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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

創作百合短編集

雪解け、夕焼け

作者: 今田椋朗


 隣の芝は青いどころか、私の庭は焼け野原だ。


 だから、私の部屋には、油絵の具、電子ピアノ、バレーボール、未読の小説の山、スケートボード、どれも雪のように積もった埃の下で凍死している。


 すす汚れのように醜い、誇り(自尊心)がそのまま出てきて降り積もったかのように、低いプライドが高いのを自覚していても、ジェンガブロックの下層の柱になってしまって、もう今更抜き取れない。


 三日坊主の部屋。


 どれもこれも中途半端にかじって、身に付く前に投げ出してしまって、投資した小遣いを計算しようものなら、悪寒が胸をかきむしるから、捨てることも出来ず、部屋に寝に戻る度に足枷が増える心持ちで、憂鬱だった。


 だから、私は今日も朝早く起きて身支度もそこそこ、逃げるように登校した。



 団地の敷地内にいつもいる放し飼いの犬は、今日もひとりで朝の散歩中のようだ。首輪はしているが、そもそも私の住む団地は生き物の飼育は禁止されているはずなのに、誰も咎めないのだろうか。


 この犬は妙に利口で、吠えることもなくあちこち汚すこともないから、見過ごされているのかもしれないし、よその犬に構うほど暇な人間が住んでいないのかもしれない。


「……。」

「……。」

 団地を出てすぐ、示し合わしたように、スイレンの無表情な顔が私の視界に入る。


 スイレンの夏服、黒髪のポニーテール、膝丈のスカートなど、どこも校則違反しているところはなく、化粧もしないのに地味に見えないのは、背の高さなのか、運動部特有のオーラか、謎の存在感がある。


 それに対して、私は頭ひとつは背が低く、上っ面を着飾って日々取り繕って、地味過ぎたり派手過ぎたりせず、目立たないように注意していることに、浅ましさを感じていても、やめられない。



 いつからか、ほとんど毎朝、二人は合流して学校へ向かうことが、暗黙の了解同然となっていた。同じ団地、小中高と同じ学校へ通っているから、不自然でもない。

 ここいらの治安は良いとは言えず、不審者の情報もたまに耳にするから、親心を考えるなら、口約束してまですべきかもしれないが、私とスイレンはほとんど会話もなく、行きと帰りの時間を共有していた。


 同い年とはいえ、話題がないのは、二人に共通する興味などがないからだった。

 土日も、私はアルバイト、スイレンは部活動で、接点が少ない。

 スイレンは陸上部で、今は夏だから浅黒い肌だが、冬はその花の名前の通りに白に血を垂らした色になる。

 私には、スイレンが何を考えて年がら年中走っているのかちっとも分からないが、ひたむきに努力する姿には、素直な尊敬や、自己嫌悪に裏返った焦燥感を誘い出されてしまう。


 スイレンは背が高く脚もすらっと長いから、歩幅も広い。

 二人の通学路の歩道のタイルで測るなら、スイレンは四つ、私は三つ。


 駅の改札を通ったとき、電車の到着する騒音を合図に、スイレンは階段を駆け上がった。

 健康的な筋肉のついたふくらはぎから足首にかけての美しい曲線が飛び去っていく。くるぶし丈の靴下はずり落ちる心配はない。

 そもそもスイレンは、ソックタッチみたいなものを知らないだろうし、そんな小細工なんてしないヤツだ。


 階段の隣にあるエスカレーターを使えばいいと毎回思うのに、私はなぜかその曲線の後を追って、体力を消耗していた。

 朝ラッシュ前の空いた電車で、息の乱れた私はドアからすぐに着席した。スイレンは汗一つかくことなく、ドアの前に立つ。

 

 私にはない体力、あるいは継続力。ひがみも自覚しているほどだから、車両反対側の窓ガラスの反射越しに私を見るスイレンの視線は冷ややかに感じてしまう。

 何も続かない、何も目的のないつまらない女だと、言いたげに私を映す、スイレンの切れ長のたれ目。



 学校へ着き、同じクラスだが、スイレンは部活の朝練で、教室とは違う方向の部室へ向かうから、それっきりである。

 スイレンの高い位置のポニーテールに一瞥してから、私は教室で予習しかやることがない。


 運動でだめなら勉強でと、そんな気概もなく、上位者は公開される定期テストの点数を見ても、差は広がらないどころか、少しずつ迫られてきている。


 勉強で明確に上回られてしまったら、もう足に力が入らなくなりそうだが、それでも何の行動も移さない自分はすでに負け犬しぐさを始めている気がして、証明してしまっている気がする。


 朝練を終えたスイレンの制汗剤が私の鼻まで届いた。うなじまで日に焼けている。

 スイレンが着席しなければ、見下ろすことなど出来ない。


 私の肌は季節感のない色をしている。

 私の手や腕の、努力の跡がない細さ。

 私は何の目的もなくのうのうと生きていて、何も考えたくない。

 自分で何も考えなくてもいい犬のように飼われたい。

 きっと楽だ、楽に逃げて、何が悪い?



