90話 二つの光
自分が今動かしている腕の感覚すら曖昧になる。
そんな感覚を抱えてサフィレーヌは生まれた。
小さなベッドで寝かされているだけの期間には誰も気が付かなかった。
サフィレーヌの異常性がわかったのは彼女が自分の体で動き始めたときだった。
すぐに転げ、立ち上がろうとしては転げ、酷い時は二日酔いのように吐いてしまう。
だから、サフィレーヌは人目のつかない場所へ隔離された。
カルクルール家の恥とでも思われたのかもしれない。
現に彼女の兄弟姉妹たちはサフィレーヌをよく思っていない。
母であるフィンナがとても偉大で恐ろしい存在であるが故に、子供たちは自分たちもそのようにならなければならないと自然と考えてしまうのだ。
落ちこぼれたくない。
見捨てられたくない。
だから、他人を蹴落として自分を強くみせた。
子供たちにとってサフィレーヌは自分より劣る存在である。そして、彼女が下にいる限り自分たちは安泰なのだ。
実はそれは大人たちにとってもそうであった。
それはフィンナのパートナーたちだ。
彼ら、彼女たちもフィンナに飽きられないように必死だった。
女性たちは自分を磨き上げ、男性たちは自分とその子供の優秀さがフィンナに対してのアピールポイントなのだ。
「この……『脳』無しがっ!!」
だから、サフィレーヌは父親に殴られた。
サフィレーヌと違い、宮殿での暮らしを許されているはずの父アランはわざわざサフィレーヌの暮らす離れにやってきて彼女を殴った。
理由としては単純なもの。
フィンナの夫としての地位が低くなったのをサフィレーヌのせいにして、八つ当たりをしているのだ。
実際は彼にフィンナが男性的な魅力を感じなくなっただけのこと。
顔立ちの良い好青年だったアランはいつの間にか酒と他の女に溺れる典型的な堕落を得ていたのだ。
彼らフィンナのパートナーにとっては何回フィンナのベッドに呼ばれたのかがステータスとなる。
だが、最近の彼は話しかけられてすらいなかった。
その理由が自分にあると気付けていたのなら、フィンナは再びアランを愛していただろう。
しかしできていないから、彼はそうしてサフィレーヌを殴っていた。
「お前のようなものが生まれたからっ!! クソォッ!!」
幼いサフィレーヌは未熟ではあるが、しっかりと母の才能を引き継いでいた。
それに周囲が気付かなかったのは、優秀すぎるが故に自分の立ち位置を彼女が理解してしまったからだ。
自分は劣った存在であり、価値の低い人間であると学習してしまったのだ。
そのように自らを形作り、定義した。
周りの人間がそう望むのならばそうしておこうと幼い純粋なサフィレーヌは自然に思ったのだ。
子供にとって世界とは親である。
だからこそおかしいと思うものでも世界が正しいというのならば従うのである。
その振るわれる暴力も、もしかすると自分が理解できぬだけで、愛を持った癒しなのかもしれない。
そう思うしか無かった。
サフィレーヌが優秀であると、なぜ優秀であるフィンナが気付くことができなかったのか。
それは偶然の結果としか言えない。
サフィレーヌが生まれた年は本当に混乱の極みであり、それは母フィンナも例外ではなかった。
あのフィンナが“娘を気にすることができぬほど追い詰められていた”とまで言えば、どんなものであったか理解できるだろう。
「あっ……」
その夜もサフィレーヌは転んでいた。
宮殿の離れとはいえ豪華なサフィレーヌの部屋は父親が入り浸り、いつの間にか彼女は廊下で寝るようになっていた。
ベッドで寝ようが、床の上で寝ようが、どうせ感覚的には変わらない。
父親に殴られた痕など残っていない。
サフィレーヌが回復魔法で治したからだ。
馬鹿な父親は証拠を残すような殴り方をしてしまう。
だから、サフィレーヌがその後片付けをしているのだ。
傷を治し、壊れた家具を直した。
彼女が魔法を学んだのはそんなきっかけだった。
彼女の抱える障害は魔法を扱う上ではとても便利なものだった。
膨大な魔力の生成を自分の体内の魔素で行えてしまうのだから。
だが、魔法を使うとサフィレーヌの脳は機能を取り戻していってしまう。
