第八十一話 ver2
青年の視界を遮るように立つその者は、青年を見下した。
その者の表情はこれといったものを表しておらず只々眼下に映るもの見下していたが、完全に戦意を失って怯えることしか出来なくなった羽付きを視界から外すと、その者は傍で固まっているフィシリノフに触れた。
その者がフィシリノフの顔に手を当てるとそれは、ピキピキとひびの入る音を立てて広がっていき粉々に砕け散った。
連鎖するように割れていく辺りに張り巡らされていた金属の糸。それらはかなりの範囲にわたり張り巡らされていたようで、その光景からフィシリノフが如何に警戒を怠らず慎重であったかが伺えた。
遠くから微かに割れる音が聞こえると、やがてそれは全て砕け散ったようであった。
念入りに仕込まれていた糸。しかしながら、その張り巡らされていた糸が活躍する機会はなく、全く役に立たなかった。
辺りに散らばった金属片はそのままに、その者は手で触れていたフィシリノフの残った顔を未だに怯えて動けない青年に向かって投げた。
青年の足者とに捨てられたフィシリノフの顔。
それは綺麗に顔だけを切り取ったようで、その顔は金属で出来た仮面のようになっていて、青年にその表情を見せた。
フィシリノフの仮面の表情は感情表現に乏しく綺麗なものであったが、それが如何にその者の攻撃を察知できなかったか、相手にならなかったかが伺えた。
光沢を持って綺麗なその仮面は、反射した青年の顔をはっきりと表した。
怯え切って情けないその顔。青年は反射した自身のその顔を見てさらにその感情を加速させると、忙しなく仮面とその者の顔を交互に見た。
その者の手心として、自身のその顔を脳裏に焼き付けろという、ありがたくも慈悲深いおもてなしであったが、そのおもてなしが青年に伝わる事はなかった。
小刻みに体を震わして怯え続けている青年にその者は死を宣告した。
静寂仕切ったその場に音をもたらしたその言葉。
「お前は自身の手に食い殺される」
その者の告げた言葉は青年の耳から入りそして脳に辿り着くと、何度も脳内で反響した。
実際には一度きりのその言葉を何回も聞いた青年は、少しの間を置いてやっと反応を示した。
「はっ、はぁ?」
「何言ってるんです?」
しばらく開いていなかった口と震える体によって、どもりながら口を突いて出たその言葉。
その言葉端には普段の舐めた態度をはらみつつも、早口で透けて見えて虚勢であったため余計に滑稽なものであった。
どうにかして平静を装うとして吐いた言葉の後に続いたそれは、青年の考えていなかった事で自身の耳を疑った。
「そう書きますよ」
やっと口が回り出した矢先に出たそれは、相手を煽るもので青年に落ちつく暇を与えなものであった。その場に音を発するものが少ない分、余計にはっきりと聞こえたそれ。
その言葉は静寂の中を縦横無尽に走り回った。
そして走り回ったその言葉を追うように続いた沈黙。
青年は自ら沈黙を破ると慌て出した。
「えっ?」
「いやいやいやっ」
「なに今の」
「違うから」
「何言ってんの」
「えっ?えっ?」
追いついた理解が青年の口を怒涛のように滑らせる。
どうしようもない事態に、表情の筋肉を上手く使えずにやける青年のその姿は焦る心とは裏腹に余裕をもって見せたが、総じて共に滑稽なものであった。
そうして動き出す青年の指。ひとりでに動き出したその指は空中に文字を書いていく。
青年の意思にそぐわないその文字の羅列はさきほど青年自ら了承したものであった。
焦る青年をよそに続けられる書写は、命令を全うする事だけに奔走したものであった。
ゆっくりとつづられていくその文字は、青年が死ぬまでの時間を表しているようであった。
「はっ?」
焦りの中に見出された苛立ちという感情は、分からないという感情を内に秘めると口を突いて出た。
青年にとって御し難い事自体が癇に障り、それだけでなく渋滞した今の状況は青年の全てを荒れさせた。自分勝手に動く指はゆっくりではあるが、確実に書き綴っていく。
