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追放聖女、行き倒れを拾う【コミカライズ】

 私は、王子を誘惑なんかしてない。


 婚約者の令嬢に邪教の呪いをかけてもいない。

 そのために邪教の神官と寝てもいない。

 王子に迫られたときも、拒んでいない。


 生まれ育った修道院が、どうなっても良いか?

 ──良いわけが、ない。


 人より少し治癒魔法(ヒーリング)が得意なだけの私が、天啓だと聖女に祀り上げられたのは十八歳のころ。もう五年以上も前だ。

 そして二年と経たず、幾つもの罪と汚名を着せられて、王都から永久追放された。


 今は、辺境の村でひっそりと暮らしている。

 未だあのころを悪夢(ゆめ)で見て、真夜中に目が覚める。


「やあ、アイシャさん。今日もいい天気だね」


 道端の腰掛け石に座るおじいさんが、私を見つけて朗らかに声をかけてきた。


 朝の日課、村外れの共同井戸まで空っぽの木桶をぶら提げ水をくみに家を出たところ。王都を出てすぐ短くした栗色の髪(マロンヘア)の襟足を、心地いい風が撫でてゆく。


 辺境の多くがそうであるように、この村も住民たちの平均年齢は高い。だけど、お年寄りたちはみな元気だ。


「ほんとですね。……腰の調子、いかがです?」

「おかげさまで、このとおり。なんなら水汲み、わしが手伝おうかい?」


 先日、腰の痛みで立つこともままならなかった彼も、私の治癒魔法(ヒーリング)がよく効いたようで、元気に奇妙なダンスを披露してくれた。

 笑いをこらえつつ、腰が悪化してはいけないと丁重にお断りして、私は歩を進める。やっぱり、聖女のひらひらで動きにくい衣装より、今のシンプルで実用的なスカートのほうがしっくりくる。


 ちなみにお年寄りしかいない家には、牛さんの引く荷車が水を届けてくれる。住民同士が当たり前のように助け合う。華美な王都に溢れるそれとは別の豊かさが、ここにはあった。


「アイシャ! おはよ!」


 村全体でも三人しかいない子供の一人が、挨拶を置き去りに追い抜いていった。道の先、井戸の近くにいる残り二人と合流して、一緒に何か騒ぎ立てている。


「何か、あるの?」


 近付きながら子どもたちに問いかけた。以前、似たような状況で巨大なミミズを鼻先に突き付けられたときの衝撃を思い出し、最大限に警戒しながら。


「ミミズ~!」「ミミズだって~!」


 ほうらやっぱり、見なさい私の学習能力。というわけでそちらには近寄らず、遠回りして井戸の水を汲み上げ、桶に満たす。


「アイシャ、ミミズ~!」

「知りません」

「じゃあオシッコかけてもいい~?」

「勝手になさい」


 勢いでそこまで言ってから、さすがにミミズも可哀想だし、まずミミズを触って汚れた手を洗わせなくちゃと思い立つ。


「ちょっと待ちなさ──」


 制止しようと向けた視線のなか、子どもたちに囲まれて地面を這っていたのは。


「……み……みず……みずを……」


 うわごとのように繰り返し、右手をこちらに必死に伸ばしてくるそれは、どう見てもミミズではなく、ぼろぼろの服装で行き倒れた人間だった。


「──いいいっ!? だだだめだめだめー! ストォーップ!」


 ……そんな私の決死の制止が間に合ったかどうかは、()の名誉のために、あえて明言はしないこととする。本人もよく覚えていないようだし。


「……あの、アイシャさん、こっちの食器は……」


 そんな惨事(できごと)から、一カ月ほど経つ。


 世の中すべてに遠慮するような、縮こまった猫背。

 ぼさぼさの灰髪に隠れて怯える目元。

 痩せてこけた頬。

 

 彼は飢えによる衰弱だけでなく、何かの病を患っているようだった。なので当面は、私も住みこませてもらってる診療所併設の宿舎で、治癒魔法(ヒーリング)を施しながら面倒を見ることになった。


