第百十八話
差し迫る四者の手が触れる直前、ファシルの言葉がそれらをかき消したように見えた。
四者の姿が消えると、それはまるで元々そうであったように思えて、在りはしないものが跡形もなく消えていく様子がそこには在った。すると、すっと消えて無くなるそれらを前にやがては決壊の兆しが差し込めた。
アトアイシスの妄執とも妄想とも取れるそれは、時の流れによって過度に肥大化しては次第に現実に侵食するに至る程になっていたのであった。
本来なら、考えや思いはその者の心のうちに留まるならその在り様を邪魔されることは決してないと言える。しかし、それを一度でも外へと吐き出したならばその理は一概にその通りではなかった。そして、今となってファシルの言葉がかき消したそれによってアトアイシスは自らの心の内が外へと撒き散らされていた事を知ると、少しの綻びをもって崩壊させる結果となった。
真っすぐに捉えていたファシルの姿が忙しなく動く。
それはファシルが自らそうしているわけではなく、アトアイシスの動揺がその両眼を動かさせていたからであった。
消えて無くなった仲間の姿を前に、今になってそうなってしまったと思い込もうと叫び狂うアトアイシスではあったが、しかしながらそれら四者がその場を後にしたのは幾重にも重ねられた時の遥か向こうであり、それは今よりも相当に遠い過去であった。
アトアイシスが一人で作り出した要塞はそこかしこに懐かしい感覚を立ち込めさせている。
それは既に亡い仲間を見失わない為とも、自らをそこに辿らせるためでもあった。しかしその自らの思いのままに在る要塞の内、たった独りの異物が現実を運んだ。
かつて起きた出来事を歴とした過去であると伝え謳う。さすらばそこは本来の時を刻むに至ってアトアイシスの心をきつく締め付けては止めどない現実を流し込んだ。
永らく避けてきた現実に、突如として流れ込むそれに拒絶反応を示すとアトアイシスは受け止めきれない現実に強い吐き気を催して、その両眼に涙を浮かび上がらせた。すると、その潤んだ両眼は自らの妄執を霧散させては透き通った現を見せ立てた。
かつて共に戦った仲間の軌跡を今に辿るアトアイシス。
アトアイシスにとってそれら仲間との最後の光景は戦いの中に在りながらも、それはもう今に無いものであったが、それらの出来事だけが今も尚アトアイシスの心を巣喰ってはその心を乱さずに絶えず在り続けていた。
しかし、今となってアトアイシスの心がいくら乱れようとも目の前に在る存在がその在り様を現実と向き合わせると、生かさず殺さずと言ったように只々現実を受け止めさせたのであった。
そうしてアトアイシスは漸くそれを見通すと、あらゆる負の感情を払拭するに至ってはその視線を静かにさせた。
はからずとも、かつての仲間が成し得なかった事を明確な敵対者がそこに促した瞬間、アトアイシスは自ずと焦点が合わさって静寂の中で対峙する者を捉える事が出来た。
アトアイシスの両眼に映るそれは独りの者であり、それはファシルであった。
現実はいつも空虚なそれを指し示したが、事ここにおいてそれはアトアイシスにとってその許容量を超えて受け入れがたいものであった。
カルネインにて純粋というものを体現する最たる存在がアトアイシスであり、その階級に在ったあらゆる体現者が死に絶えていく最中でも、それらを産み落とした者の寵愛を最も強く受けていたアトアイシスはそれを加護として死を免れてはその代わりにその強さを献上し続けていた。
しかし、そのアトアイシスには一つだけ手に入れる事の出来なかったものが存在していて、それは「現実」であった。
アトアイシスは「現実」に生きていない。
厳密にはそれを認識できていないという事が正しかった。
アトアイシスのもたらす「純粋」が「現実」へと延びる焦点をずらさせて、或いは曲げてそこに全ての結果を現していた。
それは「純粋」であるが故に「現実」の厳格さに絶えられないからであり、アトアイシスはそこだけを見れば弱いと言えた。
しかし、今となって目の前に立つその者はアトアイシスに「現実」をもたらす者であり、その者は今も尚アトアイシスの両眼から目を逸らさずに佇むと、自らが紡いだ言葉に全ての責任を持ちながらもアトアイシスが応えるその時を待っている。
アトアイシスが作り出した色彩豊かな「純粋」が「現実」を前に屈したことでそこに出でるのは、冷たいまでの虚しさであり空という感触の無さ。
「現実」をもたらすその者はアトアイシスよりも先にそれを知り得ている。
「現実」はいつの時も厳しさや辛さばかりを押し付ける。しかし、それを避けて得られる結果に意味が無い事を誰しもが気付いていて当然に知っている。
遅かれ早かれ気付き知るその事に、歪な存在であったアトアイシスは漸く「現実」を知り気付く機会を得た。そして、アトアイシスもやがてそれを知り得るに至るのであった。
ファシルに敗れたアトアイシスは心を落ち着かせると、自らの視界に色など在りはしなかった事を認識した。
本来ならありとあらゆるものに在る色をアトアイシスは見失うと、漸く先程の言葉の意味に辿り着いて「現実」を知った。
妄執の最中に創り上げた要塞には何もない。そしてそこに在る二者には互いに持ち得ないものが存在する。
精神の成り立ちがそもそも違うとはいえ、それは個体の違いに比例して仕方のないものであってもいずれ辿り着く成熟度合いがそこに至るならば理解に及ぶはず。
