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第百二十話

 意識の目覚めがいつだったのか、そしてその意識が閉じた瞬間すらも分からぬままそこに立つとまず湧き立つのはこの場所は何処なのかという漠然とした考え。そして次に何をしていたのかと過去を探った。

分からない。

ひたすらに広いその場所は不思議と不快なそれだけに終わらず、どこか懐かしさすらも伺えた。それは感覚的なものであったが、何処か分からないもののファシルはこの場所がどこか知っている。

そして次第に、知らぬ間に満たされていく感情が心にゆとりを与えるとファシルは沈みゆく感覚に身を任せた。放っておいても満たされていくそれに抗う必要も、何故抗う事が必要と考えていたのかも最早些細な事と捉えると、やがては忘れていった。

満たされていく感触に恐怖すら覚えていたはずの心がいつの間にか心地の良い流れに乗ったその時、後はゆっくりと流れて行く満足感が全てを終わらせてくれるとファシルは感じ始めると、その思いに疑問を抱く余地はなくなっていた。

ファシルはそうして信じて疑う事すらも忘れると、その感覚の心地よさに目を閉じた。

静かにもかかわらず、不思議と嫌な感触は一切感じ取れない不思議な空間。

すると、終わっていく感触の心地よさに全てを任せそうになっていたその時、事態が急変したのであった。

ピリッとした神経の上を走る感触に感覚が目を覚ます。するとその瞬間にファシルは自然と目を開いていた。

ファシルは自らの首を振ると、もっとも色濃く感じ取れる方角へと顔を向けた。

「こっちだ……!」

瞬間的には気のせいかと思ったファシルは確信めいたものに突き動かされると、微かにも感じ取れたその痕跡をより濃く感じ取れる方へと駆け出した。

その痕跡は存在を思わせる。

遠くへと自ら離れてしまったと後悔しては、その事を夢の中でも見続けてきたファシル。

それはその後悔をさらに深くへと押し進めていた自らの心の具現化の様で、怖くてたまらない気持ちがそうさせたようであった。ファシルはそのきっかけとなるあの時の事を今もすぐに思い出せた。

 もしもあの時、自ら離れることなくむしろその身体をそっと抱きしめられたならと。

華奢な身体も、その見た目に思いを馳せる。

あの時の自分を間違いと悔いる事が、繋ぎとめた記憶の隙間に手を指し込めてはその嫌悪感と幸福感を拾い上げた。

まだ会える。

まだ会う事が出来る。

この先に待つ困難に恐れを見せて退いた過去も今はどうでもいい。

夢の中でいつでも会えるならば、真っ先に会いに行く自分をいつも見ていたのは間違いではない。確かに居るその姿は本当の自分が信じた未来の景色で在った。

必ずしも良いものとは言えずとも、そうしたいと思えて信じて疑はない今ならば間違う事はない。

──レイリア。

ファシルは駆け出した。

彼女はここにいる。

ファシルは走る事で受ける風に彼女を感じ取ると、その色合いをより濃いものへと変えていった。

そのまま眠りについてさえいれば、一切の苦しみから解放されることは間違いなかった。しかし、ファシルは目覚めの時の不快感や苛立ちを捨て置いても駆け出した。

また眠るには早すぎる──ファシルは駆けるその身に風を受けると彼女の痕跡を追った。


 意識を取り戻したファシルは「天」へと辿り着いていた。

見た事のない景色が四方に広がる最中に酷く動揺したファシルは不安にかられると、その自身の心の機微に動けずにいた。しかし、その感覚もやがては失せていく。

天──それは如何なる者をも受け入れる場所であり、そしてその許容感はその者に身に覚えのある心地よさを与え続けるものであった。そしてその心地よさは時として、とても甘美なものであった。

あらゆる負のしがらみを心と体から消させては甘美なそれ一色に染め上げる心地よさは、染め上げた者の自由を奪ってしまうけれど、そこには負の感情を洗い流す感覚だけで嫌なものはない。

