第九十六話
羽付きの歌う激しくも苛立ったその声はのたうち回る姿をより一層に飾り付けるとその場を支配する程にこだましたが、それも含めた大海の潮のうねりと荒天の嵐は指揮者を待っていた。
羽付きを見下すファシルは前に出した両の手を肩程に上げてその手を振るい拍子を刻み始めるとそれに合せたようにあらゆる雑音に規律がもたらされていき、それらは全てファシルに付き従った。
ファシルのその場を支配する所作はまさに指揮者であり、程よい緊張が包んでなお瞬時に規律を持ち込んだファシルのそれはこの時をもって舞踏会と成った。
ファシルの手には何も握られていないが、ファシルの所作を見て「それ」がそこに在る事は明白であり不思議にもその形がはっきりと見える。
「──いくぞ」
一拍おいて意気込んだファシルは拍子を刻み続け、そこに在る全てを支配していく。
すると、ファシルを指揮者たらしめる「それ」は今に辿り着き形を成すに至った。
眼下のざわめきをよそに収束した魔力はイリスとはまた違った気配をありありとそこに指し示す。
ファシルは大きく息を吸うと一息にその名を言い放った。
「レディウス・ティード!」
拍子を刻むその手には元よりそこにあったように、穏やかに澄んだ空気ともシンと張りつめた空気ともとれるその雰囲気が毅然と姿を現した。
在る事が当然でその時をもってファシルの手に収まった杖──レディウス。
ファシルはレディウスを手に取ると淀みなく流れるその両手の優雅にも激しく振るわれては拍子を刻むそれに責任と説得力を持たせた。
遂に始まるファシルの戯曲。
ファシルはその一連の所作をもって羽付きに聴かせる「苦しみ」を強めると刻みつけるように曲を奏でた。
羽付きの受ける「苦しみ」は自身の最も避けてきた事を調べへと変えられたもので、舞踏会の一場面と成ったこの場は「苦しみ」をより大きく反響させては舞台となった海上のすべてを魅了した。
ファシルは指揮者であり、それに付き従うはあらゆる音の全ては歌手に演奏者。
羽付きはこの場の踊手を一定に担う舞踏会の主役。
初舞台にして老輩のその者は、ファシルによって奏でられる曲に合わせてぎこちなくも舞い踊る。
自身の体のあちこちを源として振動しては響くその音は羽付きを攻め立てた。
ファシルの指揮の下に奏でられるこれらの「苦しみ」はファシルが言い放った通りに時間の外に在る。
羽付きは先延ばしも前倒しも機能しない「苦しみ」に対して自身の力を最大限に使ってもこれをどうする事も出来なかった。
歯を食いしばったその力の強さに絶えられず血を滲ませる歯茎のそれも、さらに血を滲ませるに至って「苦しみ」から脱する事には繋がらない。
羽付きの「苦しみ」に絶える姿はそれを連想させる程に力んで小刻みに震えているが、しかしながらそれすらも「苦しみ」と同調しては体内で大きく反響していく。
殊更に目立つ血走った殻の中の目玉がぐるりと回ると舞台の上で舞い踊っていた羽付きは足を挫いたようにそこで転んだ。
転んだ感触にひんやりとした床、そして自身の沈んだ心を感じ取る羽付き。
羽付きは未だに続く曲を聴きながら、ここにきてようやくある決心に至った。
挫けた羽付きは再び立ち上がる。
ぎこちなく舞い踊っていた羽付きではあったが、決心をした事によって体の緊張が解れると先程までの拙さを全くに失くさせていた。
ファシルの正面に相対する羽付き。
羽付きはぼろぼろのそれをゆっくりと動かしてその姿勢を保ちながら、しばらく続いた静寂を自ら裂いたが、羽付きの告げた言葉はファシルにとって一笑に付す事しか出来ないほどに滑稽な物言いであった。
