年をとった、ただそれだけ ~夫も、女も、奪われた財も、どうでもよかった~
夫に女がいることを、わたしは知っている。
知っていて、何も言わなかった。
言えば、この静かな暮らしが崩れる。崩れたところで、わたしに行く場所などない。だから、知らないふりをした。
もっとも、夫の女のことなど、もう、どうでもよかった。
この家に嫁いで、三十年。心は、とうに冷えきっていた。
今日、家令が青い顔で帳簿を持ってきた。
夫が、わたしの名義の財を、少しずつ動かしていた。あの女のために。
「奥様、いかがいたしましょう」
家令は震えていた。わたしの代わりに、怒ってくれていた。
でも、わたしは。
ああ、と思っただけだった。
それだけだった。
怒りは、湧かなかった。夫にも。女にも。奪われた金にも。不思議なほど、何も。
そのことに、ぞっとした。
わたしは、いつから何も感じなくなったのだろう。
「……下がっていいわ」
家令が出ていく。部屋に一人になる。
鏡の前に立った。
目尻に、見覚えのない皺がある。頬は少しこけて、昔は誰かに褒められた髪も、もう艶を失っている。
きれいだと言われたことが、あった気がする。
何かに夢中だった頃が、あった気がする。
気がするだけだ。思い出せない。
わたしの時間は、いったいどこへ行ったのだろう。
夫を責めることは、できる。女を詰ることも、財を取り戻すこともできる。
でも、どれにも心が動かない。
動かないわたしが、いちばん恐ろしかった。
諦めていたのだ。
夫を。暮らしを。そして、たぶん、わたし自身を。
いつから。
わからない。
わからないまま、わたしはふらりと立ち上がっていた。
屋敷の、外へ。
* * *
外出が、なかったわけではない。
夜会。茶会。家のための、義務の外出。供を連れ、馬車に乗り、決められた場所へ行き、決められた顔で笑う。そういう外出なら、いくらでもあった。
でも、こんなふうに。
供も連れず、行き先も決めず、ただ自分の足で街へ出るのは――いつ以来か、思い出せなかった。
門をくぐった瞬間、風が頬を撫でた。
ただの風だ。なんの変哲もない、午後の風。
なのに、涙が出た。
外は、ばかみたいに明るかった。
わたしが屋敷の奥で時を止めている間も、世界はずっと、こうして動いていたのだ。
わたしだけが、止まっていた。
誰かに止められたわけじゃない。
わたしが、わたしを閉じ込めていた。
あてもなく歩いた。
貴族の妻が供も連れず、こんなところを歩いてはいけない。頭の隅でそう思う。でも、足は止まらなかった。
* * *
最初に出たのは、大通りだった。
石畳が、午後の日を照り返している。
荷馬車が軋みながら過ぎていく。御者が威勢よく声を張り、道の端を行く人々がそれを避ける。仕立てのいい外套を着た紳士。籠を抱えた女。駆けていく丁稚の少年。
誰もが、どこかへ向かっていた。
目的があって、足を動かしている。
わたしには、それがなかった。行き先も、用事も、何もない。ただ歩いている。
なのに、不思議と惨めではなかった。
むしろ、軽かった。
どこへ行ってもいいということは、どこへも縛られていないということだ。
わたしは、ひさしぶりに、どこへも縛られていなかった。
* * *
大通りを抜けると、広場に出た。
噴水があった。
水しぶきの中で、子どもたちが歓声を上げている。母親が「濡れるよ」と笑いながら手を引く。老人がベンチで鳩に豆をやり、若い男女が肩を寄せて何かを囁いている。
わたしは、噴水の縁に腰かけた。
貴族の妻が、こんなところに。
でも、もう誰も、わたしが何者かなんて気にしていない。ここでは、わたしはただの、年をとった一人の女だった。
その匿名さが、心地よかった。