柚乃(ゆずの)

 授業の合間に、スイレンがプリントを持って来た。

「ここ、教えて」

 抑揚のない、無愛想な言い方だが、スイレンはたまにこうやって私にたずねる。私はスイレンを身勝手に嫌っているが、手足にはなってやってもいい。


 飼われたっていい。

 それはどこか行き場のないエネルギーを持て余しているからなのかもしれない。


「……これはこうだから……こう……。」

 ちょっと押しただけで坂を下って進むボールのように理解していくので、本当に私の力が必要だったのか分からなくなる。

 風でも吹いたなら勝手に歩みを進められそうに感じる。


「ありが」

 言わないよりマシだが、私には感謝の言葉さえ中途半端にすましてもいいのか。

 スイレンの些細な言動にいちいち引っかかる自分が嫌いだ。



 陸上部のスイレンの練習が終わるまで、私は、放課後は教室や図書室で、課題を終わらせたり読書したりして時間を潰す。


 習慣になっているので、時計を見ずとも、肌で日暮れを何となく感じて席を立って、校門に向かううちに、スイレンと鉢合わせる。

 運動後だと感じさせない顔色に、汗一つもなく拭き取られているが、髪の生え際付近だけは新たに汗ばんできていたが、無理もない連日の暑さと湿気だ。

 なぜ、真夏でも走り続けられるのか。


 二人は顔も合わせずに、横に並んだりもせずに、黙って駅に向かう。

 夕方の電車は混み合う。身体の小さい私に、背の高いスイレンは被さるようになることもある。

 向かい合うこともあるし背を向けることもあるが、どちらにせよ視界を支配するスイレンの制服の袖に、余計に息が詰まりそうになる。

 自分の背の低さは少し気にしているが、この時は身長差に助けられている。


 電車を降りて、団地に着くまで、二人はスマートフォンを見たり見なかったり、黙々と歩く。

「……。」

「……。」

 ほとんど目配せ程度で、二人は団地のエレベーターで別れた。

 スイレンが何を考えているか分からないように、自分が何を考えているか分からない。



 



 毎朝、ユズは早起きだが、それはワタシが付き合わせてしまっているからかもしれないと思うと、気分は悪くない。


 団地の二号棟の、ユズの家は五階、ワタシの家は六階。

 小学生の頃は、毎日のように互いの部屋に行き来して遊んだり、たくさんお喋りしたものなのに、中学生になった頃だったか、なぜかユズはどんどん無口になっていった。

 

 ユズのサラサラのセミロングは昔から変わらない、時に羨ましくも思うくらいだが、陰気なのが勿体ない容姿だ。

 ワタシが少し探せば近くにユズがいる、というのは変わらない日常になっている。


 ユズは妙に律儀なところがあって、小気味良い。


 もしかしたら、あの時の借りを返す機会を窺っているのかもしれない。

 中学生くらいの時、ユズはかわいいから、見知らぬ男に襲われそうになったことがある。


 本人は、肩を叩かれて挨拶をされただけと、襲われたことを認めていないが、実際ワタシも見ていたからそれだけだと知っているが、それでもあれはほとんど襲われたと言っていいとワタシは思う。


 なにせ、ユズの外見はかわいい。

 だから、ワタシは男の両足の間を思い切り蹴り上げた。沈んでいる間に、ユズの手首を掴んで引き摺るように、二人で逃げ出した。王子様になってやったことがあるのだ。


 昔の思い出を掘り出すのは、今が満たされていないから、なのだろうか?