青年はそれを止めるためにもう片方の手で抑えにかかった。
たかだか指一本のそれは容易く止められると思えたが、青年の予想を遥かに超えてその指は力強い。
自然と力が強くなるもう一方の手。その手は次第に力を強めると、掴んだ手首に食い込み傷を負わせた。しかしながら、それでは足りない様子の指への制止。
それは青年にある決断を迫ると、猶予のない青年はそれをすぐに決行した。
── ぶちっ。
青年は躊躇するもすぐにその指を引きちぎった。
手を離れる指。
死を前にしてかすむ痛みは現状の青年にとって無視できたものであったが、それよりもなによりも、視界に未だにあるそれに青年は絶句した。
空中で続きを書く指。
青年の恐怖は止まることなく進み続けていた。
再度付いた尻もちは、しっかりとして軽くはなかった。それだけ青年は、自身の行動が無意味に終わったことに力が抜けたのであった。
描き続けているそれを目で捉えつつも泳いだ青年の目は、ひたすらに恐怖を想起させるといつしか青年を走らせていた。
その者から逃げるように走り出した青年。
その様子は一言に、必死。
自身の行動が死を表す青年は、その者の目には滑稽に映っていた。
走り出してすぐに躓きこけた青年は間抜けにも、ままにこけた。
受け身もないそのこけ方は、より一層の間抜けさを際立たせるとすぐさま四つん這いとなって逃げ出した。
荒れて起伏が激しいその道は四つん這いの間抜けには相当に辛く映っていた。
その場を後にしたい一心で駆ける四足の間抜け。
その間抜けの後方からゆっくりと追うその者。
それは最早、意味のない事であったが追いかっけことして成立していなくもなかった。
必死と優雅の混在するこの状況は、それだけ両者の差を表していたが、必死な間抜けがいくらそれに奔走しようとも死から逃れる事は叶わなかった。
再び聞こえてきた── ぶちっ。
今度のそれは幾重に重なり大きく鳴った。
間抜けの奔走は終わり新たな展開に移る。
またしてもこけてしまった間抜けであったが、自発的にではなく強制的な事であった。
四肢をもがれた間抜けは、その痛みによってではなく別の痛みによって悲鳴を上げた。
響き渡る鳴き声。
その者にとって、心に訴えてくる程にも満たないその間抜けは四肢の餌食となった。
本体を離れた四肢はその直後に形を変えると、向き直りかみついた。
所かまわず食らいつく四肢。
四肢が食らいついた箇所から流れるその液体は、その顎が強く噛むごとに溢れて流れた。
辺りに漂う間抜けの臭いは、液体が溢れ出すごとに強く広がった。
顎が数え切れない程に動くと、間抜けの体は細かくちぎられて四肢の喉奥へと消えていった。
四肢に苦手な部位はないようで、間抜けの体は次第に小さくなっていった。
四肢の食事の締めは間近であった。
その者の言い放った「お前は自身の手に食い殺される」という言葉との齟齬。それが起きた原因は間抜けにあった。
両手だけであったはずのそれは、間抜けが無理矢理に邪魔したために起きた祖語であった。
書き綴る最中に起きた衝撃で、その字がずれてしまい書き間違いが起きていたのだ。
「手に」の部分が「手足に」となってしまったのは間抜けのせいであり、自業自得であった。
それのせいで死を加速させた間抜けは、喚く事に終始したその声をいつしか奪われると、やがて全身から力が抜けていった。
それに伴って力が抜けていく四肢もまた、間抜け同様に動きを止めると微塵も動かなくなった。
青年の羽付きを倒したその者は、帝国へと歩き出した。
≪ゲーノ≫
歩きながら姿を消し、そしてまたすぐに姿を現す。
その者はそれを何度か繰り返す中でその感覚を長くした。
消えている時間が長くなっていくと、やがてその者はそれに慣れて完全に姿を消した。
飛び飛びに続いたそれは、試みを終えると二度と現れなかった。
その者は、残りの二人が待つ帝国へと向かった。