なぜ機能がまともになることを厭うのか。
本来の優秀さを取り戻すことをなぜ嫌がるのか。
そんな理由は決まっている。
自分の状況がいかに惨めなのか気付いてしまうからだ。
だから魔法は好きで、──嫌いだった。
「…………」
その時は久しぶりに涙を流した。
自分の未来を想像できてしまったからだ。
僅かに覚えている人間たちの行動を思い出す度に、憎しみとおぞましさが湧き上がってきた。
非効率で下劣な生物に対しての侮蔑が自分に宿っていくのをサフィレーヌは感じていた。
人間の記憶というものは、強いものを残す。
それは危機回避の為の本能だ。
そして、自分の記憶の時系列すら曖昧だったサフィレーヌに残された思い出は冷たい床と腫れた自分の肉体。そして、なぜか自分を笑う低俗で低劣な兄弟たち。
七年も生存を続ければサフィレーヌも理解していた。
自分がどれほど優れた生物であるのかを。
そして同時に、そう思ってしまう傲慢な自分が嫌いだった。
確実に“愚にも劣る行動”を学んでいる自分に吐き気がしたのだ。
侮蔑と暴力を学んだ優秀な生物がどうなるのか、サフィレーヌは予測して泣いていた。
それを止めようとしてもどうせ忘れてしまうし、自分の意識など曖昧だ。飛び飛びの人格にはなにも期待できない。
諦めが彼女を支配していた。
『人間を理解する怪物』が産声を上げようとしていた。
「アンタ……廊下でなにしてんの? 寝ぼけた?」
「…………?」
だがその声は一旦鳴りを潜めた。
床にうつ伏せになっていたサフィレーヌが振り返り見上げると、そこには同い年くらいの少女がいたのだ。
それは人に生み出された人。
自分を選ばれたものだと勘違いした純粋すぎる子供。
王女を詐称することになる愚かな小娘。
「ええ? 泣いてるの? きったないわね……。ほら、これで拭きなさいよ」
「……」
だが、サフィレーヌにとって彼女は間違いなく尊き者であった。
その少女はその日に宮殿にやってきたばかりの農民だった。
その証拠に差し出されたのは縫い目だらけのハンカチだ。
庶民臭い、けれど暖かさのある施しだった。
少しそれを汚すのはもったいなかった。
やがて、二人は親友となる。
純粋すぎるが故にその親友は少し傲慢に成長していくことになるが、それも彼女の個性だった。
彼女の名前はミゼリア。
サフィレーヌにとってはただのミゼリアだ。
「ずびびびびび!」
「ぎゃあああああ!! なんでスカートでかむのよ!?」
余談ではあるが、この夜に何処かの家では男装して脱走した少女がいて、女装した少年と出会っていたという。
それは世界すらも予期していないただの偶然であった。
◆◇
少しの眠気と疲労を感じながら、サフィレーヌは隣を見る。
そこにはベッドで眠るルクスを見つめ続けるミゼリアの姿があった。
その表情には本気で彼を心配していることがわかるくらいの感情が漏れ出している。
自分もそんな酷い表情をしているのだろうとサフィレーヌは自嘲した。
「なによ、急に笑って」
ミゼリアを気にしていたことを、ミゼリアに悟られていたようだった。
「ううん……なんかおかしくて」
本当にその通りだった。
口にしてサフィレーヌはそう思う。
まさか自分が男のことで親友とこじれるとは思っていなかったのだ。
こうして冷静に恋敵と話せるようになるまで時間がかかりすぎていた。
「ああ……。そうよね。なんだか、たしかに、変な感じがしてる」
ミゼリアの方も複雑な顔をしながら何かを思い出しているようだった。
お互いに言いたいことがあるはずなのに、なんだかそれも馬鹿らしい気がしていた。
「あくまで同盟」
ひとまず同盟は結束した。
しかし、サフィレーヌはルクスを誰かに譲る気などない。
独占欲は少しも衰えていなかった。
「わかったわよ……。そういうとこは変わんないわね……」
それをミゼリアはサフィレーヌの変わらない部分だと言う。
サフィレーヌは自分でもルクスという心を焦がす存在を手にしたことで、色々と変化したはずだった。
でも、あくまでそれを親友はサフィレーヌの一部であると流すように言ったのだ。
「…………っ」