 恩着せがましいことは絶対にしたくないが、最近はユズのあまりの愛想の無さに少し腹が立つところもある。

 少し吊り目がちなユズの、内に強く意志を宿したならすぐに反映して、より顔立ちに磨きをかけるだろう目元の曲線は、瞳に虚無をはらんだなら、どんなに精巧な人形でも拭い去れない不気味さに転じる危うさがある。


 呆けて生気のない最近のユズは見るに堪えないから、色を失ってもなお精緻なかんばせを、めちゃくちゃにしてやりたい。


 陰気に拍車をかけるような、少し目にかかる位置に切り揃えられた前髪を短くしてやりたい。

 授業中に使うユズに似合わないダサい眼鏡を粉々にしてやりたい。


 目が悪いのか不機嫌なのか、常に睨むように、まぶたを半分閉じて、本来は愛嬌のある大きい目を台無しにしているユズが腹立たしくて、その白い頬が赤く腫れるまで張り倒したい。


 ユズの、容姿も脳みそも恵まれている割に、無自覚なのか、自尊心の低そうなところが、むかつくし歯がゆくも思う。


「柚乃、ここ、教えて」

 だから、ワタシは気まぐれに頼ってみたりする。軽い先制ジャブのように。


「……これはこうだから……こう……。」

 しょうもない張り合いのないぼそぼそ声。

 教えるのは上手いが、腹からとは言わないから、もう少し口を動かしてみせろ。

 喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「ありが」



 ぼそぼそだとはいえ、ユズの声音は昔とそう変わっていない。

 容姿を見て想像する声と、実際の声が一致するタイプだ。

 はちみつとシナモンを舌の上で転がしているような声。

 昔はその声で、はつらつと喋ってくれるだけで、笑顔になれた。

 細いのど、薄い唇。



 ユズを見ていると暴力的になる気がして、ガス抜きも兼ねて、頭の中が真っ白になるまで、走る、走る、走る。

 陸上は惰性で続けているところもあるが、努力が具体的な数値として表れるから、性に合っている。

 最近は体調も良く、ストップウォッチと睨み合う時間が好きだ。


 軽いジョギングを合間に挟む。高校の周囲を巡る。

 蝉は鳴り止んだが、まだまだ蒸し暑い。こちらの耐久性を試すような青空は、そんな無邪気な好奇心を抱いて、澄み渡っていた。


 郵便局のバイクが、エンジン音を慣らしながら待機している、平和な日常に、このままでもいいや、いつか何とかなるか、などと暢気になる。


 ユズは部活動などやっていないくせに、ワタシの部活動の終わりまで、律儀に待っているらしい。

 もしかしたら、ワタシを利用しているのかもしれないが、どちらでも構わない。


 ユズは華奢だから、夕方の満員電車でトマトみたいに潰されるんじゃないかと、本当に心配するところはある。

 ワタシは調子に乗って、彼氏気取りの壁ドン紛いに守ってやったりするが、ユズは本当に嫌そうな顔を隠しもしない、少し腹が立つのと面白がるのと、両方あった。

 ワタシが男なら、ユズみたいな、華奢で気弱そうな、隙だらけで注意散漫な、何より外見のかわいい獲物を選んで、チカンするだろう。

 自尊心の低さが原因か、変に無防備なところが腹立たしい。ユズの中身はほとんど嫌いになったと言っていい。

 それでいて、庇護欲を簡単にくすぐられて結果的に使われている自分も嫌いでもあり、そういう素直な自分は好きでもある。

 

「……。」

 電車のドアに腕を突き出して体重を支える。

 目線を下げると、ユズのサラサラの頭頂部がある。

 停車や発車の揺れる度にストレートヘアからシャンプーの甘い香りがする。


 ユズは今日は背を向けている。そのままスマートフォンを持てば、ワタシが画面を盗み見放題なのは分かっているようで、ワタシの腕の中でユズはうつむく他に何も出来ることはない。


 いや、ワタシを考えることは出来るはずだ。

 ドア窓のガラスの反射で、ユズの顔の角度は分かる。ユズは今、何を考えている?




 直接聞けばいいのだが、ワタシは話し掛け方を忘れるほどに、ユズから塩対応されていた。

 まれに会話をしようと、

「おはよ」

「……おはよう」棒読み、小声。

「今日は暑さマシじゃない?」

「そう」

「湿度も低いしさ」

「そう」

 この調子である。

 無視されるよりはマシなのか、無視されたほうがはっきりしているのか、どちらがいいか分からなくなる、心が乱れる。

 向こうは、顔パーツは澄まし顔しか付属していない人形のように毎日同じ顔で、朝早いのに簡単な薄い化粧を忘れないようで、つまらない。

 ユズのまつげの長さは自前なのか、信じたくはない。

 持って生まれたくせして、何も持っていないような腑抜けた歩き方をするのが気に入らない。

 表面張力の限界を試すようにあふれる寸前のワタシの器の、最後のダメ出しの一滴が何か分からないが降ってきて、ワタシはあふれ出した。

 まあ、時間の問題だっただろう。


 だから、いつものように団地から駅へ向かう途中、背後からユズの肩を抱くように腕を回して、水筒を握ってよく冷やした手を、首筋に当ててやった。

「ユ~ズ~?」

「にゃっ?!」

 顔を覗き込んだので、能面が崩れるところを見逃さない。まだ首が弱点のようだ、変わらない。

 驚きに満ちた大きい目を全開にして二回ほどこちらを見てまばたきした後、羞恥にまみれたときの口の開度になり、それからいっそう不機嫌に眉間に皺を寄せて睨んで、台無しにした。


