第九十四話
ファシルは砕いた扉の先へと鋭く視線を飛ばしながらも毅然と足を踏み入れたが、しかしながらその一歩から受け取れるはずの抵抗が全くないままその視線をガクッと下にずれさせた。
≪フィリオース≫
ファシルは前方に傾倒するまま口にするとその背に翼を広げてそれを阻止した。
ファシルが足を踏み入れたそこは先程までの部屋ではなかった。
どんよりとした天気の下、飛沫を激しく上げる大海は荒れ狂うその様をひたすらに広げていた。
ファシルがそれを認識する頃には、飛沫が自身の体を水浸しにしてはその光景から感じ取れる心象と同様に翼を重くした。
黒い翼を羽ばたかせる度に飛び散る飛沫をよそにファシルは別の事に目を向けていた。
それは荒れ狂う海と荒天のその場に見られたが、一様の揃いが皆無の中であってもそれだけは斉しくそうなっていた。
波の流れは正常なれど、雨は天に昇る。
どれほど荒れていようとも起こりえない現象が目の前で起こっており超常的なそれに触れてはファシルもイリスを握る手に自然と力を込めさせた。
吹き荒れるそれによって即座に水浸しとなった回廊はそれを嫌うように突如としてその繋がりを途絶えさせた。
ファシルは自身の後ろの扉が消えるのを感じ取るといよいよの時を覚悟した。
自然と険を携える表情。
ファシルが警戒を強くすると、それはその場に姿を現した。
「よくぞ参った」
本心とも皮肉ともとれるその言葉は羽付きによって発されるとその六つの大きな白い羽を羽ばたかせては舞い降りる。
荒れ狂う海に帰るように、飛沫は羽の動きに合わせて辺りに飛び散る。
その姿は、少しだけ違う所があるだけで先の神殿で見たそれと同じものであった。
羽付きの白い羽はそこに浮いていられる事が不思議なくらいに、飛ぶための羽としての機能を果たせない程に、むしり取られたような見てくれをしておりぼろぼろであった。
ファシルは少しも視線を逸らすことなく羽付きを見たが、その羽付きは歓迎の言葉もそこそこに小言を始めた。
「待っておったぞ」
「二番手であるが、まあよい」
「しかし、シュプシェルの奴め」
「初手とは運がないのう」
あれほど最初は嫌と言っておったのにと口にする羽付き。
「しかし、存外楽しめたところを見ると」
「奴も本望であろう」
羽付きはファシルを前に無防備に小言を切り出したが、それでもそれを意に介さないファシルはきっかけを待たずに先行した。
ファシルは握る力を強めて、手中のイリスの鼓動を感じ取るとそこに解き放った。
何の前触れなく駆けるイリス。
その姿は嬌声を携えて辺りを震わせると、その荒天に轟いた。
刃である自身と同時にそこから放たれるいくつもの斬撃も、羽付きを追い立てるとそれらは一切の躊躇がなく瞬く間に炸裂した。
羽付きのぼろぼろのそれは、ほんの少しの触れ具合で切り落とされた。
余裕綽々に喋り始めた矢先に次々と自身を襲う凶刃。
それに対して羽付きは芳しくない現状をもって苦味を感じたように声を漏らすと大いに荒れる空へと退いたが、それはひとえに羽付きの得意な形に持ち込むための事前準備であったが、しかしながらそれを見逃す事など以前の面影を薄れさせたファシルには無かった。
≪シーオース≫
上昇した羽付きの遥か上空にて、飛ばされた斬撃の一つは荒天の稲光に乗じて姿を変えた。
「終わりだ」
こともなげに告げるとファシルは遥か上空に現れた。
ファシルの平たんな口調とは裏腹に雷の如く急降下する剣。
いつの間にか握りしめられたイリスはファシルの剣筋に添うと天地を繋ぐ一本の線を描いた。
呆気ない終わりがそこに出でるものと思われた一方的なそれも、差し迫る斬撃の間際に聞こえた言葉によって元に還っていく。
「それはもらえんな」
目玉を覆う殻に触れる間際、防戦一方であった羽付きの見えずとも伺える口端のにやけにファシルは抗えぬ力の下、振り出しに舞い戻された。
ファシルは握る力を強めて、手中のイリスの鼓動を感じ取るとそこに解き放った。
はずであった。
「それは厄介じゃのう」
その動きは、視線を逸らすことなく全ての微細なずれすら見逃さないファシルの目をもってしても捉える事が出来なかった。
ファシルの間合いに突如として現れた羽付きは一言口にすると、ファシルの手を離れた瞬間のイリスを止めた。
それはただそこに止まっているのではなく、概念そのものを止めて固定している。
ファシルはイリスを動かす事が出来なくなり、イリスもまた自らに飛ぶことが出来なくなった。
イリスの固定であったが、それをよそに間合いの羽付きに対して咄嗟に蹴りを入れるファシルであったがそれは勿論に対象を捉えるには至らない。
ファシルの鋭い蹴りが空を切ると、その脚に突いた水気を飛沫として半月状に飛ばした。
すると羽付きは、ファシルの蹴りを優に躱してはそれを巻き戻す。
ファシルが蹴りの動作に入るその動きの起点に帰ると、そこから先を羽付きは書き換えた。
イリスを止めた後のファシルに、羽付きは間合いのままにその脚を先送りした。
ファシルは間合いの羽付きが全くに避けようとしないその様子に少しも疑問を持たず、蹴りを見舞う。
──バキッ。
鈍く砕ける音が両者の切迫した距離感の中に響く。
しかし、その後に苦痛の声を漏らしたのはファシルであった。
完全に捉えた、羽付き目がけて放った蹴りは確かに直撃したがその二つのぶつかりによってファシルの脚は本来なら曲がるはずのない場所から屈折していた。
ファシルは刹那に戸惑いながらも自身の脚を見た。
するとそれはファシルの者とは思えない程に枯れている。
それはまるでその部分だけが年老いたような痩せ細った脚がそこにはあった。
苦痛の声を漏らしながらもファシルは近すぎる羽付きとの距離を広げた。
≪スティオール≫
たちまち元に戻るファシルの脚。
「ほう、便利じゃのう」
すると元のように羽付きは余裕綽々に口を紡いだ。