しかし、ファシルは果てしない充足感に苛まれようともそれを些細な事と捨て置いては走り出したのであった。

直感的に駆け出した自らに対してより濃い不快感が押し寄せるも、それはすぐに消えてなくなる。

何もかもを投げ捨てるようにファシルはひた走る。すると、その身に受けるあらゆる感情が負のそれを払拭しては洗い流していった。

次第に踏み込む足から力が抜けてその勢いは無くなっていき、ファシルは押し寄せる多幸感に足を止めてしまう。

いくら捨てても湧く甘美なそれ。

完全に足を止めたファシルはその場にて沈黙すると、もう二度と走り出す事は無いと思えた。

しかし再び訪れたその刹那によって、ファシルは叩かれたように舞い戻った事柄を思い出してはまた走り出したのであった。

受ける風の殆どは甘美なれど、その中にはファシルを繋ぎとめる存在の痕跡が散りばめられて在った。

走る事で受ける風が強くなると、それに比例して甘美なそれも強くなっていくものの、しかしながらそれと同時に彼女の痕跡も強くなっていった。

ファシルはやがてそれら甘美な音に対して耳を傾ける事をやめた。

微弱ながらも微かに感じられる彼女の小さな歌声に没頭するファシル。

それはほぼ無音に等しいが間違いなくそこに在る。

少しでも動くならばその所作に伴った音によって、かき消されてしまいそうな程に小さなその痕跡。

甘美なそれの心地よさを満たしては捨て去ってと繰り返すと、ファシルはやがて小さくも募る彼女の存在を心に満たしたのであった。

すると、当然のように口を衝くのは彼女の名。

「レイリア……!」

しがらみと共に一度は消えてしまった彼女の事。しかし、甘美なそれとは別に、ファシルは再びその事を思い出させられるとその口から何度も何度もその名を呼んだのであった

走りながらも叫び続けるファシル。

それはともすれば声すらも失ってしまいそうなほどに強く幾度も繰り返されると、繰り返される事で確信がより強いものへと変貌していく。

そうしてファシルは自らの叫びに呼応するのをずっと待っていた。

痕跡から、彼女が居る事は間違いないとそう信じて疑わないファシル。

ファシルは彼女を探すように必死に叫び続けては走り続けた。

「天」の景色に目もくれずにひた走るファシル。それはその最中に彼女と別れてからの事で頭の中をいっぱいにすると、破裂しそうなほどに心を張り詰めさせるほどであった。

 短くない時間の経過がいつしかファシルの体力の限界を超えさせては只々走らせ続けても、今はただ「レイリアと話がしたい」というその思いがファシルの体を突き動かした。

もしも足を止めたなら、今度こそレイリアの事を思い出せなくなってしまう。

ファシルはそう思い込むと、如何に「天」にその身を置こうとも負の感情を纏わり続けさせていた。


 研ぎ澄ませた全てによって彼女を感じ取るファシル。

ファシルは隈なく見渡してはレイリアを探し続けるが、それはどうしたって見つけられるはずもない。

なぜならそれはひとえに「天」がもたらした幻に過ぎないからであり、ファシルが受け取る全ての感覚はまやかしであるからであった。

しかし、息を切らして走るファシルは焦る気持ちをひたすらに募らせ続けると、やがては気持ちとの乖離に目途を立ててしまうのであった。

不意にその体を止めてしまうファシル。

それは感覚の支配によるものではなく、ただ息を切らしての事であった。

息を整えようと、膝に手をついて下を向くファシル。

今も尚失せ続ける負の感情も、その焦りが募る速さに追いつけはしない。

すると下を向くファシルの視界にあるものが映った。

快晴を思わせる「天」の景色の中、何かに照らされるようにきらりと光るそれ。

それとは、自らの左手の一つの指にはめられた指輪であった。

ファシルは今の今まで気付く事のなかったそれに注目すると、その指輪に吸い寄せられるような感覚に陥った。

レイリアにもらったものと違って、かつて怪異と初めて遭遇した時に見たものと同じもの。それが自らの指にはめられて在る。

ファシルはおもむろにその手を「天」にかざした。

──。

彼女を感じるすべてに思いを乗せて、ファシルは叫ぶなりその指輪へと持ちえる全てを注ぐように只々ひたすらに魔力を注いだのであった。

自らの叫びであるにもかかわらず、何と言っているのかさえ分からなくなるほど、絶叫するように叫ぶファシル。

ファシルはひたすらそれに傾倒した。

レイリアを復活させる、復活させて見せると意気込むファシル。

そんなことが可能かどうかなど今のファシルには判断が付かないようで、壊れたように絶叫し続けた。

そもそも彼女の存在が亡くなっているかさえ分からない今に在っても、ファシルはそれ以外の方法を捉えられなかった。

それだけに焦る思いによって突き動かされているに過ぎないファシルであったが、そうであっても尚叫び続けた。

ファシルは自らの体がすり減って消えていく感覚を微かに感じつつもその事に構うことなくそうし続ける。

他のいかなる情報も捨て置くに在って、それ以外に必要としない──と頑ななまでの意思が全てを拒絶する。

レイリアを取り戻す事だけが今のファシルにとって全てであると、ファシルにはその事とそれ以外というように区別した。そしてそうまで思い込む程にレイリアの存在は大きなものとなっていた。

 レイリアにもらったものとは違う形となってしまったその指輪も、魔力を受けてはただひたすらにその魔力を吸った。

ファシルが垂れ流すように注ぎ込む魔力。

その魔力を受ける指輪は手応えを少しも示す事無く吸い続けると、見た事のあるそれもそうでなくとも些細な事柄に成り果てた。

必死な者の行動はどうも他者からは滑稽に映る。

一言に無駄と言えるその行動もファシルには全てであり、やめてしまう事はレイリアを永遠に失ってしまう事と同義とあっては、二度と取り戻せないというあり得ない感覚に支配されてしまうのは必然でありファシルにはそれ以外に考えられなかった。