屋敷では、わたしは「奥様」だった。誰かの妻で、家の体面で、諦めた女だった。
ここでは、わたしは、ただのわたしだ。
水音を聞きながら、ぼんやりと座っていた。
どれくらい、そうしていただろう。
日が少し傾いて、噴水のしぶきが金色に光りはじめた頃。
わたしは、また立ち上がった。
* * *
広場から、細い路地に入った。
石畳が狭くなり、両側に古い建物が迫る。洗濯物が頭上に渡され、どこかの窓から鍋の匂いが漂ってくる。
子どもが二人、棒きれを振り回して駆けていく。
猫が塀の上で、わたしを見下ろしていた。
路地の奥から、川のせせらぎが聞こえた。
音をたどって歩くと、橋に出た。
川沿いだった。
ゆるやかな流れに、夕日が溶けている。
岸辺には柳が並び、釣り糸を垂れる老人がいた。洗濯をする女たちの笑い声が、水面を渡ってくる。
わたしは、橋の欄干にもたれた。
流れる水を、ただ眺めた。
水は、止まらない。
昨日も、今日も、わたしが屋敷で諦めていた三十年のあいだも、この川はずっと流れていたのだ。
止まっていたのは、わたしだけ。
その事実が、もう、悲しくはなかった。
むしろ――遅れて、いま、わたしも流れに戻ってきた。そんな気がした。
* * *
橋を渡りきったところで、声をかけられた。
「……もし。失礼ですが」
振り向くと、年配の女が立っていた。
質素だが、きちんとした身なり。買い物籠を腕にかけている。
その顔に、見覚えがあった。すぐには、思い出せない。
女は、わたしの顔をまじまじと見て、それから、はっと口元を押さえた。
「……お嬢様。お嬢様では、ありませんか」
お嬢様。
その呼び方に、胸の奥が、ことりと動いた。
もう何年も、誰にもそう呼ばれていない。
「あなたは……」
記憶が、ゆっくりとほどけていく。
「ハンナ。わたしが嫁ぐ前、実家にいた」
「はい! はい、ハンナでございます。まあ、まあ……こんなところで」
ハンナは、目に涙を浮かべて、わたしの手を取った。
その手の、ごつごつとした感触。粉と水仕事で荒れた、働き者の手。
覚えていた。この手に、わたしは何度も支えられた。
「お変わりに……」
ハンナは言いかけて、言葉を呑んだ。
お変わりになって。
その先を、言えなかったのだろう。
無理もない。嫁ぐ前のわたしと、今のわたしは、きっと、別人のように違う。
ハンナの目が、それを語っていた。困惑と、それから、かすかな哀しみ。
わたしは、自分がどんなふうに変わってしまったのかを、その目の中に見た気がした。
「……ええ。年をとったわ」
わたしが言うと、ハンナは慌てて首を振った。
「いいえ、いいえ。お元気そうで、何よりでございます」
優しい嘘だった。
しばらく、近況を交わした。ハンナは嫁いだ娘を頼って、この近くで暮らしているという。実家の屋敷を下がってからの長い年月を、ぽつぽつと話してくれた。
別れ際。
ハンナは、何かを思い出したように、ふと笑った。
「お嬢様。わたくし、今でも時々、思い出すんですよ」
「何を?」
「お嬢様が、台所にいらした頃のこと」
台所。
「いつも粉だらけになって。叱られても叱られても、菓子を焼いてらして。あの頃のお嬢様ったら、それはもう、楽しそうで」
粉だらけ。
菓子。
その言葉が、胸の奥の、固く閉じた扉を、こつん、と叩いた。
「焼きあがると、わたくしどもに配って。『どう、おいしい?』って、それはもう、いい笑顔で」
ハンナの目が、遠くを見ている。
「あんなに楽しそうなお嬢様、わたくし、ほかに知りません」
わたしは、何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
