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第九十五話

 ファシルは咄嗟に自身の脚を治すとその肉薄した間合いを開けた。

ファシルは少しの違和感を覚えつつもすぐさまに後退して開けた距離のまま、羽付きから少しも目を離す事なく口を開いた。

≪アーヴィス≫

相対するそれを捉えるファシルの左目に魔力が集中する。

「なるほどな」

≪エルシーク≫

ファシルはその目を通してみた光景に一人納得すると、その手に現した魔力の槍を構えてすぐさまに打って出た。


 荒れ狂う大海の潮の力は強く、遮るものがないにも拘らずそこかしこでぶつかり合って打ちあがる。潮のうねりは大きく凄まじいもので、そこに遠慮のそれは少しもない。さらに荒天へと昇る雨粒が雑音の全てをかき消す程に壮大に鳴り響いてはひしめき合う。

その環境であってもファシルの目に映る光景は全くに違った。

その場をあらゆる水気が支配する中で、そこに在る者はびしょ濡れを免れないものであったが、ひとたびにファシルの視点に変えれば全くに違うものであった。

大きなうねりをあげる潮も、隙間なく漂う雨粒も、一枚の絵画のようにその場面だけを表してはほとんど動かない。

ところがファシルと羽付きの両者はその中を、己が動きによってかき分けて進む。

一挙手一投足に伴う風はその絵画を刻一刻と変化させていく。

二者にとってその場の環境は無に等しく、意に介さない。

ファシルが鋭く突き出す槍はその穂先を起点に円錐の形を作り出し、それを大きなものへと変えてなお直進する。

速さが生むその形も雨粒が色を添えるよう殊更にそこに表しては数多の円錐が一点に集中していた。

集中する先、ファシルと同じく高速の動きを見せる羽付き。

羽付きもまた、その円錐に対して真円の壁をいくつもそこに表してはその進行を防いだ。

刹那の中にいくつもの区切りを作る両者にとって荒天下の大海であっても何も変わる事はなかった。


 潮のぶつかりとも雨粒のそれとも違う衝突が幾重に広がる最中の事。

そこに在る槍の攻めはどれも鋭く、留まる事を知らずに残像を残してはこれにすら鋭利な刃を残したが、それだけに洗練されて少しの面白みなく飾り気のないその槍術であっても、しかしながら羽付きの殻を穿つに至らないまま、いくつもの刹那を重ねていた。


 不意に手を止めて「これは」とファシルは口にしたがそれに続く言葉を言うまいと口を紡いだ。

それはひとえに肌に伝わる雨粒のそれではない別の妙な感覚がそうさせたものであったが、そのなんの気ない違和感は次第に膨らみ、既視感となってファシルを留まらせた。

羽付きから距離をとるファシル。

すると今度は羽付きが言葉を紡いだ。

「よくぞ踏みとどまった」

「ヌシは死ぬところであったぞ」

見えずとも伺える羽付きの称賛の顔とその声にファシルは目を向ける。

羽付きはその視線を一手に受けては口にする事柄がさも当たり前のように、答え合わせでもするようにその先を語り出した。


 羽付きの語りはそれほどに時間を要しはしなかった。

羽付きがファシルに教えた答え合わせの結果は「それは無駄だ」と一言に集約された。

ファシルは羽付きのその言葉を聞いて肌に伝わる感覚を確かなものとした。

しかし、まだ先の繰り出されていないあらゆる攻めを「無駄」と言い切った羽付きに反論するつもりのないファシルであったが、ファシルの体は意に反して尚もって荒天の下に駆けた。


 荒天に昇る雨粒の健気さは、そこに在る争いを微塵にも考慮せず続いたがその進路を遮るように二つの者が留まり続けると荒れ狂う大海から荒天へと去来した。

「ヌシにとって」

死は贅沢の類であろうと声を掛ける羽付きはその目玉が射す先の、完全に身動きを封じられたファシルへと向かっていた。

「よいよい」

ヌシは何も気にすることはないと言葉を紡ぐ羽付き。

羽付きの異形からは伺えぬその表情も、上ずった声となっては隠しきれるものではなかった。仮に羽付きの顔が在るならば、これ程に恍惚とした表情は見れないと言えた。

(……)

