第百八話
閉じ込められた闖入者は自らの指輪でそれを容易く脱すると、漏れ出ていた不快な気配を辺りにまき散らした。
夥しくもこびり付くように辺りを這うそれはまさしく妖気であり、闖入者を中心として瞬く間に波及する。しかし、その妖気を感じ取ったアトアイシスが只々見過ごすわけもなく、静かなれどもその言葉は毅然として自らの口で告げてはそれを阻止した。
「ソルトゥエル」
アトアイシスの呼びかけに応じて動くソルトゥエル。
すると、ソルトゥエルの羽が扇いで起こす風によって辺りは洗われると、妖気の進行は瞬時に止まった。目に見えて色の違いが明暗を分けているようで、それは景色を分断した。
やがて拮抗するに至ったそれらも、闖入者の撒く妖気は次々と供給されては留まる事を知らないようで、一度は無くなった妖気の動きもそれによってその場から消える事なく忙しなく動き続けた。
妖気が濁りを表すなら、ソルトゥエルのそれは澄み切っている。
そしてそれはとてもかぐわしい香りを放っており、ともすれば今いる場所が辺り一面の花畑であると錯覚させる程で、アトアイシスはその香りを忘れまいとその匂いを確かなものとした。
しかし、その香りにあてられても尚、闖入者は何も感じ取れない。
「女々しい奴め」
微かであっても確かなその香りを「下らん」と一蹴する闖入者にアトアイシスはキッとに視線を鋭くした。
「黙れ……!」
どうしたって漏れ出る感情にアトアイシスは口を紡いだ。
──ヤフト。
その瞬間、闖入者は自身の足場がぐらりと崩れる感覚に陥った。
それは、足場が無くなり高所から落ちていくような感覚で、自由落下するその感覚に少しばかり驚いた闖入者ではあったが微動だにしない。
≪フィリオース≫
逆さまのまま、自身の背に生やした黒い翼でその身を支えると闖入者は上下の違いを毛ほども気にすることなくアトアイシスを嘲笑した。
「この俺が堕ちるものか」
そして闖入者は左手を前へとかざす。
「これからが面白い所だ、簡単に死んでくれるなよ?」
左手の指輪が怪しく輝く。
「まずは小手調べといこうか」
そう言っては不敵な笑みを溢して、闖入者は言葉を紡いだ。
≪ドッラ≫
辺りを這っていた妖気からにじみ出る黒い球。
それは上下逆さまの闖入者に倣ってか、雨が降るようにしかし下から上へと降りしきる。
互いの隙間を埋めるように、それらはひとしきりに降る中で集った。
アトアイシスと闖入者の間が黒い隔たりで遮られては互いの居場所が掴めなくなると、闖入者は短く命令を下した。
「行け、食らい尽くせ!」
命令を受けて小刻みに震えだす黒い大群。すると、それらの数え切れない程の黒い球は一斉に口を大きく開いた。そしてそれら全てがカチカチと歯を鳴らす。
個の刻むそれは大した事のない音でも、大群が一斉に鳴らすそれはげに気色悪い。
辺り一面から聞こえてくるカチカチ、カチカチといった音。
アトアイシスはその不快感に顔をしかめたが、黒い球の大群はそれを気にも留めず臆することなく突撃した。
黒い球が極僅かな一か所へと降り注ぐ。
カチカチと鳴らすそれらが大挙として押し寄せると、それは黒い雨となりそこに集中した。
それらの黒い雨が進む様子は、互いの接触を気にしない様で、隣り合ったそれすらも噛み砕く。そうして次第に数を減らす黒い雨も、砕けたその次の瞬間には分裂して元の姿形へと戻り、増殖しては命令を遂行するために突き進む。
黒い雨の降る先には元の量を超えたそれが雪崩れ込み、濁流となっては一気に押し寄せた。