 はじめは私も、宿舎まで運ぶのに手を貸してくれた村の男衆も、彼をおじいさんだと思い込んでいた。それほどまでにか細く、弱り切っていたから。


「そこの戸棚の上から二段目に、重ねて入れておいてください」


 ただ、ここに来た初日の夜、うわごとのように謝罪の言葉ばかり繰り返す彼の服を取り替えて、体を拭こうとしたとき。

 途中から、それは自分でできると頑として拒絶されたことは、記憶に残っている。


「──はい、二段目ですね」


 相変わらず普段は猫背で、顔もうつむいてばかりだけど、食器をしまうためにまっすぐ伸ばした背丈は思った以上にすらりとして見えた。私より頭ひとつ以上は大きい。

 

 洗って肩口で切りそろえた髪は、よく見ると灰色ではなく光沢のある銀色。

 目元は長めの前髪に相変わらず隠れていたけど、その下のこけていた両頬には生気が戻っていた。(そこ)から顎の尖端まで伸びる、なだらかな稜線(カーヴ)が綺麗だったから──私は、すこしだけ見惚れてしまう。

 

 おそらく彼は、私と変わらない年齢の青年だろう。


「あとは、何か俺にできることありませんか?」

「うん、もう大丈夫。セイルさんはまだ完治したわけじゃないんだから、大人しく座っていてください。ほら、今日はいただきもののフルーツがあるの」

「ああ、フルーツ……! この村で採れたものは、みな本当に美味しいですよね……」


 セイル。ここに来た翌日に彼はそう名乗り、それ以上を自分から話すことはなかった。──どうやらフルーツ好きらしいということは、今わかった。

 そして私のことも何も聞かない。それがとても心地よかった。


「あ……」

「どうかしました?」

「……いえその、ナイフ……使われるんだなって」

「皮を剥くだけですよ?」

「……はい。あの、どうか気をつけて。お怪我なさらぬように」


 洗い物を終えフルーツとナイフを手にした私に、急にそんなことを言い出す。


「私、そんなに不器用に見えますか?」

「あ、ちち違うんです! アイシャさんは料理もお上手ですしそのあの!」


 彼は俯いたまま、両手をめちゃくちゃに振って発言を取り消そうとした。必死な仕草が可愛らしくて、口元が緩んでしまう。ちょっと、意地悪だったかも。


「ただその、刃物って簡単に人を傷付けるものだから。アイシャさんには、傷付いてほしくないといいますか……うーん……」

「ふふ、ありがとうございます。気を付けるから、大丈夫」


 よくわからないけれど、私を心配してくれていることは確かなよう。胸の内側に、ふわりと柔らかい温もりが広がった。


「はい……えっ、あっ……いやそんなお礼なんて……」


 猫背をさらに縮めた彼は、困ったように頬を掻く。

 ここ最近の私たちのやりとりは、大体いつもこんな感じ。


「さあ、いいから座ってください」


 彼が来てからというもの、悪夢を見る回数が日に日に減っていた。

 小さな宿舎は、テーブルのあるダイニングに寝室が二つだけ。

 うなされて真夜中に目が覚めたとしても、隣り合った壁の向こうに彼の存在を感じると、なんだか心が安らいですぐ眠りにつくことができた。


 この穏やかな時間が、いつまでも続けばいいのに。そんな風に思えた。

 でも彼が元気を取り戻すにつれて、終わりの予感が近づく。

 すでに、年頃の男女がひとつ屋根の下というのはどうなんじゃろう、なんて話も村人たちの一部で出ているようだった。

 それも、私を心配してくれる声。無視したくはない。


 ──けれど、私は。

 

 みずみずしいフルーツの赤い皮を剥きながら、ちらりと彼のほうを盗み見る。

 村人が、都に行ってもどらない息子のものだと持ってきたシンプルな麻の服を着て、テーブルの向こうで椅子に座りかしこまっている。

 思わず、修道院で世話していた従順な大型犬(ワンちゃん)を思い出したことは、内緒にしておこう。


 ダン ダン!