アトアイシスはいつの間にかファシルを超えてそこに辿り着くと、平穏の心をもってそれを受け入れた。すると、アトアイシスの纏うそれがそこに至ったのを感じ取ったファシルはそれを応えとして、駆けた。
アトアイシスが「ありがとう」と誰に言うでもなくそう言う。するとアトアイシスは、突き刺さる「現実」に身を任せたのであった。
表層のファシルにとって実につまらない結果を招いたその妄想が、今その別れを受け入れて佇んでいると在ってはその意図をはき違えたりはしない。
二の句を告げる必要がないと理解を示した表層のファシルはそのままに構えた。
その構えは終わりの一撃を彷彿とさせて、それは事実そうであると何時しか手に槍を携えさせてはその時を待っていた。
アトアイシスは戦う意思を失くした。
それはただ敗れた事から来る無力感からではなく、それを超えて知り得た感覚によるものであった。
アトアイシスはその身体から無駄な力を抜くと強張っていた身体を自らのものと確かに理解した。そしてアトアイシスはゆっくりと吐く自らの息を噛み締めると次の瞬間、吸い込んだ空気と共に貫くそれを受け入れた。
アトアイシスは「現実」のもたらす槍をその身体に呑む。
その感触がいくら痛みを伴おうとも、それはアトアイシスにとって感じ取る程もないと思えた──。
表層のファシルはアトアイシスが手を広げて待つそこへと駆けて行った。
ファシルにとってそのアトアイシスの意図を汲む意味は本来なら必要のないものであったが、それこそが使命であるかのように表層のファシルは槍を突き立てるもそこには揺らめく黒を携えてはいなかった。それは情けによるものでは無かったが、しかしながらそこまでの力がなくとも色を失ったアトアイシスにそれを認識することは最早出来なかった。
──。
静まり返った要塞の中にてその音だけが小さく確かにこだましたのであった。
アトアイシスは自らの命の灯を消そうと近付くその速さを受け入れた。
ずぶずぶと突き刺さるそれは無抵抗の身体から受ける抵抗を知らぬままにその意を貫いては通り抜けていく。
アトアイシスの身体にそぐわないそれが突き刺さった瞬間であった。
アトアイシスを通り抜けた柄に滲むそれは綺麗なまでに思えて、それだけにアトアイシスが痛みを思わせない姿から抵抗のなさが痛い程に伝わって、そこに在るのは只々静かな諦めと伺えると納得の感情が柄を伝ってはファシルへと知らされていった。
それは抱きしめる様で、まるで親愛なる相手にするそれとさして変わらず、優しさを現すかのようなアトアイシスのその行いは恰もそこに在るように黒い揺らめきを自らの奥深くへと受け入れていくと、存在しない黒の燃え盛る感触と共に更に奥へと突き進ませたそれによって自らの身体を崩していった。
すると、やがてアトアイシスは自然と縮まったお互いの距離によってそれを携えた者の体に触れるに至る。
突き進むに連れて痛々しい感触が誰の目へとも伝わる程に深く食い込んでいくが、しかしそこにアトアイシスの感情は伺えず、やがては二者の距離を最も近付かせたその時、次第に縮まり続けたその距離にアトアイシスの顔はファシルの顔へと近づいていった。
そうしてアトアイシスは遂にはファシルを抱きしめて、そしてその耳元にて呟いたのであった。
刃物の貫く音が静寂の支配するそこに響くと、そのままに力なく姿勢を崩したアトアイシスの身体がその槍の柄を指示として自らの身体をファシルへと傾けた。
二者の距離はこれまでに無い程に近付くもそれは視点こそ違えば、寄りかかる者とそれを支える者のように見えた。
そうして二者は完全に密着する形を取る事となり、寄りかかるアトアイシスとそれを支えるファシルがそこに現された。
二者間にはしばしの静寂と静止が行き交っていく。
貫かれた身体からは、槍を伝うアトアイシスの血が滴っており、伝って流れて行くその血はその灯の残された時を物語っていた。
とうに戦意を失わせたアトアイシスからは力の感触が少しも伺えない。
消えゆく残りの時が虚ろにしてはその目を開いたままにするアトアイシス。
流れて行く時の中で、幾度も逡巡した思いが止めどなく流れて行く最後の時にアトアイシスは何を思うのか。
アトアイシスは自らの死が迫ると一点に集中させてはそれ以外の機能を全て停止させていった。その過程の一つとして、虚ろなその目から次第に光を失せさせていく様は酷く寂しさを漂わせていると思えたが、しかしながら光を失ったアトアイシスは今になってこう思う。
虚の及ばせた原動力は空しくとも、今はそれらから解放される感触だけが清々しい、と。
アトアイシスはやがて視力を全くに失うと一点のみ力を残して完全にファシルに寄りかかっては、微かに感じられるその体の感触からファシルの顔の位置がどこに在るのかだけに傾倒した。
そうして自らの顔を、口をファシルの顔の位置から程近いその耳に近付けていく。
「ヤフト」
すると、アトアイシスはファシルの耳元でそう囁いたのであった。
静かながらもしっかりと届かせたその言葉。
本来ならばこの先、アトアイシスはその相手をファシルなどではない他の誰かにしたかったに違いない。
アトアイシスは至りてはその精神の成熟度合いによってさらに言葉を続けると、これにてカルネイン最後の羽付きはその役目を終えた。
これ以上ない感謝を思いながらもアトアイシスは自責の念を滲ませると遂にはファシルを止められなかった事を悔いつつも、最後の言葉をファシルに捧げては永い永い時の中で漸くその言葉を口にする事が出来たのであった。
──ヤフトィス・エッタ。