「……? ええっ!? なんで泣くのよ!! ほらこれで拭きなさい……」
差し出されたハンカチを無視して、サフィレーヌは親友の胸に飛び込んだ。
「ぐじゅ……っ」
「だからなんでいつもハンカチで拭いてくれないの……」
胸元を涙と鼻水で濡らされながらも、ミゼリアは抱き返した。
それが本当に嬉しくてサフィレーヌは言葉を発した。
「ごめんね、……ごめんねミゼリアちゃん……。わたし、どうしてもルクスが好きで……。取られたくなくて……」
「────」
嘘の音を嫌うミゼリアが何も反応できないほどの、偽りのないサフィレーヌの声だった。
そして、ミゼリアもわかってしまう、理解できてしまう幼稚な理由だった。
だから彼女は『何に対しての謝罪なのか』などという質問は返さなかった。
「……いいのよ。私の方なんかもっとごめんなさい。ずっと偉そうな態度を取っていて……。
勘違いしていたのよ。私自身の力じゃないっていうのに、上に立った気になっていたの」
「────」
今度はサフィレーヌが言葉を失う番だった。
ミゼリアが先程サフィレーヌに“変わらない”と言った理由がわかった気がした。
ミゼリアが本来の、あの夜の日のような優しい部分を見せてくれたのだ。
変わっていない部分が戻ってきた感覚だった。
「またミゼリア“ちゃん”って呼んでくれる?」
「もう呼んでるよ」
「ふふふ、そうだったわね」
「えへへ……」
サフィレーヌの左手の腕輪と、ミゼリアの胸元のブローチが少し光った気がした。
「……それで? アンタ、いつからコイツのこと好きだったのよ?」
しばらくして落ち着いた後にミゼリアはそんな話題を切り出した。
お互い恋をしているのに、そんな話を親友と共有する経験など二人は初めてである。
不仲になっていたのもあるが、その相手が同じだというのだから奇妙な話だった。
「初めて会ったとき」
「ええ!?」
一目惚れだったというサフィレーヌに驚くミゼリア。
「一緒に飲み物を飲んだの」
「それで?」
「だから」
「? ちょっとついていけないわ……」
「だから、飲み物を二つ持って待ってたのに、ミゼリアちゃんが奪おうとして、それでしかもルクスがそこに来て、ミゼリアちゃんと話し始めて、仲良くなりそうで、そしたらお姉様が来て──」
「ちょっ!? わかった、わかったから……落ち着きなさい」
サフィレーヌの腕輪が光ったかと思うと、突然彼女がつらつらといろいろと感情の籠もった言葉を語りだした。
それで察したミゼリアが慌てて止めた。
「そうだったのね……。悪かったわよ。いや、あのときのアンタ変な噂になってて……。それで、その、やめさせようと思って……」
「許すけど怒る」
「ああ……ずっと覚えてそうね……」
怒りながら肩に突撃してきたサフィレーヌを撫でながら、ミゼリアは乾いた笑みを浮かべた。
「ミゼリアちゃんはルクスの何が好きになったの? わたしは甘えさせてくれるところ」
ルクスの父性に惚れているサフィレーヌに対してミゼリアは触れることはしなかった。
サフィレーヌが父性を求める理由に思い当たることがあるからだ。
「んー……いや、別に、あれだけど……。言うのなら、『声』かも……?」
ミゼリアは自分でも驚くくらいに言葉につまりながら答えた。
「へえ、耳良いもんね、ミゼリアちゃん。わかっててやってそうかも、この人……」
そう言ってサフィレーヌは眠るルクスの口を摘んだ。
「わかってるって……?」
「なんでもない。ミゼリアちゃんすごくチョロそうだから」
「一目惚れのアンタが言わないでくれる?!」
「わたしは運命だから」
「えぇ……? 思ってたけど、ルクスのことになるとすごいわねアンタ……」
真面目な顔で運命を語るサフィレーヌに少しミゼリアは引いた。耳元で囁かれただけで落ちた自分のことは棚に上げている。
「……となるとヴィクトリアも一体どんな理由なんだかね」
溜め息をついてミゼリアは突然ルクスにも惚れたと言い放ったヴィクトリアのことを話す。
それを聞いたサフィレーヌはしばらく黙っていたが、ある告白をした。
勝手にそれを喋るのはよくないことだと理解していても、こじれる前に先に知らせておくべきだと思ったのだ。
