第九十一話
パシャ──ファシルは自身を覆った水の球体から外に出ると地に手足をついた。
そして咳き込みながらも呼吸を整えるとびしょびしょの体のままに立ち上がる。
視線の先にはゆらゆらと優雅に半透明のそれを羽ばたかせながら浮く羽付きの姿。
ファシルは視線を鋭くし、再びそれをはっきりと捉えた。
「なかなかどうして」
独り言のように漏らした羽付きは、小手先のそれを打破した姿を見てなお楽しくて仕方ないといった様子を示した。
「あぁ、惜しいなぁ」
大袈裟に大きな声で言うそれはわざわざ聞こえるようにしたものであった。
そして「いい事を思いついた」と言わんばかりの動作をわざとらしくするとファシルに提案しだした。
「ヌシは弱すぎる」
「このままやっても結果は見えておろう」
「そこでじゃ、ヌシに機会を与えよう」
「この老輩を捕まえて見せよ」
命がけに相対するファシルと違い、羽付きにとって遊びの延長に過ぎないそれは暇を持て余している様で、事ここにおいて単なる追いかけっこを提案した。
「触れるだけでもよいぞ?」
ぐるぐると目玉を回して言うそれは待ちきれない様で
「時間は、そうじゃな」
「ヌシの心が折れるまででどうじゃ?」
一方的な提案の末にけたけたと笑う羽付き。その声に合せては半透明の六つの羽をたなびかせていた。
勝手な事を言う羽付きを見てファシルは今にも飛び掛かりそうな程の怒りを心でさらに育てたが、しかしながら即座に打って出るには至らなかった。
その心の内を制して止める冷静な考え。
ファシルは冷静な考えを頭に持つと、伝わってくる肌を突き刺すような緊張感に体を止めた。
ふざけた様子と、至っても遊びを提案する羽付きに明確な力量の差を感じるファシル。
それは自身の考えが間違っているのか、もしくは考えすぎなのか。
理性と感情がせめぎ合う中でファシルはそれらに翻弄されると、どうしようもないわだかまりが自身を縦断するような感覚に駆られた。
視線の先で浮く羽付きは、何気ない所作で命を奪っていく。
それだけに羽付きにとって地上は取るに足らず、それを自ら意識することは滅多になかった。そして意識を一度向けたならばその目の先に広がるの「死」のみ。
ファシルがその差を感じ取れている事は自身の成長の証であり幸いな事であったが、それだけにもどかしく思うと苛立ちばかりが先行した。
「くそっ」
口を衝いて出た言葉はファシルを表す全てで、ただただ地面に吐き捨てられたが目の前の「怪異」はファシルを待たずけしかけると、ファシルを遊びへと誘った。
荒野の砂利などが入り混じる地面を力一杯に踏みつけるとファシルはその力んだ脚の力を一気に解放した。そして「怪異」のみをそこに残すとそれを捕まえるため辺りを駆け抜けた。
「速いだけでは」
捕まえられんぞと言う声が、風に駆けるファシルの耳に重なって響く。
煩わしいまでのそれに、ファシルは答えるように振る舞うと辺りに先程よりも荒い痕を残したがいずれも羽付きには届かずに流れて行った。
その様はより一層羽付きを楽しませるにとどまって、ファシルに精神的な不快感を与えた。
周りを突風が吹き荒れる中、羽付きは少しも動かずにいたにも拘らず、聞こえてくるそれは動いているものに全く必要のないものばかりであった。
≪ドッラ≫
≪ワンド≫
無数の黒い球は羽付きに向かってあらゆる角度から攻める。
そしてそれを確かなものとするための鎖。
さらにはそれらを使い攻めるファシル。
万全を期すための布陣は、第三者から見れば過剰の一言に尽きたが一か所に止まる羽付きに対しては向かって伸びる鎖と無数の黒い球とそれらを脇にするファシルの攻めはいずれも掠りもしない。
それらがどれだけ隙間なく配置されようとも触れる事すら叶わない。
焦るファシルをよそに羽付きはそれらを無視しては遊び続けた。
届かない。
