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返信  作者: 八町
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十話

桜が、一年に一度の花を咲かせ、勇樹は二年生に、奈々枝は三年生になっていた。

「勇樹君、ちょっと待って」奈々枝の母親が病院のロービーで勇樹を呼び止めた。勇樹は振り向いた。

奈々枝は頭痛が止まらないと言って病院に行き、そのまま入院していたのだ。勇樹は、学校の帰りに奈々枝を見舞いに来て帰るところだった。

「勇樹君、また、奈々枝をお見舞いに来てね」

「ええ、もちろんですよ。でも、思ったより元気そうで良かったです。いつ頃、退院できるんですか」

「そうねぇ、それは、先生が決めることだから」母親は勇樹から顔をそらした。

 いつも明るい母親がこんな表情をするなんて。本当は奈々さん重い病気じゃないんだろうか。自分を不安にさせないために、嘘を言っているんじゃないのか。勇樹は母親の表情が気になった。

「ところで、なんて言う、病気なんですか?」

「それは、まだ、検査中だから・・・」母親は口ごもった。

「分かりました。また、お見舞いに来ますよ」

「お願いね。良かったら、これ食べて」母親はタイヤキを勇樹に手渡した。

 勇樹は病院を出て後ろを振り返った。母親が涙を流しながら病室に向かうところが見えた。おそらく、母親はなんの病気だか知っている。もしかして重い病気なのかも知れない。勇樹は言いようのない不安が襲ってくるのを感じた。

 そんな不安を払拭するように、勇樹は、時間があれば奈々枝を見舞った。時には練習帰りに、正人とさゆり、文江も一緒に四人で見舞いに行った。ある時は、ライブで録音したCDを持って行ったこともあった。奈々枝は喜んでヘッドホンでそれを聞いていた。

「私も早く退院して、ライブを見て見たいな。ねえ、勇樹、きっとまた行けるよね」

 奈々枝はすがるような目で勇樹を見つめた。勇樹はそんな奈々枝を見るのが辛かった。勇樹は奈々枝から、脳の腫瘍があるけど良性ですぐ直ると聞かされていたが、奈々枝も、もう二ヶ月も検査や何やらで入院していたので、心配だったのだろう。その奈々枝の気持ちが痛いほど勇樹には伝わったし、ロビーで見送った時の母親の姿が頭から離れず、勇樹にも本当にすぐ直る病気なのか心配だった。

「もちろん。早く、上手くなった俺の歌を奈々さんに聞かせたいよ」勇樹はそう言った。


 勇樹は帰り道、ホームセンターに寄って木片を買って来た。そして、家に帰り、ゴソゴソと中学時代に使った彫刻刀を探した。彫刻刀を見つけ机に向かうと、鉛筆で下書きをし、木片を削り始めた。勇樹は奈々枝にオリジナルのお守りを作ろうと思ったのだ。

 いつしか、机の上と机の周りは木屑で一杯になった。しかし、そんなことはおかまいなしに、勇樹は一心に木片を削った。「いてっ!」彫刻刀で手を傷つけても、カットバンを張りひたすら彫刻等を握った。やすりで削り、サンドペーパーもかけた。

「出来た!」それは、もう夜も明けようかという時間だった。勇樹はそれを、勇樹大明神と名付けた。それは、勇樹がギターを持って歌っている姿をしている。という風に奈々さんが思ってくれたらいいかな。という形をしていた。

 うーん。達成感はあるけど・・・まあいいや。俺の芸術的なセンスはこんなもんだろう。それより気持ちだ気持ち。勇樹はそれをバックに入れると、そのまま机に座ったまま眠ってしまった。


 次の日、勇樹が病室に行くと、奈々枝のクラスの友達が作った、立派な千羽鶴が飾られていた。

「さっき、持ってきてくれたんだ」奈々枝が千羽鶴を見て言った。

 あちゃー、この千羽鶴に比べたら、俺のは・・・。勇樹はソーっとバックの中の勇樹大明神を見て、千羽鶴と比べた。これじゃ笑われるよな。いや、せっかく一生懸命作ったんだ。笑われてもいい、逆に笑って元気になって欲しい。