「ミゼリアちゃん、今から話すことは秘密」
「ん? なによ、突然」
「ルクスと彼の連れているリエーニって使用人は同一人物」
「…………? …………は?」
面食らった顔をしているミゼリアにサフィレーヌはさらに追撃する。
「大会で見たようにルクスはゴーレム魔法が得意。普段はゴーレムを使用人としているの。
あの演劇の役者の女性たちは全員ルクスが操っているゴーレム」
「────? んんんんんんッ!?」
「お姉様は多分女装しているルクスと昔会っていた」
「じょそっ…………っ!? どうしてわかんなかったのアイツ!!」
「ミゼリアちゃんだってパーティの時わかってなかった」
「あの時の騎士の子がルクス!? んぎゅえええええ?」
考えすぎて何故か体が捻じれていくミゼリア。よほどの衝撃だったのだろう。
だがそれもサフィレーヌには理解できた。
彼女も自分の特殊な感覚がなければ見抜けなかったことだからだ。
「雰囲気がだいぶ違うのだけど!?」
「ルクスはすごく誤魔化しが上手」
「……ルクスって男よね?」
ついには眠るルクスの体の一部を見つめるミゼリア。
さすがに洒落になっていないのでサフィレーヌは手で制した。他意はかなり含まれていた。
「まあ……たしかに武帝国出身って話だし、そうなのかしらね?」
「誰が?」
「え? ああ、リエーニがよ。オリジェンヌの屋敷からフォノス家に雇われたらしいし」
そのミゼリアが話す情報はサフィレーヌの知らないものだった。
リエーニの経歴など作る意味などないと思っていたが、存在することに驚いた。
「あのサロンに誘われた時に言っていたのよ、ヴィクトリアが。あの二人ってそこで出会ったらしいわよ? ルクレヴィス家の別邸に雇われていたとか」
「…………。ルクスは実際に働いていた……?」
「そうらしいけど……。どうかした?」
サフィレーヌは痛む頭を酷使して、話のおかしさに困惑していた。
そうだ。だっておかしい。
武帝国出身の人物が女装して王国で使用人として働く。
その後、一介の使用人が伯爵家の跡取りになっている。
単純な暗殺対策だけではない予感がサフィレーヌにはあった。
「────『ルクレヴィス家』?」
何か、はめてはいけないピースをサフィレーヌは見つけてしまったような気がした。
(お姉様の学園入学……。ルクスの養子入り……。ミゼリアちゃんの……擁立……?)
数年前、親友が見せてきた証明書を思い出す。
そこにはしっかりと王の血筋を示す証明がなされていた。
それをもたらしたのはハットリューク王子の親友、ダルン・ヴォル・ルクレヴィス。
そして、あの証明書にはどこにもミゼリアの名前は書かれていなかった。
証明書とはそういうものだ。
しかし、それはいくらでもなりすましが利くということ。
「サフィレーヌ? どうしたの?」
「!!」
こちらを心配そうに見つめる親友の顔が目の前にある。
黄金の髪と目。そう。それは単純な証明だ。
それがあれば十分だ。
しかし────。
「…………」
サフィレーヌはベッドで眠る彼の顔を見た。
いつも通りの顔だ。いつも通りの魔力だ。
“彼は誤魔化しがうまい”とは先程のサフィレーヌの言葉だ。
まだ知らない彼の闇がある。
「ミゼリアちゃん」
「ちょっと! 急に何よ……?」
その闇の深さに恐怖して、サフィレーヌは力強く親友を抱きしめる。
「……少し確かめたいことができたの。ここをよろしくね」
「え? い、いいのかしら? 私たちを二人きりにして?」
「頑張って?」
「!? じょ、冗談よ!!」
今はその可愛い反応が癒しだった。
サフィレーヌの意識は王都にいる自分の母親へと向かっている。
左手の腕輪が限界稼働しているのを感じる。だが、そうまでしないと耐えられない。
扉を開け、サフィレーヌは馬車を探した。
一度落ち着いた戦場が場所を変えて、サフィレーヌの前に現れる。
それは残酷なほどに噛み合う真実だ。
彼女の戦いはそれを受け入れるか拒絶するかの二択である。
つまり、────親友を殺すか、恋人を殺すか。
それを選ぶ簡単なものだ。




