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第九十八話

 ファシルはふと気づくと、神殿の中の祭壇のある部屋に立っていた。

部屋へと出入りする扉を横目に見つつも、部屋の丁度中央で気が付いたファシルはおもむろに祭壇へと足を向けてつかつかと歩き出した。

大きな部屋にはファシル以外に誰もおらず、その足音のみがこだました。

やがて、ファシルは祭壇の前に辿り着くと相変わらずそこにある黒い靄のかかった塊に手を伸ばした。

ファシルは警戒をしつつも伸ばした手にすんなりと収まったそれを見た。

自身の両手の上にある黒い靄の塊をまじまじと見つめたファシル言葉を衝いた。

「これで揃った」

ただ結果を報告するようにそう口にしたファシル。

その様子はなんの感慨も無いようで、手に収まっているそれを見ては誰に言うでもない事をポツリと口にしただけであったが、その言葉を自身の耳で聴いたファシルは心で疑問持つに至った。すると、途端に訳が分からなくなるファシル。

時間の感覚も、

今いる場所も、

自身という個の存在も、

手の上のそれも、

今に至った目的も、

あらゆる事がスパっと消えて、ファシルはただただ分からなくなった。

分からない事に支配されたファシルは漠然とした疑問を心が訴える中、その場に立ち尽くすと不意に投げかけられた声に耳を傾けた。

その声は感情といったそれらの抑揚が一切なく、そうであってもその言葉遣いは丁寧で優しくすら思える。

「それが欲しいものなのか?」

声から伝わる情報は自身よりも年上で、しかしそれ程に離れてはいない男の声といった事だけしか分からなかったが、ファシルはさも当然のようにその声に返事をした。

「違う」

会話というやり取りが苦手な子供のような返事。

ファシルは別段不機嫌というわけでは無いもののぶっきらぼうにそう答えると押し黙ってしまった。すると、子供が知らない人に返事する感覚に近いそれであったにも拘らず、その声は気にすることなく「そうか」と言葉を続けた。

全くに自然でない状況であっても、不思議と疑問を持たないファシル。

ファシルは心の訴えに耳を傾けることなく、その声としばらくの会話に乗じた。


 あれでもない、これでもないと繰り返されるやり取りと提示される探し物。

幾度かに繰り返されたそのやり取りも、何回目かの「これか」という言葉と提示され差し出された靄の塊にファシルはとうとう「そうかもしれない」と答えた。

心ここに非ずなままに答えたファシルはその手を靄へと伸ばす。すると、その手に合せるように離れていく靄。ファシルはさらに手を伸ばすが靄も合せて離れていく。靄はファシルの手を伸ばす強さに比例するようにその距離を離していく。そうして手の届く範囲から離れた靄をファシルは追い掛けだした。

走るファシルと離れる靄。

ファシルはそれを捕まえようと必死になると何時しか子供の時分に戻ったようになり、その擦れた心を童心に戻しては一生懸命に走し出した。

自然とこぼれる笑み。

いつの間にか、呑まれたファシルは戦いを忘れて束の間の安寧に身を寄せた。


 自然豊かな野原を二人で歩く。自身を連れ立って歩くその者はどこか懐かしく、しかしながらそれ程に古い感覚でもない。

その者は野原にある小高い丘の上を目指している様で、そこには大きな木が一本ありそれは白い花を満開に携えていた。

これ程に穏やかな時はいつ以来だろうか、と流れ込む生温かい感触が荒んだ心を撫でる。

──あぁ、このまま何もせずゆっくりと生きていたい。

ふんわりとして心地の良い空気感にあてがわれたファシルはその身を潮流に乗せた。

そして、自身を連れ立って歩くその者の後を追うようにファシルは歩くと、差し伸べられた手に自身の手を伸ばした。

ゆったりとした時の流れは、その伸ばされた手の先にさらに広がっている。

確証のない根拠が俄然強まると、ファシルはその手に触れようとさらに近づけた。

紙一重に縮まるその距離。

しかし、轟音と共に吹き抜けた突風がそれを妨げた。耳をつんざくようなそれは声であった。

(それに触れるな小僧!!)


 リュグネロアの声にハッとしたファシル。

リュグネロアの怒声をかろうじて聴き捉えたファシルは正気を取り戻した。すると、見えてくる辺りの光景。そこは先程までの場所と似ているが全くに様子が違う。自然豊かであった野原も荒れた地肌が剥き出しになって枯れ果てている。そして、濃い霧が辺りを覆う中でその視線の先にはっきりと見える小高い丘。そこにはついさっきまで、大きな木が白い花を満開に咲かせていたがそこに見えるのは、枯れて枝が大きく折れた木が在るだけ。すると、ファシルの前に靄の塊が再び現われた。