──その程度では足らぬ。
先程までは初心者のように舞っていて、思い通りにいかない事で駄々をこねる子供のように転げまわっていた羽付きと、その者と同一視し難い尊大な言葉。
過去と未来を見据えた羽付きは「苦しみ」から逃れられるとすればそれは未来にしかないという考えに辿り着くと自らにその身を未来へと進める。
「時間とは有限なものよ」
据わり老いた声で言い放つと羽付きは白く大きな六つの羽を力強く広げた。
この時ばかりは雑音を完全に消し去った羽付きの勇姿は刹那に光りを伴うと、六つのそれらに輝く程の若い血潮を巡らせた。
瞬く間に本来の姿へと成っていく大きな六つの羽。
やがて、その光度の高い輝きが落ちつくとそこには完全な姿の──優雅に舞う羽付きの姿があった。
「ワシの時間をくれてやろう」
羽ばたく姿に余力は伺えず、そこに見えるのは全身全霊。
「つまらぬ手は使ってくれるなよ」
活き活きとして扇ぐそれは力強く、その羽ばたきは美しい。
力の限りに迎える羽付きは自身を取り戻すとその視線をファシルに向けたが、その一方で試すような視線を受けたファシルはその気持ちを汲むと失笑した。
「──だそうだ」
序曲が終わるとそのままに間奏曲が奏でられる。
ファシルは伺い立てるようにも囃し立てた。
「お前の威厳のみに指揮は務まるまい?」
ファシルの声に呼応したレディウスは心音をもって舞踏会に新たな風を吹かせた。
舞踏会に刻まれる新たな規律は一定の拍子をとると、それは聴きそびれそうな程に小さい間奏曲であったが次第に大きくなり副旋律が鳴るに留まった。
一番重要な主旋律が奏でられていない。
曲調に彩りを加えるためにファシルが拍子を上げると、それに倣ったレディウスの心音が同調するようにそれを上げた。
交わされるように響く二つの拍子。
あと一つの欠片をファシルの一言によって呼び覚ますと終曲の幕が開けた。
≪ピシオア≫
ファシルとレディウスの力が完全な一つになっていく。
聴こえてくる音は歌声へ。
伝わるそれは演奏へ。
本来の舞台が整うと、羽付きの見える景色を一変させた。
羽付きは音楽隊に囲まれて、孤独にも幻覚の織り成す旋律に包まれていた。
「よいぞ」
見栄を張りながらも鼻で笑う羽付き。
羽付きは旋律を奏でる音楽隊に自身の力を振るった。
手始めに演奏者の時間を止めてその旋律を単調なものとすると、剥き出しの歌声を時間の経過をもって刹那に枯らしていったが、者者の退場は次の担い手の登場に劣る。
退場させても次の者がそこに登場する。
これの繰り返しで次第に劣勢を喫した羽付きは、数多のそれらに囲まれて逃げ場を無くしていった。
そうして舞踏会の本流が大きく揺れ動くと、その揺れ動く景色に歌声を聴いた。
声は形となって、水面を広がる波紋のように広がって降り注ぎ羽付きの全身を打ち上げる。
羽付きは堪えようとその綺麗な脚捌きを止めて踏みとどまってみるが、その堪えようのないものが増長するばかりで解決には至らなかった。
増長したそれに、羽付きは居てもたってもいられなくなるといつの間にか止めていた脚を動かして再び舞い出した。
羽付きは孤独のままに、舞踏会の中心でその悠久の時の中を舞い踊り続けた。
展開を変えてファシルの視点に立つと、見えてくる羽付きの姿は虚ろにも右往左往するものであった。
何を求めて彷徨うのか──伺う者の求める答えは当の本人以外には解らない。
羽付きは立ち向かう志と逃げ惑う諦めの狭間、不協和音と協和和音の間を行ったり来たりしていた。
「足らぬ、……足らぬっ!」