ただ、胸の奥がざわめいて、なぜか、泣きそうになった。
「……ありがとう、ハンナ」
やっと、それだけ言った。
ハンナと別れ、わたしはまた歩きだした。
粉だらけの娘。
菓子ばかり焼いていた娘。
いい笑顔の娘。
――それは、誰だろう。
思い出せそうで、思い出せない。
でも、確かに、いた。
わたしの中に、そういう娘が、確かに、いた。
* * *
屋敷に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
門をくぐると、使用人たちが駆け寄ってきた。
「奥様! ご無事でしたか。供もお連れにならず、どちらへ……みな、心配しておりました」
そうだろう。供も連れず、行き先も告げず、一日じゅう屋敷を空けたのだ。これまで一度もなかったことだ。
「ごめんなさい。少し、歩いていただけ」
使用人たちは、戸惑った顔で、互いを見合わせていた。
夫は、まだ帰っていなかった。たぶん、あの女のところだろう。
わたしのいない屋敷を、夫が気にした様子もない。
それで、いい。
わたしは、自分の部屋に戻った。
足は棒のようだった。なのに、心は、妙に澄んでいた。
何かが、戻りかけている。
でも、まだ、戻りきってはいない。
それが何なのか、わたしには、まだわからなかった。
ハンナの言葉が、耳に残っている。
――粉だらけで、楽しそうで。
その娘の顔が、もう少しで、見えそうだった。
その夜、わたしは久しぶりに、夢を見た。
粉だらけの手の夢を。
* * *
翌朝、目が覚めて、わたしは思った。
もう一度、外に出よう。
昨日は、衝動だった。気づいたら、外にいた。
でも今日は、違う。
わたしは、自分の意志で、扉を開ける。
昨日見えかけた、あの娘の顔を、確かめに行くために。
* * *
街は、昨日と同じように、動いていた。
でも、わたしの足取りは、昨日とは違った。
あてもなく、ではない。
わたしは、何かを探していた。それが何なのかは、まだわからない。けれど、足は、ひとりでに、ある方へ向かっていた。
角を曲がったとき、足が止まった。
小さな菓子屋だった。
硝子の向こうに、焼き菓子が並んでいる。素朴な、なんでもない焼き菓子。
その匂いが、鼻に届いた瞬間。
わたしの手が、勝手に動いた。
指先が、何かをこねる形に丸まる。生地をまとめ、型に流し、卵を割る――その動きを、わたしの手は、覚えていた。
思い出した。
昨日、ハンナが言っていた娘。
粉だらけで、楽しそうだった、あの娘。
それは、わたしだ。
嫁ぐ前。
わたしは、菓子ばかり焼いている娘だった。
貴族の娘がやることではないと、母に何度も叱られた。それでも厨房に忍び込んで、粉だらけになって、焼いた。
卵の泡立つ音が好きだった。
窯の前で待つ時間が好きだった。
焼きあがった菓子を、ハンナたちが「お嬢様のは世界一だ」と笑って食べてくれるのが、たまらなく好きだった。
あの頃のわたしは、夢中だった。
わたしの時間は、あそこにあった。
嫁いで、やめた。
貴族の妻が厨房に立つなどみっともない、と夫に言われて。
最初は寂しかった。でも、だんだん、それも諦めた。
諦めて、諦めて、諦めることにも慣れて――気づいたら、何も感じない女になっていた。
「いらっしゃい。何か、お包みしましょうか」
菓子屋の女将が、にこやかに声をかけてきた。
わたしは、硝子越しの焼き菓子を一つ、買った。
店を出て、その場で、一口かじる。
素朴な、なんでもない味。
なのに、その味が、喉の奥を熱くした。
ああ。
わたしは、これが好きだった。
食べるのも、焼くのも、ぜんぶ。
三十年、忘れたふりをしていた。みっともないと言われて、仕舞い込んで、鍵をかけて。
でも、好きなものは、好きなままだった。