 そのとき、唐突に玄関の扉を叩く音が響いた。

 ほとんど間を置かず扉が乱暴に開けられ、ガシャガシャと騒音を引き連れて、剣と鎧で武装した兵士たちが室内になだれ込んできた。


「邪魔するぞ」


 尊大な声と共に、左右に避けた兵士たちの真ん中から進み出るのは、貴族然とした華美な衣装の青年。


「ふん、やはり診療所(ここ)だったか。村人ども、隠しだてしおって」


 波打つ金髪を指先に絡めながら、整った容貌を苛立ちで歪める彼を、私は知っている。


「お久しゅうございます、フランシス殿下」


 ──第一王子フランシス。その腰で宝石に飾られた鞘に納まる剣こそ王位継承者の証、真の勇者にしか抜刀できないと云われる聖剣アトリージアだ。


「まさか、村人(だれか)に乱暴を?」

「そんな無粋をするものか。老人どもが元気すぎる時点で、辺境(いなか)に不釣り合いな治癒術士(ヒーラー)がいることは瞭然だろう」


 その自慢げな物言いに、ひとまず胸を撫でおろす。

 彼はとても狡猾だった。優しく温厚な国王はきっと、いまも息子の本性に気付けていないのだろう。


「……で。ご自身が追放した女に、何かご用でしょうか?」


 私は問う。なるべく無表情に、無感情を装って。


「それがなあ。最近、愚弟が要らん知恵をつけて何やら嗅ぎまわっているのさ」


 彼の弟と言えば、第二王子クリストフ殿下だろう。


 私が王都を出たときはまだ十二歳。

 転んで打ったという傷を何度も治療してさしあげたもの。ただ、思慮深くて聡明な彼がそう頻繁に転ぶというのは違和感があった。

 そして彼の傷にはいつも、嗜虐的な悪意の気配がまとわりついていた。


 誰にも内緒にしておくから、ここでは泣いても怒ってもいいと伝えた私に、「聖女さまは何でもお見通しなのですね」と言って浮かべた、どこか陰のある微笑を思い出す。

 その傷をつけていたのが誰か知ったのは、同じ嗜虐の悪意が我が身を襲った夜だった。


 少年(かれ)の微笑から陰を拭えなかったことだけが、王都への心残りだ。


「まあなんだ、いろいろバレて面倒なことになる前に」

「──口封じ、ですか」

「お前はいつも察しがいい。だから好きなんだ」


 その言葉に悪寒が走る。私は片手のフルーツをそっとテーブルに置き、もう一方のナイフを後ろ手で隠し持った。


「しかし、髪は長いほうが合っていたぞ? ──ところで、そのひ弱そうなやつがいまの男か」


 言われたセイルは王子に背を向けたまま、机上に置かれたフルーツを見つめ、黙って座っている。


「ふしだらな聖女さまだ。ま、そのぶん悪くない味だったろう?」


 いやらしく笑いながら、背もたれの真後ろに近寄って囁く。

 

「そのひとは関係ない! 治療中の……ただの……患者さんです」


 絶望で押し潰されそうな胸の奥から、言葉を絞り出した。声が掠れてしまう。でも、私がどうなっても彼だけは。


「どうか気にせず、行ってください」

「ふん、まあいい。特別に見逃してやるから、私の気が変わる前にさっさと──」


 言葉を遮って、セイルは勢いよく立ち上がった。椅子が倒れ、王子は慌てて避ける。


「おい危ないだろ! なんなんだ、口がきけないのか?」


 俯いたままのセイルの顔を、王子は横から覗き込もうとする。

 そのとき(セイル)はくるりと身を翻して王子(そちら)に向き直ると、背筋をぴんと伸ばして顔を真っすぐに上げ──


「彼女を侮辱するな」


 ──今まで聞いたことがない、凛と張った声と共に、いつの間にか手にしていた剣の切っ先を王子の喉元に突き付けていた。


「え? ……え!?」


 王子は目の前の剣の切っ先と、腰にぶら下がった空っぽの鞘と、セイルが手にした黄金の柄を、順に何度も何度も見比べている。


 真の勇者しか抜くことができないはずの聖剣は、ここ百年以上ただの一度もその刃を衆目に晒したことがない。

 ゆえに「抜けじの聖剣(アトリージア)」の二つ名だけが有名で、実際どれほどの名剣か誰も知らず、抜けもしない王位継承者が箔を付けるため帯刀するお飾り(・・・)に成り下がっている。