「実は、俺もお守りを作ってきたんです。見て驚かないで下さいよ。せーの、じゃーん。名付けて、勇樹大明神」勇樹はバックの中から勇樹大明神を取り出した。

奈々枝はそれを手に取り、逆さまにしたり、下と思われる部分を覗いたりした。勇樹は指で勇樹大明神をさして説明した。

「あのー、この部分はですね、一応ギターのつもりです。それからこれは、足。そして、これは頭です。ここはかなり分かりづらいと思いますが・・・」

「勇樹、その手どうしたの?」奈々枝は勇樹の左手の指全部に張ってあるカットバンを見て驚いた。

「これは、作ってる時、切っちゃったんですよ」勇樹は手を握ったり開いたりした。

「勇樹、ありがとう」奈々枝はやさしい微笑を口元に浮かべた。そして、勇樹大明神をじっと見つめた。

「もしかして、これ、勇樹が歌っているところなの?」勇樹は情けない顔で頷いた。

 奈々枝は、両手を口に当てて笑った。勇樹は、奈々枝がこんなに笑ったのを見たのは、病院に入院して始めてだった。

 ひとしきり笑うと、奈々枝は勇樹を見て言った。

「今度、手術することになったんだ」奈々枝は不安そうな目をしていた。

「奈々さん、不安ですか?」勇樹は聞いた。奈々枝は黙って頷いた。

「本当は、こんな時、勇気付けられればいいんでしょうけど。正直言って俺も不安です。また、奈々さんと一緒にライブやりたいし、映画も見たい。いろいろ話しもしたいし、手をつないで歩きたい。だから、奈々さんには病気に勝ってもらいたい。すみません、自分のことしか考えられなくて」

「勇樹、私、頑張るからね。また、勇樹と歩けるように頑張るから」奈々枝は、勇樹大明神を握り締め、ぎゅっと口を結んた。


 手術前日、勇樹は、学校が終わると真っ直ぐ病院へ向かった。病室に入ろうとすると、奈々枝の母親が出て来た。そして、「勇樹君、ごめんね。もう少し後で来てもらえないかな」と申し訳なさそうな顔で言った

「何かあったんですか」勇樹は心配になって聞いた。

「いえ、そういう訳じゃないんだけど」

「お母さん、いいの。入ってもらって」奥から奈々枝の声がした。

「本当に、いいの?」母親が聞いた。「うん、大丈夫だから」

 母親は、勇樹を病室に入れると、エレベーターを降りて行った。

 勇樹は、四人部屋の仕切りのカーテンを開けた。そこには、頭を坊主にされた奈々枝が座っていた。

「どうしたんですか?」勇樹は驚いた。

「頭の手術だから、髪の毛を短くしなくちゃいけないんだって」

「そうなんですか」勇樹は、奈々枝は本当は、自分にこの姿を見せたくはなかっただろうと思った。

「おかしいでしょ・・・でも、今日はどうしても勇樹の顔が見たかったんだ。だから」奈々枝は顔を隠して泣いた。

「奈々さん、俺、そんなことで、奈々さんをどうこう思いませんよ。病気はきっと治りますよ。俺、待ってますから。奈々さんが元気になるまで、ずっと待ってますから。だって俺、奈々さんのこと大好きだから」勇樹は奈々枝のベットに腰をかけて肩に手をかけた。奈々枝は「勇樹」と言って勇樹に抱きついてきた。勇樹は奈々枝の肩に手を回して奈々枝を抱きしめた。

 しばらくすると、母親がグレーの帽子を持って来て奈々枝に被せた。

「奈々枝、大丈夫?」目を赤くした奈々枝を見て母親が声を掛けた。

「うん。大丈夫」奈々枝は首を縦に振った。母親はそれを見ると、また病室を出て行った。

 病院のロビーでは、奈々枝の母親が勇樹を待っていた。勇樹の姿を見ると立ち上がった。

「勇樹君、話しがあるんだけど。ちょっといい?」

 病院の談話室に行き、椅子に並んで座ると母親が話し始めた。

「あの子の病気は、脳腫瘍と言う病気よ。脳の中に腫瘍ができる病気なの。明日の手術で、その腫瘍を取ることになっているの」

「でも、そんなに難しい手術じゃないんでしょう」

「でも、脳の手術だからね。先生にも、麻痺が残るかも知れないし、歩けなくなることもあり得るって言われて」母親は、ハンカチで目頭を抑えた。勇樹は黙ってそれを見ていた。