しかし、すがるように思いという魔力をひたすらに垂れ流すファシル。

魔力が失われていく過程において、時は粛々とその行動に対して変化を着けることなく続けさせるのであった。

次第にかれていく声に、叫び続けては経過させた時間を物語らせる。

すると、ファシルは尚も幾度と彼女の名を叫び続けていた。

しかし不思議なもので、焦る感情とは裏腹に時が経つという事はその者を冷静な側面へと導いていく。

主観においても「もしかすると無駄なのでは」と嫌な考えが自らに芽生えるとファシルは払拭するために更にその行動を続けてしまうのであった。

焦りと落ち着き。

相反する二つが両立されたその時、それら二つを煩わしく思うファシルは声を荒げてはそれを大きくしていった。

重ねられた回数に比例するように大きくなる叫びに、二つも如実にファシルの心大部分に巣食っていった。

 その方法が合っているかもわからないままファシルは魔力を消費して、そうすることが正解であるようにいつまでも叫び続けたのであった。


 ファシルが「天」に辿り着いた事において、レイリアを取り戻す事とそれ以外に区別したその中には見落としてはならない事が在った。

その他の事として区別された事柄の中には、この場所が「天」であるという事が別段特別視されておらず、それは当然の事としてファシルの中に在った。

ファシルはレイリアの事を思うままに、ひた走る最中にて景色を視界に捉えてはいたものの、そこには見ていないものが明確に在った。

 景色には往々にして自然が広がり、所変われば建造物が散見する。

ファシルにとってこの場所が何処か分からないとはいえ、知っているような感覚が先行するものの実際には知り得ない景色が全てであり、それらが視界の全てに広がりを見せている。そしてそれらの中には、それ以外にも地上と差異の少なくない物事が連ねられていた。

しかし、そんな中でも決定的に違う事が明らかなものとして景色には現されていた。

「天」と「地上」において明確に違うそれ。

かつてこの「天」も地上から行き交う事が可能であった。

それは、そこに至るために選別されるような要素は一つとして無いものであったが、しかし「天」をそれとそれ以外に分け隔てた事態が過去に在った事は「地上」にも知れ渡っている。

それはファシルという存在が生を受けるよりも遥かに昔の事であるが故に、ファシルがその事を知り得るには誰かしかに聞き及ぶしかその情報を知る術はなった。

しかし、ファシルも幼いころにガイアスから聞かされていた。それはセリーネからも然りであり、地上にその事を知り得る者は少なくはない。

 時の流れが大きなものとなれば、言い伝えられる物事はその信憑性もそれ自体も薄れていくと、確かな事柄であっても無い事のように扱われていくものであった。

しかし、その事だけは不変的であり象徴的に世界に変化を現している。

その事柄とは──「天」はかつてそこに存在した者の所以ある者達によって完全に遮断されてしまったという事。

すなわち「天」という場所は現状において、誰彼構わず行き交う事の出来る場所ではなくなっているという事であった。

それは今となってはどれ程高尚な存在も望めば辿れる場所ではないという事であり、ファシルは今その身を「天」に置く。

ならば、「それら」を見ていないという事があり得ない状況であると気付くべきであった。

幾度も叫び続けるファシルが声をからすと、それに吸い寄せられるように「それら」もまたその場へと吸い寄せられてしまったのであった。

「天」において最高位に存在する、それら。

それらは三つの、それぞれが別の方角から真っすぐにファシルへと向かって来る。

しかし、ファシルはその事に気が付いていない。

地上ではあり得ない事が「天」ではまかり通る。

もしも何事もなくそれらが辿り着いた瞬間に、全てが終わる。

白い大きな羽を羽ばたかせては迫る、それら。

絶叫を中心に三つの頂点が一つに至ろうとしていた。

しかし、ファシルの身になにかが起きる。

三つが迫る最中、死が迫る最中にファシルはある声を聞いてはその身が即座に引っ張られる感覚に陥った。

悪態と詠唱が紡がれる。

尋常ではないそれらが迫るよりも速く──誰よりも速くファシルの下へと辿り着いたその者は、短く「愚か者」と悪態をつくとその一言に集約しては切迫した時を惜しむと口を紡ぐ時間すらも惜しい様で、その者はファシルの体を浮かべると共に瞬く間にその場を後にしたのであった。

「イーベィグリド・クーベェス」


 ファシルとその者が姿を消すと、直前まで居たその場所は跡形もなく消え去った。

一つであってもそのようにしてしまう程の威力が三つも一か所に集中したとあっては、それが如何に常軌を逸していようとも「天」においてはそれが在り得た。

ファシルらが辛うじて逃れたその場所には、その場所をそのようにした者の痕跡が残された。

それは三つに分類できて、一つは水であり一つは火であった。そして残る一つは風。

もしも、あと少しでも声の主が遅れていたならばファシルは間違いなく死に呑まれていたであろうとはっきりと言える。

それだけの事が瞬時に起きては当たり前のように過ぎ去っていく。

ここは最早「天」なのだということがありありと伝わるように異常が通常の事として過ぎ去ると、ファシルらが元居た片鱗は一切なくなってしまったが、そこに三つそれぞれ力の行使者が飛来した。

消し飛んだ場に目もくれず当然のことを気にする素振りも見せない、それら。

やがてそれら三つはすぐに飛び立つと、お互いに交わす言葉もなくその場を後にしたのであった。

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