 ──というお話は、私もよく知っていた。


 その聖剣をセイルは、対峙した王子の腰から、あっさりと引き抜いたのだった。


 けれど私の視線の先は、百年誰の目にも触れなかった美しい白銀の刀身より、それを手にした青年の横顔に釘付けになっていた。

 その美しい鼻梁は、剣よりも鋭く私の胸を刺し貫きそうで。

 揺れる銀の前髪の向こう、瞳の蒼は湖より深くて、呑み込まれたらきっと溺れてしまう。


「きっ貴様ッ、下賤の手で聖剣を汚したなッ! おいお前ら、やれ! 取り返せ!」


 転がるように剣の切っ先から逃れた王子が、兵士たちの後ろに回り込みながら命じる。

 兵士たちはざわつき尻込みするばかり。練度も忠誠心も足りないのだろう。


「はやくしろ! いや、もういい──二人とも殺せ!」


 しかし冷たいその声と共に、尻を蹴られた数人が抜刀して進み出る。

 ああだめ、そんな……


「セイルさん逃げて! あなたに何かあったら、私!」

「ありがとう、アイシャさん。──気をつけるから、大丈夫」


 けれども彼は、さきほど私が返したのとそっくり同じセリフを言って、拾った木の枝でも持つようにだらりと聖剣をぶら下げて待ち受ける。

 そんな自然体のセイルの間合いに兵士たちが入った瞬間、聖剣は閃く。彼らは手にした剣を刃の根元から()()()()()()、首筋に手刀を叩きこまれて、意識を刈り取られていった。


 これは夢だろうか? そう想いながら、セイルの流麗な戦いぶりに呆然と見惚れてしまう。


 続けざまに六人の兵士が床に転がったところで、残る二人は我先にと宿舎の外へ逃げ出していった。

 それを見送ると彼は、テーブルをひらりと飛び越えて私の目の前に降り立つ。──私を守るように、背を向けて。

 

「あ……お行儀悪くて、ごめんなさい」


 小さく囁く声が耳をくすぐる。それがいつもの彼らしい言葉だったぶん、いつもは丸まっていた背中の大きさと共謀して、私の鼓動を早める。


「は、ははっ! 素晴らしいぞ、これがアトリージアの切れ味か……! そのまま持ち帰れば、俺の次期王位は揺るがない……」


 大きな背中越しに、王子の声が聞こえた。視線を移すと、ひとり残された彼の表情はなぜか嬉々と輝いていた。


「来い、出番だ」


 そして頭上に右手を掲げ、パチンと指を鳴らす。


「──お呼びかな、殿下」


 どこからか陰鬱な声が響き、王子の傍らの何もない空中から、黒い液体が滲みだした。

 吐き気を催す異臭を周囲にまき散らしながら、ぼたぼたと滴り落ちるそれは見る間に人型を形成して──まばたきの後、そこに立つのは黒きローブをまとう長身の青年。


 異様に蒼白い肌、作りものめいた美貌。私は、この男のことも知っている。

 呪いで伯爵令嬢を昏睡状態にした、邪教の神官。

 審問会で、それが私との一夜を報酬とする取り引き(・・・・)だと証言した男。


 ──そして処刑されたはずの罪人。


 令嬢に掛けられた呪いは私が三日三晩掛けて解呪した。

 けれど、それこそ自作自演の証だと糾弾したのは令嬢の婚約者──いま神官の隣に立つ王子その人だ。


「ああ、そうだ。薄々感づいていただろうが、神官(こいつ)と俺はグルだ」


 硬直する私を嘲笑う。


 王子は、伯爵家の財力目当てで強引に婚姻話を進めながら、高潔で自立心の強い令嬢を疎んでいた。

 きっと、眠ったままの彼女と挙式でもして、財と美談と自由とを総取りする計画(つもり)だったのだろう。


 自分の欲望を叶えるため、多くのものを踏みにじってきた。

 そしてすべての罪を私に着せ、清算したのだ。

 もしも令嬢(かのじょ)の口添えがなかったら、そのまま私は処刑されていただろう。


「さあ、早くそいつを呪い殺せ! そして聖剣をわが手に!」


 しかし王子の傍らで、神官もまた硬直していた。


「……なぜだ……なぜ……そいつが居る?」

「どうした。その女の口封じだぞ、いるのは当たり前だろう」


 違う。神官の見開いた紅い瞳は、私ではなくセイルを凝視している。


「なぜきさまが、この国にいる! 我らが主たる魔王ゾォル様の仇──忌まわしき『百龍狩り』の勇者セイルディーンッ!」


 震える黒い爪で指さしながら、彼は憎悪に満ちた言葉を投げつける。

 対峙するセイルは、無言で見つめ返すのみ。


 百……龍狩り……勇者? それは私の知るセイルには似合わない、けれど、いま目の前にいるセイルにはこの上なく相応しくも思える二つ名だった。


「……なあ、その『百龍狩り』って、なにかの比喩? まさかそのまんまの意味じゃないだろ?」


 不本意だが、王子のこの疑問には私も興味ある。いくらなんでも、そのまんまの意味ではないだろう。


「いや、字の如し(そのまんま)

