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第六十話

 呪いを解くために眠った日から数日が経った時の事。屋敷の庭で修練用の剣を振るうファシル。それは左手の感触を探るためであった。師であるガイアスから受け継いだ剣術を一通り試していく。それら一つ一つの動きによどみはなく、呪いから解放された左手は以前の様に問題なく動かす事が出来た。

しかし、ファシルはある事を隠していた。それはファシル自身何なのか分からない事であった。しかし心の奥底にそれは確実にあって、それが少しの引っ掛かりを感じさせていた。


 ファシルは、とても大事なことを忘れているような、そういった感覚でそれを捉えていた。そしてその事が、治ったはずの呪いを疼かせる。身体的には存在しなくなった呪いの痣。それは形を変えて精神に侵食しているのかもしれない、呪いは解けていないのかもしれない。

そう考え始めると、体を虫が這うような妙な不快感に気が狂いそうになったファシルは気を紛らわすため剣を振るった。


 ファシルが体のならし作業をしている様子を見守るレイリアと医者。

「すっかり」

元気になりましたねと医者はレイリアに話しかけた。

医者の目にはファシルが通常通りに機能の回復が出来ていると映っていた。

「ええ」

とファシルから目を離すことなく返事をするレイリア。レイリアはファシルの機微を見逃さないように集中しているようであった。


 医者は、そんなレイリアの反応とファシルの様子から自分の仕事はここまでだなと理解して挨拶をそこそこに屋敷に入っていった。そしてしばらく主と話をすると帰っていった。


 医者が帰った事に気が付かない程に集中して剣を振るっていたファシル。気が付くと日が暮れ始めていた。時間の経過に気が付いたファシルにレイリアが声を掛けた。

「今日は」

ここまでにしましょと言ってファシルに運動を終えるよう促した。

「わかった」

レイリアの提案にのったファシルは剣を構える姿勢を解いて体を弛緩する。ファシルはその時、少しばかり疲れを感じた。時間の経過とともに自身の疲労に気づいたファシルはため息を漏らした。

「どうしたの」

レイリアがファシルの様子を見て伺う。

「いや、なんでもないよ」

そう言ってレイリアの差し出した手拭いを受け取った。その時であった。

レイリアの手にファシルの手が触れた瞬間、ファシルの頭にかすかな刺激が生じた。それはファシルの頭を走馬灯のように奔った。一瞬の出来事であったが、ファシルは立ち眩みを起こし立っていられなくなりその場にしゃがみ込んでしまった。

「大丈夫!?」

その場にしゃがみ込んでしまったファシルを心配そうに伺うレイリア。

「ちょっと」

体を動かしすぎたみたいと、レイリアに笑みを見せつつ謝るファシル。

ファシルは恐る恐るレイリアの手を借りつつ立ち上がった。しかし先程とは違って、レイリアの手に触れたが何も感じる事はなかった。

そして二人は屋敷に入っていった。


 何度目かの屋敷で食べる夕食は相変わらずの豪華な料理の数々であった。食に対して造詣の深い主はここぞとばかりに美味しそうな料理を食堂の長テーブルに並べさせた。特に目を引くのは肉料理であった。主の用意する肉料理はいつでも絶品の一言であったが、この時用意されたそれは一線を画した。

豪華な食器類はどれも一級品であり全て職人による一点もの。それらの中で特に際立って豪華な装飾が施された皿に載せられた肉料理は、食器の素晴らしさがかすむ程であった。それはとても貴重な動物の肉であった。その動物は人よりも大きく気性が荒い。その動物の体は外観からはとても食べられるとは思えない程に筋肉質で、そして硬いという想像が先行する。しかし、いざそれの体を切り開くと、それはどの部位も余すことなく食べられるのだ。表皮に近い肉も美味しく、内側に近づくにつれて美味しさを増す。そんな全身美味の宝庫の動物。その中でも特に希少価値の高い部位が心臓であった。厳密には心臓の中にある部位である。

