第八十九話
礼拝堂にいたファシルは一瞬の内にして闇へと呑まれると、一寸先すら分からない程のその中でじっと身構えて待ったが闇に慣らさせられたその目は戻ったその明るさに痛みを感じてファシルは目を覆った。
ゆっくりと明るさに慣らしつつ薄眼で辺りを伺うファシル。
その目は大きく見開かれるとファシルはその光景に絶句した。
先程まであった礼拝堂はそこになく、ファシルの視線の先には只々広い荒野が広がっていた。
眩しい程の陽が照らす荒野はその先が計り知れない位の広がりを見せて地平線の彼方に蜃気楼を浮かび上がらせていた。
「何を驚くことがある?」
その場の広大さに意識を逸らしていたファシルに投げかけられたその言葉は、それを発した声の主にとって取るに足らない事であると如実に現わしていた。
「場所を移すなど当たり前であろう」
続けられる言葉にファシルは意識を向けてそれに集中させた。
目を凝らして辺りを伺うファシルであったが左目が真っ先にその者を捉えると、その左目を通して激しい痛みがファシルを襲った。
ファシルの左目は濃くそして、赤く染まった。
蜃気楼の中に更なる歪みを伴って姿を現した羽付き。
逃すことなく確実に捉える左目はその者を羽付きであるとファシルに知らしめたが、ファシルは自身の目に映る羽付きの姿を見て後悔する程の痛みを覚えつつも込み上げる怒りに体を震わせた。
白く大きな六つの羽はゆっくりと優雅に羽ばたき続けるとその正八面体の体をそこに浮かばせた。
その体の中でぐるぐると回る目玉は忙しなく動き続けたが、その視線をファシルへと伸ばすとピタリと止めて見つめ続けた。
羽付きは異形なその姿をもって一言に「怪異」であった。
ファシルが幾度と相手してきた羽付きと違い「あの日」を想起させるようなその姿は、逸らしてしまいそうな左目の激痛にも拘らずファシルの視線を釘付けにした。
羽付きは半透明の六つの羽を羽ばたかせながら言葉を紡ぐ。
「話に聞いておったが」
「なかなかどうして若造にしては強い魔力じゃな」
見ただけで力量を測り知ると羽付きはさらにファシルを見透かした。
「ん?そうかヌシはそんな事も出来ぬのか」
今もなお続く左目の激痛にファシルは堪えるばかりであったが、それをよそに納得を示すと羽付きは言葉を続けた。
「充分に強いがまだまだじゃの、若造よ」
言葉端から伺える小馬鹿にしたその物言いにファシルは視線を鋭く尖らせたが羽付きは敢えてそれを無視した。
「ここで死んでしまうとは惜しいなぁ」
浮かぶ目玉の見えずとも伺えるにやけ面はファシルを横目に見ると、痛々しくも鋭いファシルの視線と絡み合った。
ふざけた事を抜かすな!──と語るファシルのその視線。
その視線に答えるように羽付きは言葉を紡ぐと目を逸らした。
「老い先短いワシの言う事だ、冗談ではないぞ?」
「冗談でそのような無駄な時間を過ごすわけあるまい」
自虐する羽付きはぎょろりと目を向けてファシルの視線に合せた。
未だ続くにやけ面は何処までも小馬鹿にして止まなかったが、ファシルは左目が馴染むとお喋りな羽付きに返事する事無くすぐさま仕掛けた。
≪セス≫
≪クルエーレ≫
ファシルは左右に握った剣を素早く振るうと羽付きのその体を切り裂きにかかった。
最早風と同化したと言える程のファシルの動きは、その姿を影すら映さずに動かすとそこかしこに斬撃の痕のみを残した。
相対する者は見えない斬撃に晒されると音のみを捉えられるがそれが聞こえた時には既に切り終えた後であり、音の速さでは遅いと言えた。
荒野にある起伏はその大きさを人と比べて優に超えた長大さではあるが、それらはたちまちに細切れとなってその場に砂塵を舞い上がらせた。
それ程に以前とは比べ物にならないファシルは風を手中に収めたかに見えたが、なおもってその羽付きを捉えるには至らない。
刹那の内に数多の斬撃が飛ぶ中を悠然とした所作で躱す羽付き。
それはひとえにその羽付きの力によるものであった。
「まぁ、待て」
ファシルの斬撃をいとも容易く躱す羽付きは自身の周りの長さを変えてそれらを無意味なものとした。髪の毛の一本ですら通らない程に狭く重ねられた網状の斬撃を、その細かな一区画を自身の体の何倍にも大きくしてそこを素通りする羽付き。
目の粗い網では虫は捕まらないのと同じでファシルの幾重にも重ねた斬撃は羽付きを捉えるには至らなかった。
「死に急ぐな」
攻めているのはファシルであり、羽付きのその物言いはあたかもそれが逆であるかのようであった。
ファシルが死んでしまわないように、そして自身の手で殺してしまわないように振る舞っているそれは、一方的に見えて結果としてはファシルが翻弄される側に見えた。
「どうした?もうお終いか?」
羽付きが躱しつつもファシルに向けて口にするそれはファシルを充分に愚弄していた。
明確に「あの日」のそれと似た羽付きはファシル自らの手で葬る他なかったが「怪異」の使う術はファシルの力量を遥かに凌ぐものであった。
自身と「怪異」の実力差がどれほどあろうともファシルは一つだけはっきりとわかる事がある。それは目の前の「怪異」が全くの小手先で手前の相手をしているという事であった。
ファシルは自分の未熟さを理解しつつも、なおもって底の見えない「怪異」にもどかしさを覚えつつ怒りだけをただひたすらに自分の中で育てた。
ふざけた態度で目の前にいるそれが憎くて仕方ないファシルは我を忘れる程に感情を一方向に突き進めたが、それは返って羽付きを喜ばせるとその目には余興にしか映らなかった。
「いつであっても若造はなっとらんのう」
実力差がある上で、ファシルは一心不乱に剣を振るっていたが対照的に羽付きは余裕をもってそれを躱すだけであったため、いつしかファシルは片方の剣を地面に突き刺すとそれを支えに上がった息を整えていた。
「どれ、老輩が一肌脱ごうかね」
未だに続くそのふざけた様子のままに羽付きは自身の力の一端をファシルに向けた。
その言葉の意図するところは羽付き同士であればその通りであったが、敵対するファシルにとって本来の意図とはまるで違うそれをファシルにまざまざと見せつけるとファシルを窮地に追いやった。