羽付きの視線に交わされるファシルのそれは勿論に相容れないが、しかしながら自身の世界にどっぷりと浸かった羽付きにそれが伝わる事はなく、それと同時にその視線の意を受け取る事もあり得なかった。

「では、始めるか」

待ってましたと言わんばかりの言葉端に乗る感情。すると羽付きはファシルを嬲り始めた。身動きが取れないことをいい事に、その苦しむファシルの姿を見つめては下品な笑いを響かせる羽付き。

羽付きは我慢に我慢を重ねてようやくに辿り着いた至福の時間に、過剰にも取れる位に余韻を楽しむと充分に噛み締め始めた。


 ファシルが不意に感じていた違和感──それは羽付きの力によるものであった。

羽付きは時間を自由に動かして、ファシルのあらゆる手の先を見据えていた。

それ故に先に述べて「無駄」と言い切った事につながり、羽付きは見栄を切っていたのではなく本当の事に当たる結果を言っていた。

ファシルがしばしば感じ取れた違和感も実際の所、ファシルの気付きを遥かに凌駕する数のものであったがそれを知る術を持たないファシルにはどうする事も出来ない事であった。


 下品な笑いも一入に、それを超える苦しみの声は封じられたファシルの口から漏れる事はなかったがしばらくの間に味合わされた苦しみにファシルの意気もあと少しほどに減衰していた。

「いやはや」

「如何な幸福もこれには勝らん」

「美味であるな」

一人口を紡ぐ羽付き。

羽付きは満足したのか、ファシルに情けをかけたのかその封じた口を解放した。

「どうであった?」

苦しみの御馳走の数々はと嬉々として訊く羽付き。

我先にと口を開いた羽付きにファシルは視線を鋭くしてその返答とした。

「満足したようでなにより」

ファシルの怒りに満ちた視線をとって受け取った回答は勝手な解釈に満ちて、端から聞く耳を持たない羽付きは自身が充分に満足したことで他の心のそれに興味などなく、回答などどうでもよくなっていた。

満足した羽付きはころっとその表情を変えると次に表したそれは、ファシルを見ては哀れんだものであった。

「残念だが」

「ワシの本懐はすでに満たされた」

どこまでも自分本位の羽付きはさらに口を紡ぐとその「時」を迎えた。

「ヌシの舞台はこれにて閉幕である」

その言葉の回答をファシルに求めることなく、身動きを封じられたままのファシルへと近付いた羽付きは、ファシルの喉元に手をかけた。

──その「時」であった。

ファシルの喉元に伸びる羽付きのそれは微かに触れて止まった。場に似つかわしくない、ほんの小さな失笑。

「……フフッ」

身動きを封じられたままのファシルが不意に声を漏らした。

「そんなに」

「死が待ち遠しいか?」と尋ねる羽付き。

すると、ファシルは何事もなかったように口を開いて言った。

「いや、そうじゃない」

そう一言だけ口にするファシルであったが、羽付きの目には明らかな含み笑いであると映っていた。しかし、羽付きは自身の満足におされて尚も余裕の態度のままに先の言葉を訊ねた。すると、ファシルの口から思いもよらない言葉が飛び出して羽付きは自身の気分を害する事となった。

「ここまで予定通りだと滑稽に思えてな」

そう口にしたファシルの表情には先程の含みではなく、嘲笑の念がはっきりと伺える。

羽付きはファシルの言葉に呆気にとられたがすぐさまに、自身の中で答えを導き出すとそれを口にした。

「少し追い詰めすぎたな」

「然様に気が触れるとは」

もしもあったなら、戯れに両の手を肩程に上げて肩も同時にすくめた動作をしていたであろう羽付きのその言い回しも、ファシルの言葉の意味をはき違えているために自身の方が際立って滑稽なものとなっている事に気付くまで然したる時間は掛からなかった。