羽付きが歌い続ける詞──志を強く持つために幾度となく交わされたそれも、いつしか諦めに染まってはうんざりする程に聴いた旋律に向けられていた。
向かって来る波紋を消すために波長を合わせて歌い続ける羽付きであったが、打ち消された波紋はその衝突によって新たな波紋を生むと、羽付きはその歌を歌い続けるしかなかった。
舞踏会に鳴る旋律は、羽付きの舞いの上達を待つことなく徐々に厳しさを増すと容赦なくそれを響かせた。
羽付きの詞が呼び水となって熾烈を極めていく舞踏会。
初舞台から間もない羽付きはその想像絶する「苦しみ」に苛まれると、遂にはその心の内を逃げの一色に染めた。
湾曲した志が逃げの色を殊更に濃くしていくと羽付きは舞台を降りるために指揮者を探し始めた。
指揮者を探す踊手は尚も続く「苦しみ」という名の旋律にその本質を見た。
おどろおどろしく響く歌声は踊手が過去に相対した者達のものであった。
複雑に混ざり歌われる怨嗟が踊手を無理矢理に舞台へと戻していくと、踊手は閉じる事が出来なくなった口で歌を歌った。
──足らぬ。
許しを懇願するために歌われる詞は本来の意図を歌ってはいなかったが、踊手に降りかかる怨嗟がその歌声の音階を下げさせる。
──足らぬ。
歌われる怨嗟はその激しさを増すと、いつしか乱調になっていた踊手を狂わせては再び舞い踊らせて、その歌声を調和させた。
──足らぬ。
舞台の上で再び踊り始めた踊手。
踊手は遂には舞台を降りられなくなると、唯々一人で踊り続けた。
踊手は孤独に舞い続けた。
足を挫こうとも振りを間違えようとも、自身の歌う「足らぬ」という詞がその踊りを流麗に映し出した。
歌われ続ける「足らぬ」という詞──その言葉端に笑みを浮かべる踊手。
調和のとれた歌声は次第に外れて乱れるとその声を盛大な喝采として「喜び」を生んだ。
大きく歌う踊手は、舞台をかき乱す音程のずれた自身の歌声にふと我に返ると、心の内に秘めた薄く色あせていた志を取り戻して波紋の起点である者者に退場願った。
流れゆく旋律の中で再び行われる退場と登場を繰り返すと、始めこそ優勢であった登場がその立場を変えていって、終曲のその旋律がか細くなっていく。
踊手は志を色濃くするとその終曲の果てに心躍らせた。
羽付きは「もうすぐ終わる、これで苦しみから解放される」と心に切なる思いをはやらせた。
次第に小さくなっていく歌声と演奏を聴いて羽付きは音楽隊の残りが少ない事を悟ると、歓喜すると同時に小躍りするように舞ってはファシルの所在探しを再開した。
そしてファシルを見つけた羽付きは自身の力を最大限に使って終曲の果てを授けにかかった。
「足らぬ!足らぬぞっ!」
ファシルに向けて突き進む羽付きであったが、その目に映るファシルは長い間振り続けていた手を止めて杖を降ろすところであった。
終曲の果てが差し迫る最中に杖を降ろした事で静寂が戻る舞台。
そこに残ったファシルと羽付きはお互いの距離を縮めたが、その幕引きはそれまでの壮大さを微塵も残さず寂しいばかりであった。
ファシルの寸前でその身を止めた羽付きは自身の感触に気付きを見せると清々しい諦めに包まれた。
光の粒子になって散っていく白く大きな六つの羽。
羽付きはその身があと少しのところでファシルに触れられない事を確認すると幻覚を脱して──舞踏会を終えて少しばかりの言葉を指揮者に送った。
「このピーネミオに足らぬは、時間であったか」
ピーネミオの体は白く大きな六つ羽を空に帰すと自壊していく殻を待たずしてその目玉を白く濁らせて朽ちていく。
そしてそれを追って殻も無くなると跡形もなく、舞台を降りた。