「私には、もう奈々枝しか家族がいないの。だから、とっても心配で。ごめんね、勇樹君にこんなこと言っても仕方ないのにね」

「いいんですよ。僕も心配ですから」

「もし、奈々枝が歩けなくなっても、勇樹君たまに顔を出してね。奈々枝は勇樹君のことが、本当に好きみたいだから」

「約束します」勇樹は言った。それから母親はずっと下を向いてハンカチを顔に当てていた。


 さゆりと文江は、水曜日の練習に行くために学校から真っ直ぐさゆりの家に向かっていた。

「さゆり、ここの公園通って行こうよ。近道だから」文江がさゆりに言った。今日はホームルームが長引き、ちょとばかり遅くなってしまったので、二人は早足で歩いていた。

「勇樹と正人、もう、着いてるかもね」さゆりは赤信号を無視して、交差点を渡った。文江もその後に続いた。

 公園を歩いていると、一人の高校生がベンチに座って池を見ているのが目に入った。

「あれ?あれ勇樹じゃない」さゆりが指さした。

「勇樹君、練習行くよー」文江が大声で叫んだ。

「おかしいわね。あれは勇樹君だと思うんだけど」

「あれは、勇樹だよ。ほら、あのギターケース。勇樹のだもん。どうしたんだろう」さゆりと文江は顔を合わせると、勇樹の方へ向かった。

「勇樹、どうしたの」さゆりが後ろから声を掛けた。

「別に、なんでもないですよ」

「なんでもないことないでしょう。ほら、勇樹君行こうよ」文江が勇樹の前に立って、勇樹の顔を覗き込んだ。「勇樹君・・・」文江は勇樹の顔を見て黙ってしまった。

さゆりも勇樹に前に立った。勇樹は下を向いて唇を噛み締めていた。その目からは涙があふれていた。

「今日、奈々枝、手術なんだって」さゆりが言った。勇樹は黙って頷いた。

「それで心配で泣いているのね」文江の言葉に勇樹は首を振った。

「勇樹らしくもない。そんなんじゃ奈々枝の病気も直らないよ」さゆりが勇樹の肩に手を掛けた。

「悔しいんですよ」勇樹は手で顔を覆った。そして、また吐き出すように言った。

「悔しいんですよ。奈々さん、今、一生懸命病気と闘ってるのに、俺、何も出来ないじゃないですか。いくら、好きでもどうにも出来ない。手も握れない。頑張れって言うことも出来ない。だから、とって悔しいんですよ」勇樹はこぶしを握り締め、下を向いて涙をこらえた。さゆりと文江も泣いていた。三人はしばらくそこで、なにも話さずにいた。

「プルルル、プルルル」さゆりの携帯が鳴った。

「あっ、正人、うん、ごめん。今日ちょっと、学校で遅くなっちゃって。今から行くから」

「勇樹もいないんですけど、何か連絡ありました?」

「えっ、勇樹?・・・勇樹はね、さっき、今日は来れないって連絡があったよ」

「やっぱり。あいつ学校で元気なかったから、風邪でも引いたのかな」

「たぶんそうだと思う。それじゃ、あと十分位で着くから、」さゆりは携帯を切った。

「勇樹、あたし達は行くからね」さゆりと文江は公園を出るまで何度も勇樹を振り返った。

 勇樹が倉庫についたのは、もう練習が終わる頃だった。勇樹はギターを取り出すと一人で弾き始めた。正人とさゆり、文江はそんな勇樹を見ているだけだった。勇樹は初めて五人で演奏をした曲を歌っていた。


 勇樹は布団に入りながら、奈々枝との楽しい時を思い出していた。手にはクリスマスに奈々枝から貰った写真立てを持っていた。その中には、去年の夏休みの終わりに、みんなで近くの湖に行った時に撮ってもらった、二人の写真が入っていた。

「奈々さん、早く会いたい」勇樹はその写真を見て何度も呟いた。そして勇樹はその日、眠れぬ夜を過ごした。

 次の日の朝、勇樹の携帯が鳴った。その番号は勇樹には見覚えのない番号だった。

「勇樹君?」

「そうですけど」疲れた声で勇樹が応えた。

「朝早くごめんね。それでね、奈々枝の手術成功したから」それは奈々枝の母親の声だった。

「本当ですか!良かった」

「今日、良かったら来て頂戴」

「えっ、でもしばらくは家族以外の人は面会できないって言われましたけど」

「いいの、勇樹君は。もし、なにか言われたら、弟とでも言っておいて、そうすれば入れるから。なんなら、婚約者でもいいわよ」奈々枝の母親はしばらくぶりに明るい声だった。