「そのまんまか……」


 ……セイルさん、思った以上にすごい人なのかもしれない……。


「だが! これぞ千載一遇よ!」


 神官は胸の前で両手を組み合わせ、呪文(スペル)の詠唱と共に複雑な印を結んでいく。濃密な邪気が、ゆらゆらと陽炎のように揺らめいて見える。

 けれど、セイルが小さく「大丈夫」と言ってくれたから、私はそれを信じよう。


「我が呪力にて勇者を呪い殺す! そして我こそが! 新たな魔王となろうぞッ!」


 叫んで突き出した青白い手のひらに、描かれた紅い目玉の紋様から、凄まじい邪気が吹き付ける。


 ……ゴボッ……


 そして、何かの液体を吐き散らす音が響いた。

 体内より溢れた血で、口の周りから首元まで真っ黒に染めるのは──呪いを放った邪教の神官自身だった。


「……なぜ、呪いが逆流を……グはッ……これは……きさま、ゾォル様の命掛けの冥鏖殺(めいおうさつ)を……最兇の呪いを受けているのか……ッ……!」


 苦しげに胸を押さえ、膝から崩れ落ちつつ神官は言葉を絞り出す。

 呪術はより強い呪術で無効化でき、場合によっては「呪詛返し」となって術者に逆流することもある。

 修道院で治癒魔法(ヒーリング)を学んだとき、師であるシスターが豆知識的に話してくれた記憶が、頭の片隅にあった。


「……いや待て、おかしい……冥鏖殺を受けて、なぜまだ生きている……?」


 口だけでなく目鼻からも黒い液体を垂れ流しながら、神官は問い質す。絶対にありえないことだと言うように。

 その姿を静かに見下ろしながら、セイルは答えた。

 