それは今なおファシルとの距離を保ち続けている。

ファシルがそれを注視すると、その靄の塊は数多の蝶となって一気に飛び去っていく。

濃い霧の中へと飛び去っては消えていくそれらであったが、ファシルはそれを追わずに自身の手に力を込めるとイリスを呼び出して構えた。

濃い霧によって妨げられた視界も、ファシルはそこに在る羽付きを充分に捉えられた。

ファシルは羽付きに包囲されるとその視線を鋭くした。


 ファシルを正気に戻したリュグネロアは空中にて再び、相対するその者に目を向けた。

透明な正八面体の殻に包まれた大きな目玉をギョロギョロと動かすその者。

リュグネロアはその者が羽付きであると確信を得ていたが、その羽付きには羽が見受けられない。しかし、見える千切れたような六つの痕跡があるその背から、リュグネロアはそこに羽があると捉えた。

「これ程に賢い畜生はなかなか珍しい」

平坦な口調の羽付き。

リュグネロアはその言葉に耳を貸すことなくすぐさまに仕掛けた。


 リュグネロアは急いたその意にもどかしさを覚えていた。

それは自身の力の及ばない次元の事で仕方のない事でもあったが、慢心が招いた今の状況にそれをせずにはいられなかった。

本来なら先の二か所と同様に道中のファシルを護衛する事とそこに辿り着かせる事が、リュグネロアがサーディアより受けた役目であった。しかし、その道中に突如として羽付きの術中に見事にはまり今に至って、それ故にリュグネロアは一刻も早くファシルと合流しなければならなかった。

ぐおおおと嵐の時の風の音のような、落雷を間近で聴いた音のような轟く声を発するとリュグネロアはその巨体を疾く動かしてそこより伸びる大きな尻尾を振り回した。

件の金色の物ほどにはいかないまでも、その鋭く尖って硬い先は如何な大剣をも凌いだ。

眼前の殻に向かうその剣先は凄まじい風圧を伴うと音すら超えて差し迫ったが、それは既のところで躱されるとその殻に危機を及ぼすには至らなかった。

「お前の相手は後だ」

しばし待てと言うと羽付きはぐるりと目を回してその視線を逸らした。

リュグネロアに背を迎える形を取る羽付き。

リュグネロアは流れを止めていない剣先でその隙だらけの背に迫るが、羽付きは突如として何も無い所で、水面に起きた波紋のように景色を歪めるとそこを通りファシルの所に向かった。そして、そのすぐ後を追う剣先がその見えない水面に迫った時、その背を砕き切るに至らず弾かれた。

リュグネロアに向けて暗に後回しだと言い捨てたその言葉通りに、全く意に介さない羽付き。

必死な態度と澄ました態度の二者間には、その見えない壁のように明らかな隔たりがあると言えた。


 見えない壁に阻まれたリュグネロアであったが、急いたその意を捨て置いて迅速にそれを対処した。

リュグネロアは自身の翼を大きく広げると空に向けて叫んだ。すると、その場に自身を呑み込む程に水を生じさせた。

辺りに集う水。すると、その中でリュグネロアは翼で自身を覆って力を収束させた。

水中には丸くなったリュグネロアの姿があり、それは辺りに気泡を作り上げていく。

ぼこぼこと水中に発生する気泡は次第にその数を増すと、その事からリュグネロアの発する熱量が凄まじいことが伺えた。そして、次の瞬間には翼を大きく広げたリュグネロアは鋭い牙を携えた口を大きく開けると一息に火炎を吐き出した。

ゆっくりと壁に向かって行くそれは、途轍もない速さで辺りの状態を変えていく。

それは火炎の高温に宛がわれた水が一気に蒸発する様であった。

やがて、その吐き続けられる火炎は壁に大きなうねりをぶつけると真っ向から衝突した。

次第に無くなっていく水気。

目に見えて大きな陽炎を作り出す二者間の接触面ではあったが、それは見えぬ壁に波紋を携えさせたものの突破するには至らなかった。

火炎を吐き切ったリュグネロアは乾ききったその場で再び疾くその巨体を動かして剣先を振るった。

再度、音を超えて薙ぐその剣先。しかし、リュグネロアのそれは壁の手前の紙一重の所を通過する。それはまたしても超えた速さに伴って破裂音を起こしたが今度のそれは先程とは違う結果をもたらした。

乾ききったその場の温度はとても高く、生物の生きられる限度を優に超えていた。すると、破裂音は音だけに留まらずその場に爆発を起こした。

剣先を振るう度に起きる爆発をリュグネロアは繰り返すとそれを何度も壁にぶつけていく。

次第に、壁に歪な波紋を生じさせるとリュグネロアはすぐさま次の手に移った。

翼を大きく扇いで吹雪を起こしたリュグネロアはそれをぶつけると、妙な音を聴く。

それは、急激な温度変化に耐えられなくなった壁に亀裂が生じた事によるものであった。

リュグネロアはそこを目がけて飛ぶとそのままに突き破って、ファシルの下へと向かった。


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