ファシルの心に浮かぶ短くも厳しい現実は、焦る心の大部分を占めるとさらに焦らせた。
いつしか肩で息をする程にまで駆けたファシルは次第に手数を増やしていったがどれも不発に終わっていた。
追いついては離れて、追い詰めては放される。
するりと抜けるそれはファシルが攻め手を欠いている何よりもの証拠であった。
不敵に笑う羽付きはファシルの多様な攻め手を躱すと平然とそれをやってのけた。
その様子に見える答えは一つであり、それはひとえに力不足であると同時に確かなものであった。
如何に手を尽くそうとも縮まる事のないその距離は、ファシルを疲弊させるとただただ時間を消費させたが、刻一刻と迫る時の中でファシルが出来る事は只々諦めず足掻く事だけであった。
しかしながら、頑なな意思だけでは打破出来ない状況に息が上がるファシル。
そして遂にはその姿を荒野へと現わすと、自身の体を止めてその攻めの手を止めさせた。
息を整える時間はあってもそれが死を免れる事には繋がらない。
ファシルは呼吸を整える最中、血の巡りが著しくない頭にふとある事をよぎらせた。
(なにやってたんだっけ)
ぼーっとした頭が整理する。
(そうだ)
ファシルは奪われた物を取り返しに来た事を思い出すと視線の先に浮くそれを見据えた。すると何故か苛立ちに晒される自身の感情に気付く。
立ち尽くすファシル。
ファシルは取り返しに来た事は勿論にその苛立ちに思考を巡らせた。
なぜ、なんで、なにゆえ、どうしてどうしてどうして……。
未だに続く放心した頭は整理するに至らない。
するとファシルは立ち尽くしたままに手に持った剣を消した。
(取り返しに来たんだよな)
(こんなやつ、どうでもいいんだよ)
この瞬間、赤く染まる左目だけがギョロギョロと動いた。
そしてファシルは、その心に芽生えさせて育てた「怒り」という感情を開花させた。
すると立ち尽くすファシルの体を漏れ出た禍々しい気が覆う。
ファシルは脳裏にある言葉を浮かべていた。
ファシルには自身の知り得ない事があった。
それは左目に宿していた封じられた記憶の片鱗。
ファシルは自身の意を沈めるとそれに身を任せて表へと現す。
辺りに現したその気がファシルを完全に覆うと、ファシルは怒りに呑まれた。
立ち尽くし、あまつさえ剣を消したファシルのその姿。
ファシルの姿を見た羽付きは始めの決め事であった遊び時間の頃合いと考えると、嬉々として近付こうとした。
それは勿論に死の時を意味していたがその時は刹那に消える。
羽付きがほんの少し近付いた瞬間。
離れた位置に浮いていた羽付きは激痛を伴うと自身の体に火が付くのを見た。
その火は黒く、突如として体を激しく燃え上がらせると瞬く間に広がりを見せた。
すかさず動かした半透明のそれを消火に注力させると羽付きはファシルを見る。
それは咄嗟の事に先程までの嬉々とした様子はなく、楽しいそれとは真逆の鋭い目であった。
ファシルは素手のままに構えた。
滑稽に映るはずであったその光景は、最早遊んでいられる状況を逸した今となっては全くに笑えない。そしてその姿を見て気付く羽付き。
「まさか!?」
初めて焦りを見せた羽付きは一目散にファシルへと飛んだ。
杞憂かもしれないそれでも、胸騒ぎが駆り立てると羽付きは自身の身を焦がしながらも差し迫った。
鬼気迫る様子でファシルを至近距離に捉えては自身の力をもって死を授けにかかったが、それは遅すぎる結果に終わった。
「来い、イリス・ヴェーラ!」
ファシルが静かに口にしたそれ。
それに呼応して、ファシルの周りの気に食い込んで混ざるようにとてつもない魔力がそこに出現する。
出現したそれの風圧で吹き飛ばされる羽付き。
禍々しい気と魔力が織りなす渦は轟音を立ててそこに在ると、やがてファシルの構えた手に収束し完全に形を成して現れた。




