僕に骨のある生き方なんて期待しないでと、声を大にして叫びたくなった結果。
自分自身の境遇にがっかりするなんて、僕の立場を知っている人間にはとても理解できないことだったと思う。
望めば、何でも手に入る立場。
欲しいもの、やりたいこと、珍しくて高価なものでも惜しみなく与えられた。
それが食べ物でも、洋服や宝飾品でも、画材や……人でさえも。
「この娘が、今日からお前の婚約者だ」
そう言って父上に引き合わされたのは、硝子細工のように綺麗でキラキラした女の子だった。
「初めてお目に掛ります。レオンハルト辺境伯が一子、ヴィルジニア=アリアンロッドと申します」
そう言って完璧な礼を取った女の子は、いつも引き合わされる他の子たちとは違って、触れてはいけないと思わせる完璧さに、僕は気圧された。
そんなことは、イオスビーシュ兄上以外で初めてだった。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
頭を上げてじっとこちらを見るヴィルジニアを見て、僕は気付いた。
僕よりも2歳年上だという彼女は、以前から后教育を受けに登城していたことを、僕は知っている。
混乱したまま、笑顔を浮かべて挨拶を返す。
「僕はフィデリオ。これからよろしくね?」
まだ幼さの残る彼女の瞳に見え隠れしていたのは、拒絶と、不快感と、嫌悪感。
本来だったらあいさつ代わりに手の甲にキスぐらいはするはずだけれど、彼女の気持ちを思うと、そんな気分に僕もなれなかった。
だから、殊更明るく、握手を求めた僕を、彼女も、周りも、作法も知らない阿保だと判断したんだと思う。
だけど、明らかに身を固くしていた彼女が、ほんの少しだけ警戒を解いて手を握り返してくれたことがとても嬉しかったなんて、僕は、これからもきっと、伝える機会なんてないと思うけれど。
やっとかすかな笑みを浮かべた彼女を前にして、初めて僕は。
いつか、返すための何かを大切にすることを、始めたのだと思う。
そう。ヴィルジニアは、イオスビーシュ兄上の最愛の婚約者だったのだから。
周囲から馬鹿だと思われていることがある意味好都合だと感じる日が来るとは、僕も思っていなかった。
見た目だけは母に似て華やかな一級品、その上天真爛漫を体現したような10歳になったばかりの子どもに、大人は意外とおしゃべりだった。
いつも通り勉強から逃げ回り、いたずらのふりをして色々な人からうわさ話を集めて歩く。
今まではただの暇つぶしでしかなかった行動が、目的を持っただけでこんなにも大きな発見につながるなんて、僕にはとても新鮮だった。
「ですからぁ、レオンハルト辺境伯は国境の要であると同時に、祭祀を司る家系でもあります。そこのお嬢様、しかも明らかに水の加護をお持ちのお嬢様ともなれば、娶った方が次の王になられるっていうのも当然じゃないですかねぇ」
「しかも、教師たちがしゃべってた感じだと、あのお嬢様は勉強の進みも早くて、議論させたら教師を論破することもしばしばとか」
「それだけじゃありませんよ、剣術の腕も確かで、侍女の見習いたちが訓練場の入り口にタオルを持ってうろうろしてたとか、誰が渡すかでちょっとした諍いが起きたとか」
「王子様の公務の補佐をするために、張り切ってらっしゃったか……あっ」
洗濯室で賑やかにおしゃべりをしていた下働きの女たちが、急に口をつぐむ。
彼女たちが思わず黙ってしまったことで、彼女たちの言う王子様が誰なのか、却ってはっきりしてしまった。
僕は目を伏せ、チラリと浮かんだ苦笑を、無理矢理明るい笑みに切り替えた。
「そっかー。そんな優秀な婚約者を持って、僕の将来は安泰だね! こんなにも両親に愛されて、僕ってば幸せ者だよ!!」
「そ、そうですよ! 王子様ほど恵まれた方は、この国中どこを探したっていやしませんって」