 勇樹はガバッと布団から出ると、カーテンを開けた。おお、いい天気じゃないか。気持ちいいなー。よーし、やるぞー。勇樹は声を出した。何をやるかは分からないが、勇樹は体に力がみなぎるのを感じた。

「おかわり」勇樹は茶碗を差し出した。

「どうしたの勇樹、今日は随分食欲があるじゃないの」勇樹の母親は茶碗にご飯をよそった。

「行ってきます」勇樹は元気よく家を飛び出した。学校の校門の前に来ると、正人の顔が見えた。

「ウイーッス!」勇樹は手を上げた。

「なんだ、随分元気じゃないか。もしかして、そうか奈々枝さんの手術成功したんだな。良かったじゃないか」正人は思いっきり勇樹の背中を叩いた。

「なんだ、手術の話聞いてたのか」

「昨日練習が終わった後、文江さんに聞いたんだ」

「そうだったのか。でも、本当に良かった。最近の俺、奈々さんの病気のことで頭が一杯でさ。なんか、久しぶりに正人の顔もちゃんと見れてる気がするよ」

「俺も、そう思う。最近のお前は、野球を諦めた時のような顔だったもんな」

教室に入ると、正人の携帯が鳴った。

「おっとメールだ」正人はにやけた顔をして携帯を見た。その携帯にはハデハデなストラップが、がちゃがちゃと付いていた。

「お前、その趣味の悪いストラップどうしたんだ」勇樹は呆れた顔をした。

「失礼な!これは文江さんに貰ったものなんだぞ」

「あっそう。そうっだったのか。フーン、文江さんね」バックの中から弁当やら筆箱を机の上に出していた勇樹は、はっとして正人の方を向いた。

「なんで、お前が文江さんからストラップをもらうんだ」

「勇樹、お前は鈍感だな」正人はにやにやして言った。


 静かに奈々枝が目を開けた。

「目を覚ましたんだね、良かった」勇樹が声を出した。

「全然良くないぞ、向井。お前はさっきからずっと寝ていたようだが、ちゃんと勉強する気があるのか」

 数学のはげちゃびんが怒鳴った。勇樹は、よだれを数学の教科書に垂らして寝てしまい、病院で奈々枝が目を覚ました夢を見ていた。

「はい、すみません」

「罰として、この問題を、今日の放課後までに解いて来い」はげちゃびんは勇樹にプリントを渡した。

「まったく、俺のこの気持ちが分からないなんて、あのはげちゃびんめ。今日くらい、寝ててもいいじゃないかよ」勇樹は、昼休みに一人で数学の問題を解いていた。

 だめだ、こりゃ分からん。分からんというより読解不能だ。困った、今日は早く病院に行きたいのに。勇樹がプリントと格闘していると、正人がやってきた。

「おい、勇樹、だいぶ困ってるようだな」

「まずいよ。全然分からないよ」勇樹は口にくわえた鉛筆を上下させた。

「いい方法を教えてやるよ、これを使え」正人は勇樹の机の上にどさっと一冊の本を置いた。それは、Hな写真がたくさん載っている雑誌だった。

「こんなの見たら、余計、問題が解けなくなっちゃうだろう」勇樹は目を大きくして、その雑誌をペラペラとめくった。

「バカ、違うよ。あいつだよ、あいつ」正人はクラス一のがり勉、宮下を指さした。

「でも、あいつは、こういう時、自分でまいた種は自分で刈り取るのが本来あるべき姿だと思います。とか言って、絶対助けてくれないよ」

「だから、その本を使うのさ。あいつ、実はこういう本、大好きだから、その本と交換条件にすれば、きっと問題解いてくれるはずさ」

「そうか、その手があったか・・・でも、もうちょっとこれ見てからでいいかな」勇樹はまたペラペラと雑誌をめくった。

「勇樹、今日、奈々枝さんに会いに行くんだろう。早くした方がいいんじゃないのか」

「おお、そうだ。こんなことをしている場合じゃない」勇樹はプリントと雑誌をつかむと、分厚い辞書を左手に持ちノートに小さい字でびっしりと辞書の内容を写している、宮下の元へ向かった。