豪雨と共に濁流が押し寄せる最中、それらは僅かにも隙が無く、通り過ぎた後に残るであろうそれは荒れ果てた姿だけであった。
しかし、アトアイシスは動じることなく次の手に出た。
「ゾルイアス」
呼応しては、躊躇なくアトアイシスの前に立つゾルイアスの大きな身体。
すると、アトアイシスはゾルイアスの背に手を置いた。
「やれ……!」
その一言でゾルイアスの巨体が動き出す。
我先にと向かって来る黒い豪雨に対して、ゾルイアスは地面を強く殴りつけた。
すると、地面に大きな亀裂が入り、不規則な格子模様の地面が瞬く間に隆起すると、それらは幾重にも重なり合い大きな壁となっては黒い豪雨の侵攻を妨害した。
命令を遂行する事だけに突き進む黒い豪雨は馬鹿正直に隆起したそれにぶつかると、後続の勢いに圧されて先方から潰れていく。
虫がつぶれるような、音の連続が不快感を煽る。
ゾルイアスは濁流をせき止めた地割れを飛び越えるため、大きく跳躍した。
巨体が空に舞う。
すると、ゾルイアスの巨体は闖入者に覆いかぶさるように大の字で飛来した。
闖入者はそれを迎撃するために黒い球を差し向けるが、ゾルイアスの巨体とあってはとても大きな質量にそれら黒い球が全く機能しない。
「チッ」
闖入者は舌打ちすると、その身を翻してはその場から退いた。
ゾルイアスの巨体が舞い降りる最中、黒い球の潰れる音がひしめく。すると、ゾルイアスは着地するなり闖入者へと突撃した。
大きな質量が着地と共に前へと動くとその力は計り知れず、黒い球程度の小さな質量がいくら集まろうとも全く敵わないものであった。
ゾルイアスの勢いは先の黒い球の大群が見せた怒涛の比ではなく、その巨体は刹那に闖入者との距離を縮めると、伸ばした大きな手で闖入者を掴みにかかった。
勢いのままに振るわれる大きな手が抵抗を受けては風の中で音をかき鳴らす。
しかし、闖入者もそれを許す事はなく、黒い球の大群をさらに降らせてはそれを止めにかかる。
先程までの意味をなさない牙を剥き出しにした形とは違い、刺突に特化した鋭利な形に統一される黒い球の大群。
すると、闖入者はそれをすかさず差し向けた。
一度走り出したゾルイアスの巨体は勢いを失わず突き進むが、その巨体に触れた黒い球の大群が奏でる音は先刻とまるで違い、ブチブチと潰れる音がグサグサと突き刺さる音へと変貌して巨体に突き刺さる。
グサリと刺し込まれたそれがズブズブと肉に食い込む感触を、アトアイシスは自らの視界に入ったゾルイアスの巨体をもって聞こえないはずの音を連想させた。
ゾルイアスの巨体に起きている事が自らの事のようにアトアイシスは苦痛に顔を歪める。
そして突き刺さった鋭利なそれは、ゾルイアスの巨体を貫くと、通り抜けた矢先にその背中へと方向を変えては追い立てて突き刺さった。
見る見るうちに針の山を築き上げる黒い球の大群。
すると、尚も続いた巨体の突撃もやがて闖入者の目の前で止まってしまうと、ゾルイアスは動けなくなり完全に剣山と化した。
静まり返ったその場を闖入者の失笑がこだまする。
「惜しかったな……だが届かん!」
少しの後退が気に障ったのか、語気に怒りの色を滲ませる闖入者。
闖入者は再び黒い雨を降らせると、それらに命令を下した。
「食い尽くせ!」
辺りに這う妖気から、目の前の巨体目がけて飛来する黒い雨。
黒い雨は口を大きく開くと、ゾルイアスの顔を貪った。
歪なそれへと模られていくゾルイアスの顔。
──ヤフト。