「──俺には、聖女様(アイシャさん)が付いているから」


 治癒魔法(ヒーリング)を通してなんとなく感じてはいた。

 彼の身体を蝕んでいるのがただの病魔ではなくて、もっと根深く邪悪なものらしいと。

 おそらく、渇きや飢えを凌げたとしても、あのままなら数日と持たず命を落としていただろう。


「そんな、ありえない……あれは人間の治癒術士(ヒーラー)ごときにどうこうできる呪術(しろもの)ではないぞ……」


 根気よく毎日、唱える聖文(スペル)の構成を微調整しながら治癒を施して、ようやく解呪の一歩手前まで抑え込むことができた。

 それがまさか魔王の、しかも最兇の呪いとは思わなかったけれど、意外となんとかなるものだ。

 私の親代わりで治癒魔法(ヒーリング)の師でもあるシスターも、よく言っていた。


 ──()せば、()る。


 もはや神官の姿は、出現したときと同じ黒い液体として床に拡がる水溜りでしかない。

 切り札であろう神官を早々に失った王子は、呆けたように口を半開きにして、足元の水溜り(それ)を見詰めている。


「もう、いいだろう。聖剣(これ)は返すから、早々に立ち去るんだ」


 あまりに憐れな姿に同情してだろうか。セイルは静かに、足元に聖剣を置いた。

 刃を自分に、(もちて)を王子の方に向け。


「ああ、本当にいいのか……それなら、ありがたく……」


 王子は、情けなく這うように近付いて、剣に手をかけた。けれど私にはわかる。この男がそれで素直に引き下がるわけなどない。私は後ろ手のナイフを握りしめる。


「……もらっていくぞ! ついでにきさまらの命もなッ!」


 吐き捨てながら立ち上がり、斬り掛かろうとする。


「えっ、重っ、えっ? 抜く前(さっき)まで軽かったのに……」


 けれど、どうやら剣が予想より重かったようで、もたもたと両手を使いようやく構えた。

 その間にこちらを振り向いたセイルは、私がきつく握りしめる右手に、指先で優しく触れた。


「任せて」


 囁きながら、ぬくもりで解きほぐすように、ゆっくり手の内側に指先を潜り込ませると、私が握るナイフを取り上げる。


「馬鹿め! いかに貴様が『百龍狩り』でもなんでも、そんなナイフで聖剣に敵うものかッ!」


 嘲笑いながら、今度こそ聖剣を上段に振りかぶる。


「いいや。俺の授かった聖剣(・・)のほうが、強い」


 重さに任せて振りおろす聖剣の刃に、セイルが逆手で構えたナイフの横薙ぎは、視界から消える疾さで吸い込まれ──


 ギィィィン


 ──鼓膜を貫く金属音と共に王子の手から離れた聖剣は、放物線を描いて宙を舞い、サクッと床に突き刺さった。


「……くそおおおお!」


 呆然としたのち、王子にあるまじき罵声を発しながら剣に駆け寄って、柄を掴み床から引き抜こうとする。

 しかし、どんなに顔を真っ赤にして力んでも、木製の床に刺さっただけの剣はびくともしなかった。


「ぐぞおおおおおお!」


 無言の私たち二人に向かってもう一度叫んでから、開けっ放しの玄関の方に駆け出す。

 外に転がり出て行くその足元を、ぴーぴー鳴きながら追いかけるオタマジャクシっぽい生物は、黒い水溜りのなかに潜んでいた神官の成れの果て──あるいは真の姿──なのだろう。


「忘れ物だ」


 つかつかと剣に歩み寄ったセイルは、あっさりそれを引き抜くと、玄関の外に向けて真っ直ぐ投擲する。


 …………ヒィッ…………


 少しの間を置き、情けない悲鳴が聞こえた気がした。


 ──ちなみに、これは後から聞いた話。


 飛翔した剣は王子の耳を掠めて飛んで、道端の腰掛け石に、斜めに深々と突き刺さった。

 それで腰を抜かした王子は、這いずりながら必死で村の外を目指す途中で村の子供達に見付かり、「アイシャをいじめるワルモノ」としてたっぷり「おしおき」されたらしい。


 彼の名誉はどうでもいいけれど、「おしおき」の詳細については省くので、だいたい察してくださいませ。


 ──さておき。


 あとは床に転がっている兵士たちを何とかしなくっちゃ。

 そう思ったのとほぼ同時に、彼らのうちの一人が突然むくりと立ち上がる。

 

