑った顔で。でも、だんだん、その目が変わっていく。


 奥様の手つきが、素人のものではないと、気づいたのだ。


 生地を型に流す。窯に入れる。


 待つ。


 窯の前で、ただ待つ。


 その時間が、こんなにも満ちていたなんて、忘れていた。


 夫のことも、女のことも、奪われた財のことも、頭から消えていた。


 どうでもよかった。本当に、どうでもよかった。


 わたしの心を占めているのは、ただ、焼きあがるまでの時間だけ。


 やがて、甘い匂いが立ちのぼる。


 窯を開ける。


 きつね色に焼けた菓子が、そこにあった。


 料理長が、おそるおそる一つ手に取り、口に運ぶ。


 もぐもぐと噛んで――目を見開いた。


「……奥様。これは」


 声が、震えていた。


「こんなお菓子、わたしは……長年この厨房におりますが、食べたことがございません」


 ほかの使用人たちも、一つ、また一つと手を伸ばす。


 みな、同じ顔をした。驚いて、それから、ほころぶ顔。


 三十年ぶりだった。


 誰かが、わたしの焼いた菓子を食べて、笑ってくれるのは。


 胸の奥が、じんと、熱くなった。


 もったいなかったのだ。


 わたしは、もったいないことをしていた。


 自分で、自分の三十年を、仕舞い込んでいた。


   * * *


 菓子を一皿、手にして厨房を出たところで、夫と鉢合わせた。


 夫は、出かけるところだったらしい。たぶん、あの女のところへ。


 わたしを見て、夫はわずかに眉をひそめた。


「……どこへ行っていた。供も連れず、はしたない」


 いつものわたしなら、うつむいて「申し訳ありません」と言っただろう。


 でも。


 わたしは、まっすぐに夫を見た。


「外へ。それから、菓子を焼いていました」


 夫の視線が、わたしの手の皿に落ちる。


「……菓子? おまえが? いい年をして、みっともない」


 みっともない。


 昔、わたしの「好き」を奪った、その言葉。


 でも、今日はもう、その言葉は刺さらなかった。


 わたしは、笑った。


 久しぶりに、心から。


「ええ。わたしは、もう若くない。年をとりました」


 夫が、たじろぐ。


「でも」


 わたしは、手の中の皿を、そっと抱え直した。


「年をとった。それだけのことです」


 夫は、何も言い返せなかった。


 わたしは夫の横をすり抜けて、屋敷の奥へは行かず――もう一度、外を向いた。


 奪い返したいものは、何もない。夫も、女も、財も、どうでもいい。


 取り戻したいのは、夢中だった、わたし自身。ただ、それだけ。


 夕日が、皺の刻まれた頬を、あたたかく照らしていた。


 わたしは、もう一度、外へ踏み出した。


 今度は、自分の足で。


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