少し離れた位置でその光景を捉えていたアトアイシスは自然と両の拳を強く握った。
「……す」
目の前の巨体をよそに、離れたアトアイシスを見た闖入者は顔を歪ませた。
しかし、歪なれどそれは勿論に苦痛からではなく、一言に破顔。
闖入者はわざとらしく問いかける。
「これで終わりか?」
言葉端からも伺える闖入者のニヤケ面。
すると、その扇動にあてられて遂にはアトアイシスが叫んだ。
「殺す!!」
自ら剣を握り、先頭を切るアトアイシス。
その勢いは凄まじく、瞬く間に闖入者に肉薄すると風を超えたアトアイシスは剣を振るった。
横一閃に駆けるその剣筋。
離れた位置からここに至るまでとそれに加えた鋭い剣筋。それは空気を歪めるとそこに残像を描いた。
少しの無駄もない所作と駆ける剣。
これ程の無駄のない綺麗な剣筋が織り成す結果はスッと一直線なものと思えた。
しかし次の瞬間、アトアイシスの剣は甲高い金属音を拾う。
アトアイシスの突撃を遮るように、一閃の剣筋が闖入者の前で止まっている。
ぎりぎりと一閃の勢いを削ぐそれは、闖入者の手に携えられていた。
「イリスに歯向かうとは……?」
その瞬間、拮抗していた勢いが闖入者の勢いに押し負けた。
逆方向への力任せの薙ぎ払いに、後方へと飛ばされるアトアイシス。
その勢いはアトアイシスの突撃に匹敵すると、それを追って飛び込む闖入者。
後方へと弾き飛ばされたアトアイシスは受け身が間に合わず、空中での姿勢制御が効かないままであった。するとそこへ、同じ勢いに乗った闖入者の姿が最悪の形で現れる。
それは一瞬の事で、アトアイシスは吹き飛ばされると自らの上にある闖入者の姿を見た。
「終わったな」
直上のその姿はそう呟くと再びニヤケを晒すが、アトアイシスはそれに苛立つ隙も与えられず、自らの身体へと降り注ぐ剣を躱し切れなかった。
「しまっ……!」
吹き飛んだ体の勢いは風を切るも、直上より降り注いだ一筋によって刹那にその勢いを削がれてしまう。
それは闖入者の剣がアトアイシスの身体の真ん中を貫いたせいであり、止まったその身体は地面に突き立てられていた。
「フン、他愛もない」
瞬く間に静止した亡骸に、闖入者の悪態が吐き捨てられる。
すると、つまらなそうな態度のまま闖入者はアトアイシスの亡骸から引き抜こうと、突き立てた自らの剣を握り引く。
──ガッ。
しかし、何故かその剣は地面から離れようとせず固く突き刺さったまま。
訳も分からず、やがて闖入者は躍起になるとその剣を両手で引き抜こうとした。
その瞬間、目の前の亡骸がひとりでに動き闖入者の身体を掴む。
「何っ?!」
突然の事に驚く闖入者。
すると、闖入者は不思議な感覚に陥った。
亡骸に掴まれた事によって視界が歪み身体から力が抜けていく。
遂には立っていられなくなった闖入者はアトアイシスに寄りかかる。
すると、おぼろげながらもその声に驚愕した。
「終わりだ」
暗転した矢先、闖入者はその言葉で目を覚ました。
身動きが封じられた自らの体。
先程までの光景とは全く違う現状に理解が及ばず焦る闖入者。
すると、死んだはずのアトアイシスと、アトアイシスの指示に従い闖入者を挟むようにして立つソルトゥエルとゾルイアスの姿。
次の瞬間、闖入者の視界一杯に眩い輝きが満ちていった。
闖入者を挟むように放たれたそれら。
それら挟撃の光を闖入者は知っている。
アトアイシスの言葉を元に下されては一点に向かって、双極の光の砲撃がぶつかり合った。
「ヴァース!」