「……いやあ、ご挨拶が遅れてしまいましたね。お久しぶりです、アイシャさま」


 私に向かって深々と頭を下げた彼の実直そうな顔立ちと、反して飄々とした態度には覚えがある。たしか、伯爵令嬢の従者をしていた青年だ。


「いざとなれば身を捨ててお守りする覚悟だけはしてあったのですが。まあそれなりの武の心得あれば、そのお方の()()()()()は解りますからね」


 私の傍らでちょっと身構えていたセイルにも、目礼する。


「今日のことは、伯爵令嬢(わがあるじ)第二王子(クリストフ)殿下にきっちりお伝えいたします。修道院のことも、お任せください」

「ありがとう。伯爵令嬢(あのこ)──エレノアは元気?」

「ええ。相も変わらずで、我が手には負えません」


 よく覚えている。私が令嬢の昏睡の呪いを解いた直後、部屋の外で隠れるようにして、彼がべちゃべちゃに号泣していたことを。


「ふふ、そうでもないと思うけどな」

「──アイシャさまには敵いませんな」


 彼は昏倒したままの他の兵たちを片っ端から叩き起こすと、落ちた剣やら床の汚れやらをてきぱきと指示して片付けさせ、そのまま引き連れて帰っていった。


「……ふう……」


 見送って、大きく一つ息を吐く。

 そのとき、背後からガタンと音が聞こえる。胸騒ぎに駆られて振り向くと、セイルが片手を床につき、もう一方の手で胸を押さえうずくまっていた。


「セイルさん!? 大丈夫っ!?」


 慌てて駆けより、膝をついて彼の俯いた顔を覗き込む。


「──すこし、疲れました」


 血の気の引いた顔を上げ、彼は力なく応えた。それはそうだ。病み上がりどころか、まだ彼の体のなかには魔王の呪いが残っているのだ。


「ごめんなさい、私のせいで」


 胸を押さえる彼の右手に、私の右手を重ね、治癒魔法(ヒーリング)聖文(スペル)を唇に乗せる。


「どうか謝らないで」


 そうして彼は、自分がここに来るまでのことを、ぽつぽつと話し始めた。

 子供のころから、昔話に語られる勇者に憧れていたこと。

 怪しい老人に弟子入りして剣を学んだこと。


 ──その老人が、かつての勇者だったらしい。


 私も、村を訪れた隊商(キャラバン)の商人から、山脈の向こうにも大きな国があるとは聞いていた。魔物の数はこちらよりずっと多いらしい。


「人々を守りたくて、たくさん戦った。たくさん魔物を殺した。──その挙げ句、王族に疎まれて国を追われた」


 邪神を奉ずる魔王を倒したことさえ、自作自演にされてしまったという。魔王など最初からいなかった。魔物を操っていたのはお前自身だろう、と。


 ──どこかで、聞いたような話だ。


「何もかも馬鹿馬鹿しく思えた。誰かを守るために武器をとるのは、もうやめようと……」


 あてどなく彷徨うなかで、彼の体内に潜伏していた魔王の呪いも、じわじわと全身を蝕んでいく。そうしていつか辿り着いたのが、この村。


「……でもあなたが、また戦う力と理由をくれました。やっぱり俺は、まねごとでもいいから勇者のように、誰かを守るために生きたい」


 床に座って向き合い、吐息の届く距離感で、真っ直ぐ私の目を見て熱っぽく語る彼。

 抱いていた予感が、確信に変わって胸に突き刺さった。

 やっぱり彼は、完治したら行ってしまうのだろう。


 穏やかな──幸せな私の時間は、それで終わるのだ。


「でも…………アイシャさんに断りなく、勝手に決めることはできないから」


 ああ、どうかそんなことを私に委ねないで。

 私の気持ちなんて、もうとっくに決まっているのに。

 

「強く優しいあなたは、きっとそう(さだ)められたひと。したいことを、したいように、思うがまましてください」


 そして私は、自分の気持ちと、セイルに嘘をついた。

 本当はずっとずっとそばにいてほしいのに。


「お見通し、でしたか。けど、本当にそんな身勝手を許して下さるのですか?」

「大丈夫。あなたの望みと私の望みは、一緒です」

「本当に……?」

「はい」


 彼が見開いた蒼い瞳のなか、映った自分(わたし)を無理やり微笑ませて、大きくうなずいた次の瞬間。


「それでは…………いま、ここに誓います」


 言って彼は、彼の右手に重ねていた私の右手を、ぎゅっと握り返す。


「このセイルディーン、いかなる災いが降りかかろうと身命を賭し、あなたのおそばで、あなただけをお守りいたします」


 ……ん? は!? ちょっと待ってこれはどういう状態!?

 

 混乱する私を、彼はもう一方の腕で抱き寄せる。力強くも、その奥に優しさ(きづかい)を感じる抱擁。

 温もりと微かな汗の匂いと、耳元にかかる吐息に呑み込まれそうな意識を、どうにか叩き起こして思考する。


 誰かを守るために生きたい。

 私に断りなく勝手には決められない。

 あなただけをお守りいたします。


 セイルの言葉を反芻して、私は自分の勘違いに気付いてしまった。つまり彼が守りたいのは世界(ひとびと)ではなくアイシャ(わたし)ということ──でいいの? ほんとうに!?


「──誰よりも愛しい、あなたを」

 

 脳内の問いに応えるように囁きながら、握っていた私の右手から離れた彼の指先が、静かに私の顎先(おとがい)に触れる。

 されるがままに横を向くと、目の前にあった彼の顔がさらに接近して、気づいた時には唇と唇が触れ合っていた。 


 ……まま待って、まだいろいろ整理できてなっ……


 私の逡巡に気付いたのか、セイルは慌てて顔を離した。一瞬で遠ざかる柔らかな感触を、追いかけたくなるけどひとまず我慢する。


「ごっごめんなさい……そうだ、そこまで許すとは言われてないのに、俺ときたら調子に乗って……」


 必死に謝るその姿が、やっぱり可愛いなと思ってしまう。というかよく考えたら、したいことを思うがままにして下さいと言ってしまったわけで……。


「いいの」


 だから私は、さらに続きそうな謝罪の言葉を遮るように、人差し指を立てて彼の唇に触れる。柔らかくて、熱かった。


「言ったでしょう。あなたの望みは、私の望みだと」


 嘘として伝えたはずの言葉(それ)は、もう真実になっていた。


「それにね、ほんとは治癒魔法(ヒーリング)って、(こっち)のほうが即効性あるらしいの」


 そしてこれ(・・)はシスターが、大好きなひとにだけ使うようにと教えてくれた、とっておきの魔法(うそ)