「そうです、そうですよぉ!」
慌てて追従するその姿に、チクチクと胸を刺される。
それは、この完璧に見える幸せを形作るために、何かを奪われて不幸になっている人がいるということだ。
気が付かなければ、幸せだったのかもしれない。
気が付かないふりをして、全部もらってしまえばいいと思わなかった訳じゃない。
だけど、僕は知っている。
15歳の成人を迎えるとともに母方の家門を継いで公爵となった兄の、唇をかみしめ、拳を握り、耐え忍ぶ姿を。
そして兄の婚約者だったあの人の涙を、僕は見てしまったから。
そして、うわさを拾い集めていれば自然と聞こえてしまう。
父上が、母上が、僕自身が、貴族たちに、民たちに、どんな目で見られているのか。
僕は笑顔で明るく振舞ったまま何気ない様子で夕食を食べ、自室に戻った。
そして、堪えきれずに泣いた。
ぐちゃぐちゃで、何が悲しいのかもよく分からなかった。
眠ることも出来ずに、夜更けまで声を殺して泣きながら、今の僕に何が出来るのか、考え続けた。
次の日から、僕は拾い集めた僕に対する悪口の中で、最も気に入ったものをミドルネームとして採用することにした。
もちろん両親には良い顔をされなかったけど、いつも通りだだをこねたらあっさり許可されてしまったあたり、どうかと思う。
理由すら聞かれないんだから、僕の意思なんて尊重されていないっていうことだろう。
またひとつ嫌なことに気が付いてしまったと、唇を尖らせる。
「僕は、自分の身の程ぐらい知ってる。兄上や、あの人のように誰かのために努力なんて出来る気がしない甘ったれで、だから“骨のない”馬鹿っていうのは、本当に正しいよ」
思いっきり泣いたらすっきりしちゃった僕は、たぶん王になんて向いていないんだと思う。
重たい責任なんて背負う気概もないし、自分を犠牲にしたいなんてちっとも思えない。
覚悟とか献身なんていうのは、もっと立派で、しっかり努力している人のものだと思う。
「待っていて。きっと、返すから。だからそれまで――」
城を去る兄の、振り向いた拍子に合った目に浮かんだ深い憎悪を、思い出す。
思い出せば、背筋が凍り付くような感情。
「――どうか僕を、殺さないで」
なぜそこまで憎まれるのか、その理由も知っている。
それでも生きていたいと思う僕は、とても我がままなのかもしれない。
兄上の母上を――王后カトレイアを弑したのは、僕の母の手の者だ。
カトレイア様は、兄上の立場を危うくする存在のはずの僕にも、裏表なく優しく接してくださった。
美しい金の髪と、日向の湖のような、緑がかった水色の瞳の美しい方だった。
儚げでいながら芯が強く聡明な女性。
僕は正直なところ、母上よりもカトレイア様の方が好きだったと言ったら皆に叱られてしまうだろう。
でも、本当に、好きだった。
好きだったんだ。
「まずは、味方を作らないとかなぁ」
呟きは誰もいない部屋に思ったよりも大きく響いて、僕はそっとため息を吐いた。
目を閉じれば、いつか昼下がりの庭先でのティータイムを思い出す。
木陰にしつらえられた東屋の周りを囲む水面が、キラキラと日差しを反射していて、そこに集う人たちの笑顔も輝いていた。
カトレイア様と、兄上と、僕と。
他の邪魔が入らなかった、最初で最後のお茶会。
今なら、思う。
「いつだって邪魔者は、僕だった」
僕は本棚の奥にしまい込んだからくり箱を取り出して、その中にしまい込んだ鍵のついた日記帳を取り出す。
思いついたことを書くそれの、最初の行にこう書き込んだ。
『一番の邪魔者は、僕だ。』
そして僕はそれに満足して、小さく笑った。
方針は、決まった。
元通りに日記帳を仕舞い、ランプを消してベッドに身を投げ出す。
僕は僕をこの国から消し去るために何をすればいいか、ベッドの天蓋を見つめながら、考え続けた。