ずっと、わたしの中で、焼きあがるのを待っていた。
わたしは、残りの菓子を口に押し込んで、来た道を引き返した。
屋敷へ。
今度は、逃げるためじゃない。
* * *
屋敷に着くと、わたしはまっすぐ、厨房へ向かった。
使用人たちが、ぎょっとした顔をする。奥様がこんなところへ来るなど、三十年、一度もなかったのだから。
「奥様? あの、何か……」
「厨房を、少し借ります。粉と、卵と、砂糖を。あとは、わたしが」
料理長が、目を白黒させている。
無理もない。でも、わたしは構わなかった。
エプロンを巻く。
その瞬間、背筋が、自然と伸びた。
ここは、わたしの家の厨房だ。
三十年前、夫に「立つな」と言われた場所。みっともないと、取り上げられた場所。
でも、ここは、わたしの家だ。
誰に遠慮することがあるだろう。
粉を量る。卵を割る。砂糖を加える。
手が、覚えていた。
三十年近く触れていないのに。指は、当たり前のように動いた。
泡立て器を握る。卵が、白く、ふわりと泡立っていく。
ああ、この音だ。
この音が、好きだった。
使用人たちが、遠巻きに見ている。最初は戸惑った顔で。でも、だんだん、その目が変わっていく。
奥様の手つきが、素人のものではないと、気づいたのだ。
生地を型に流す。窯に入れる。
待つ。
窯の前で、ただ待つ。
その時間が、こんなにも満ちていたなんて、忘れていた。
夫のことも、女のことも、奪われた財のことも、頭から消えていた。
どうでもよかった。本当に、どうでもよかった。
わたしの心を占めているのは、ただ、焼きあがるまでの時間だけ。
やがて、甘い匂いが立ちのぼる。
窯を開ける。
きつね色に焼けた菓子が、そこにあった。
料理長が、おそるおそる一つ手に取り、口に運ぶ。
もぐもぐと噛んで――目を見開いた。
「……奥様。これは」
声が、震えていた。
「こんなお菓子、わたしは……長年この厨房におりますが、食べたことがございません」
ほかの使用人たちも、一つ、また一つと手を伸ばす。
みな、同じ顔をした。驚いて、それから、ほころぶ顔。
三十年ぶりだった。
誰かが、わたしの焼いた菓子を食べて、笑ってくれるのは。
胸の奥が、じんと、熱くなった。
もったいなかったのだ。
わたしは、もったいないことをしていた。
自分で、自分の三十年を、仕舞い込んでいた。
* * *
菓子を一皿、手にして厨房を出たところで、夫と鉢合わせた。
夫は、出かけるところだったらしい。たぶん、あの女のところへ。
わたしを見て、夫はわずかに眉をひそめた。
「……どこへ行っていた。供も連れず、はしたない」
いつものわたしなら、うつむいて「申し訳ありません」と言っただろう。
でも。
わたしは、まっすぐに夫を見た。
「外へ。それから、菓子を焼いていました」
夫の視線が、わたしの手の皿に落ちる。
「……菓子? おまえが? いい年をして、みっともない」
みっともない。
昔、わたしの「好き」を奪った、その言葉。
でも、今日はもう、その言葉は刺さらなかった。
わたしは、笑った。
久しぶりに、心から。
「ええ。わたしは、もう若くない。年をとりました」
夫が、たじろぐ。
「でも」
わたしは、手の中の皿を、そっと抱え直した。
「年をとった。それだけのことです」
夫は、何も言い返せなかった。
わたしは夫の横をすり抜けて、屋敷の奥へは行かず――もう一度、外を向いた。
奪い返したいものは、何もない。夫も、女も、財も、どうでもいい。
取り戻したいのは、夢中だった、わたし自身。ただ、それだけ。
夕日が、皺の刻まれた頬を、あたたかく照らしていた。
わたしは、もう一度、外へ踏み出した。
今度は、自分の足で。