 蒼い目をいっぱいに見開く彼の顔に、こんどは私から近付いて、唇を重ねた。

 さっきよりも長く、深く────溺れるように。



 ◇ ◇ ◇



 ──それから一年ほど、穏やかで幸せな日々が流れ。


 ある晴れた日の朝。


「やあ、アイシャさん。今日もいい天気だね」


 道端の腰掛け石に座るおじいさんが、私を見つけて朗らかに声をかけてきた。


「ほんとですね。それに腰の調子も良さそう」

「ああ、セイルくんが力仕事や、村近くの魔物退治をぜんぶ引き受けてくれるおかげさ。あんたらふたりには村のみんなが感謝しとる」


 と、そこまで言ってから彼は、急に何かを思い出した様子でぽんと手を打つ。


「そうそう! 昨日、都から来たって人にあんたらのことを聞かれたよ」


 まさか、懲りもせずまた王子が……? 胸騒ぎがしたけれど、おじいさんが言うには年若い金髪の、礼儀正しい好青年だったという。


 だから私とセイルがいかにお似合いで、仲睦まじく暮らしているかを話して聞かせたのだそう。──まあ、話された内容については、後ほど精査するとして。

 その話を聞いている間、青年の浮かべる微笑みは寂しげで、どことなく陰があったという。


 ──それって。


「じゃあ、僕はこれだけ(・・・・)連れて帰ります」


 話が終わると彼は言って、腰掛け石に突き刺さっていた聖剣をするっと引き抜き、背負っていた空の鞘に納めて去っていったそうだ。

 そういえば(そこ)に突き刺さっていたはずの──噂を聞いて近隣から訪れた力自慢たちも誰ひとりとして抜けなかった──聖剣が、跡形もなく消えていた。


「あれもアイシャさんの知り合いかね? 前に来たチンピラと顔はちょびっとだけ似とった気もするが」


 彼は最後に診療所の方角に深々と礼をして、上げた顔に陰はもうなかったという。


「なんとも晴れやかな、本当にいい笑顔だったよ」


 私の王都での唯一の心残りも、それを聞いて晴れたのだった。


 ふと、遠くから名を呼ばれた気がした。見れば道の先、片腕に水桶を三つと、もう片腕にフルーツ山盛りの籠を抱えたセイルが、満面の笑みを浮かべている。

 きっと、井戸で会った村人からいただいたものだろう。


「大切な友人に優しくしてくださって、ありがとう」


 セイルに手を振り返して、おじいさんには心からの感謝を伝える。ただ、せっかく完治したのだし、腰が抜けてまた悪化させたらいけない。


 ──だから青年(それ)が、きっと未来の国王様だということは、おじいさんには内緒にしておこう。



お読みいただき、ありがとうございます。

よろしければ広告下におすすめ品リンクもございますので、見てってやってくださいませ。


(追記)アンソロから来てくださったみなさま!ありがとうございます!!コミカライズとの違いは、従者と令嬢の下りや、師匠であるシスターのお話あたり。小ネタの多い作りなので、こちらはこちらとして楽しんでいただけましたら幸いです。

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[良い点] 「治せば治る」に笑っちゃいました! チンピラ王子が受けた「おしおき」…ミミズは伏線ですか!?なかなかザマァな想像ができて良かったです(^w^)ププ 会話のすれ違い…バトル描写が光ってたの…
[良い点] セイルさんかっけぇかった……とても好き(^q^) そして読み終えたあとの、この満足感よ……っ! 心から楽しめました!ありがとうございます!
[一言] 第二王子アイシャのこと好きだったのかな…。 などと思いつつ。 おじいさん何者なんだろう…と、ちょっと疑ってました。なんかありそうな気がして。 王子、かけられたのかな…子供だから、泥団子とか投…
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