この動物は外観を見て想像出来る通りに心臓も大きい。しかしその大きな心臓であったが、その部位は取れてもごく少量といったものであった。

それは口当たりがよく、肉らしさの中に甘みがありやわらかい。そのやわらかさも丁度いい塩梅と言った食感で、噛み締めるその肉からあふれる肉の汁はとても豊潤の一言。

これを超える肉はこの世には存在しないと主が豪語するほどであった。

そんな貴重な肉をファシルの快復祝いにと主が用意してくれたのであった。


 豪華な食事でお腹を満たした一同。そんな最中、主がファシルにある事を訊ねた。それはこれからの事であった。

主としては親切心から、この先も屋敷に滞在してもらっても構わないと考えていた。その旨をファシルに伝える主。しかし、長らく屋敷に滞在していたファシルは本来の目的に向けてネーベンを出ようと考えていたのだ。

ファシルには、主の過剰に思える程のおもてなしの数々は魅力的であったが「旅に出ます」

と遠慮した。ファシルの決心に主は何かを言いかけたがそれを飲み込んだ。

「また」

ネーベンに来たら私のところに寄ってくれと主。

「はい」

と短く返すファシル。

食事中の束の間の談笑は終わりを告げた。


 屋敷の豪華な食事を終えて、部屋に戻るため廊下を歩くファシル。その様子は物思いに耽っているといったものであった。

何かを思案しているファシルに声がかかる。一緒に食堂を出たレイリアだ。

ファシルの名を呼んで質問を投げかけるレイリア。その様子は真剣な面持ちであった。

「どこに向かうの」

その端的な質問は、ファシルが主に言った旅に出るという事についてで、レイリアとしては行き先を訊いただけであったが、考え事をしていたファシルは、咄嗟にそう訊かれて意図をはき違えて受け取ってしまった。ファシル自身の向かう未来について訊かれていると勘違いしたのだ。それは思案していた事に少しだけ当てはまり、見透かされたように感じてファシルはドキッとした。

「いや」

まだ決めてないと誤魔化すファシル。明らかに動揺している様子であったが、ファシルは努めて平静を装いつつそう答えた。その不自然な態度のファシルに「そう」とだけ短く返すレイリア。レイリアもまた何か思うところがあるのか、真剣な面持ちを崩す事はなかった。

そうして会話は終わり、黙ってしまう二人。しばらくの沈黙が部屋まで続いた。


 部屋に着いた二人は短い挨拶をしてそれぞれの部屋に入っていった。

部屋に入った途端ため息を漏らすファシル。自身の動揺を悟られずにすんだと思っての、安堵のため息であった。そしてそのため息で切り替えた様に、ファシルは廊下で思案していたことを再度考え始めたのであった。


 ファシルは庭での修練終わりに起きた出来事を考えていたのだ。

レイリアの手に触れた瞬間に起きた、かすかな衝撃。それは静電気の様に少しのものであったが、ファシルには充分に大きな衝撃であった。


 シュレヒタスでサイロスを退けた後に見えた映像。ファシルはその映像を思い出そうとすると激しい頭痛がともなって全く思い出せなかったのだ。それはファシルには、全く取っ掛かりのない何かがずっと心に引っかかっているといった感覚であった。その心の靄が漠然と、その場所に行け、と言っているようでそれに従ってファシルは行動していたのだ。

そこに向かえば、六つの羽を持つ怪異について何か分かるはずとそう考えていたファシル。

その何から何まではっきりしなかった事が、そのかすかな衝撃ではっきりとした。


 その場所が何なのかはまだ分からなかったが、所在が明確なものとなった今、その場所に向かうとファシルは静かに奮い立っていた。


 しかしながら、これはファシルの考えた事の範疇を出る事はない。簡単に言ってしまえば、思いつきの考え、なのだ。その場所に怪異が居るという考えに確信を持つファシルであったが、その考えには確実な証拠など何一つなかった。にもかかわらずそこへ向かうと固く決心するファシル。


 奮い立つファシルの心とは裏腹に、その様子は何かに突き動かされているよう見えてそれと同時に強迫観念のようなものを感じた。それはファシル自身に選択権がないようであった。

そして、ファシルはそれに気付くことはなかった。

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