「頃合いだな」

未だ磔のように動けぬファシルのその態度は傍から見れば虚勢に過ぎなかったが、いい加減に失望の色が見え始めた羽付きも遂には口を荒げた。

しかし、その「失望」は荒げて投げつけた言葉を出し切るまでに自身の目に映る相手をもって瞬時に「絶望」へと変わった。

羽付きの世界は二重にも三重にもかすれて、そこに複数のファシルを見る。

慌てて自身の力を使い時間を巻き戻しにかかる羽付き。

しかし、その刹那に聞いた言葉が耳にこびり付いて離れることなく幾度も反響した。

──触れたな。


 心音が聴覚器官の真ん中を陣取ったように、そればかりに気を取られる羽付き。

しかし、その心音を激しくさせるのは先程のファシルの言葉。

羽付きはそれらから逃れようと必死に足掻くと時間を巻き戻した。

ところが、それは鳴り止まない。

磔のファシルに触れる前、磔のファシルを何度も嬲っている最中、その前、その前、その前、その前……。

一向に鳴り止まないそれに苦しむ羽付きは逆行する時の中で不意に気付きを見た。

自然と立ち止まる羽付き。

「そうか」

この時ばかりは刹那ではあったが苦しみを忘れられたものの、再びに苦しみに晒されると羽付きは時間を逆行する事をやめた。

そして苦しみの根源の前に、ファシルに触れた瞬間に時間を進めて戻った。


 視界が霞むままに再びファシルの前に立つ羽付き。

その様子は打って変わって衰弱したように声に覇気がない。

「あの時だな」

羽付きは逆行の時の中で気付いた事を口にした。

それをファシルは皆まで言わすまいと食い気味に「そうだ」と笑みをこぼしつつ答えた。


 羽付きは大きな過ちを犯していた。

それは自身の力の過信とその先に待つ欲求を満たす物に囚われていた事で見落としていた事であった。

羽付きは時間を自由に戻す事も進める事も出来る。それによってファシルのありとあらゆる攻め手を見据えて、その先に待つ展開を先んじて封じていた。

一見すればこれらの行いに間違いはないように伺えるが、それらの流れの前に一つだけ戻していない事があった。

それはイリスを封じた後の事。

ファシルが放った蹴りを敢えて避けなかったことであった。

羽付きは自身の力を過信するあまり、この時にファシルに触れていたのだ。

本来なら見過ごすはずがない事であったが、過信と欲求、二つに囚われた羽付きはこれを見過ごした。

よって、その後の手を全て封じた羽付きであったが触れた「後」の全てであり以後の事象は意味を成していなかった。

そして、最後のとどめと余裕綽々に触れた喉元。

この二つの「触れ」が時間を自由に動かす羽付きを永劫に二つの間に閉じ込めたのだ。

そしてこの時間の牢獄はただ閉じ込めただけに終わらない。

羽付きが嫌に避けるこの──苦しみ。

これは先の未来を見たファシルが表したもので、ただのそれではなかった。

次第に進行する「苦しみ」に力の制御が甘くなりファシルは解放されると、絶えず「苦しみ」に晒される羽付きに告げた。

「これは時間の外にあるものだ」

「堪能するといい」

何時しか違えた立場に羽付きは、自身の鈍感さに心底苛立ちを覚えたが時としてそれは実に遅いものであった。それと同時にそこから「苦しみ」が伝播すると羽付きはもがき始めた。


 ファシルは閉じ込めるまでの未来を先に見ていた。

しばしば感じられた違和感もファシルにとっては経過観察の成果に過ぎず、これによってファシルは予定通りであると確認していたのだ。

もがく羽付きは、過去としてファシルに蹴られた事、そして未来として自身からファシルに触れた事、それらが自身の生存している時間を牢獄のように捕らえられると、自身の力ゆえにその過去以前にも、その未来以後にもたどり着く事が出来なくなった。

一度気付いてしまった「苦しみ」が故に自身の生きた時間の中で最も避けてきたその「苦しみ」から逃れられなくなった羽付きは感じとれる感覚全てによって伝わる「苦しみ」をひたすらに自身のあらゆる所で反響させると、ファシルの声は勿論にそれ以外を感じ取れなくなっては、狂い尽くしたように「苦しみ」続けた。


 もがいて「苦しみ」を堪能する羽付きはファシルに向かって喚き散らし続けたが、しかしながらファシルがその事に気を止める事はなかった。


そして、ファシルはもがく羽付きを見下しながらも展開を次の舞台へと移した。


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