「宮下君。お願いがあるんだけど」勇樹は精一杯のやさしい声で言った。

「僕は、今、忙しいんです。それに、向井君の言うことは大体分かっています。そういうことは、自分で・・・」

「ひとつ、交換条件でどうでしょうか」勇樹はプリントの後ろから、ちらちらと雑誌を出したり引っ込めたりした。宮下は右手で黒ぶちメガネの真ん中を押さえ、顔を雑誌の方へ近づけた。

宮下はキョロキョロと辺りを見回すと、プリントと雑誌をさっと取り、あざやかな手つきで雑誌だけバックに滑り込ませ、問題を解き始めた。そして、あっという間に、全問解き終えた。

宮下はプリントを勇樹に渡し、「困ったら、また、言って下さい」と言ってまた辞書を左手に持ち、ノートに小さい字で辞書を写し始めた。

 それを見ていた正人は、親指を立てた右手を勇樹へ向かって差し出した。勇樹も同じように正人に返した。

「正人、ありがとう。助かったよ。でもあの本どこで手に入れたんだ」

「三組の半田さ。あいつの家は本屋をやっていて、よく店の本を持ってくるんだ。さっき聞いたら、新聞部の部室の天井裏にたくさんあるから、持っていっていいぞって言われたんで、一冊失敬して来たって訳さ」

「正人、お前は本当に頼りになる奴だ。ところで、ものはついでだが。半田君とは、是非、お友達になりたいと思うんだけど。紹介してくれないかな」

「お前、そんなの見て奈々枝さんに悪いと思わないのか」

「正人、どうしたんだ。お前がそんなことを言うなんて」

「実はな、俺、昨日文江さんとキスしたんだ。その時俺は思った。清廉潔白に生きようと」

 勇樹は正人の変わりように驚いて、思考を停止してしまった。こいつの口から清廉潔白なんて言葉が出るなんて。


 放課後、勇樹は、宮下に解いてもらった問題を、自分の字で書き直すとはげちゃびんの所へ行った。

「やれば、出来るじゃないか。だいたい、お前は、いつも・・・」

 はげちゃびんは、くどくどと説教を垂れた。はやく説教終わらないかな。勇樹はいらいらしてそれを聞いていた。

「・・・まあ、そう言うことだ。分かったら帰ってよろしい」

「はい!」勇樹は、職員室を飛び出すと病院へ向かった。

 梅雨がまもなく明ける頃の、ムシムシとした生温かい空気が勇樹に張り付き、勇樹の体からは汗が噴出した。病院に着いた頃は、勇樹の体は汗びっしょりになっていた。勇樹は受付で部屋を聞いた。

「今は、手中治療室にいますので、御家族以外の・・」

「弟です!」勇樹は叫んだ。病室を聞くと勇樹は駆け足で、奈々枝の所を目指した。部屋の前に奈々枝の母親がいた。

「勇樹君、こっちよ」勇樹を見つけると母親が声を掛けた。

「ちょっと待っててね」母親は病室の中に入り、しばらくすると出てきた。「どうぞ、入って」勇樹はちょっと緊張しながら病室へ入った。

 奈々枝は、集中治療室の中央に置かれたベットに横たわっていた。口にはマスクがつけられ、点滴の管も見えた。頭にはタオルが掛けられてあった。そして、タオルの端から赤と黒の電線のようなものが見え隠れしていた。

 奈々枝は、ゆっくりと目を開けた。一瞬勇樹と目が合った。しかし、その視線は勇樹の視線には気付かずに、ゆらゆらと宙を漂った。それを見て、勇樹は少しがっかりした。

「まだ、意識がはっきりと戻ってはいないの。でも、もう大丈夫だって、そのうち意識もはっきりしてくるって、先生が言ってたわ」

「きっと、そうですね」勇樹は奈々枝の顔を黙って見ていた。ふと勇樹は奈々枝が手になにか握っているのを見つけた。

「これ?これね、誰かお友達がくれたのものなのかしら。手術室にも持って行ったのよ。ずっとそれを握ってたみたい。なんでもお守りだって言ってたけど」

「そうですか」勇樹は奈々枝の手に握られている勇樹大明神を見た。

「勇樹」小さな声が聞こえた。勇樹は声のする方に顔を向けた。奈々枝は口を動かして何か言っていた。「ありがとう」勇樹には、奈々枝がそう言っているように聞こえた。

 良かった。本当に良かった。勇樹は涙をこらえることが出来なかった。奈々枝も小さいながらも何度も何度も首を立てに動かした。


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