 分かってはいても、川に大きな石を投げるときの、投げる直前までのわくわく感に対して、着水して水面がおさまる速度の、あっけなさに似た虚無感がワタシの心に湧いてきた。

 しかし思いの外、かわいい声も聞けてしまったから、溜飲を下げた。


 壊そうと思えば簡単に壊せる。でも、楽しいのは一瞬だけで、余韻が退屈に後を引くから、電車に乗りながら後悔していた。






 最悪。

 嫌いだ。

 もう本当にスイレンが何を考えているか分からない。

 急に触ってくるなんて、小学生の頃じゃあるまいし、しかもまだ私の弱点を覚えているなんて、にくたらしい。

 いとも簡単に、無様に醜態を晒した自分も、嫌いだ。

 当の本人は涼しげに車窓を眺めていて、まるで変わらないいつもの無表情で、意味が分からない。

 心の内で、そのスイレンの横顔を何十回もひっぱたいていたら、学校に着いてしまった。




 授業が終わって、一瞥もくれず部活動に行くスイレンのポニーテールに舌打ちしながら、先に帰ってやろうかと思った。ついぞないことだった。



 ひとりで駅に向かっている途中、同じ高校の男子の制服に囲まれた。

「下級生だよね?そのリボンの色」

「ねえ、名前何ていうの?」

 私は驚きながら、好き放題言う彼らを見上げたが、知らない顔ばかりで、意味が分からない。

 悪寒を背中に感じながら、黙って逃げ出そうとしたが、その内の一人に立ちふさがれる。


「おいおい嫌がってるじゃないか」

「しつこいのは嫌われるぞ?」

「だからお前はモテないんだよ」


 囲まれて中にいるのに、疎外感がある。

 内輪ノリの空気に悪酔いしたかのように気持ちが悪くて、

「学校、忘れ物!あるんで!」

 虚を突いて、尻尾を巻いたように逃げ戻った。



 気付いたときには、いつもの図書室の前で、下駄箱に手をかけながら、肩で息をしていた。

 しばらく、膝が笑っていた。

 

 スイレンがいないだけで、こんなことに……?

 ハンカチを出して、あちこち拭いたが、ひどいこの手汗は、誰も使わないと思っていた図書室の手洗い場で流してから、拭いた。


 ひとりで帰宅することもままならないなんて、悔しくて、怖じ気づいて逃げただけで反撃さえする余裕のなかった自分の弱さ、愚かさに、悔しいとか恥ずかしいとか全て混ぜ合わせた虚無に、押し潰されそうで、許容量を超えた自己嫌悪は、目からあふれた。


 塩辛い味に、泣いていることに気付いて、負の連鎖は止まらない。

 別に、無闇に身体を触られたり、大きい声で威圧されたわけではないのに。

 ただ、ラフに呼び掛けられて、たまたま進路を塞がれる格好になって、囲まれた。

 それだけなのに、怖かった。

 何も出来なくなるくらい、怖かった。

 怖さを見いだしたのは、そういう自分の姿勢だと、理由が自分の中にあると分かっているから、どうしようもなく、怒り、恥、トゲトゲの感情は涙に変換する他なかった。


 絶対にスイレンにばれたくないから、目を腫らさないように、さめざめと泣くしかなかった。

 

 しばらく心の内で、あの男子制服たちを、めちゃくちゃに殴って、落ち着いてきたら、お腹がすいた。

 購買に寄って自販機で何か選んで、校門に向かったら、だいたいちょうどスイレンと合流する時間になりそうだ。


 気まぐれに、あったか~いココアを二つ購入した。

 図書室の冷房と冷や汗で鳥肌が立っていたからだ。

 冬場は人気で売り切れがちだが、夏にホット飲料は売れないのだろうが、一台だけ、年中ラインナップの変わらない自販機がある。

 缶を両手に持ちながら校門を見ると、もう制服のスイレンはいたが、大学生風の人影も見えた。


 近付くにつれ、口論が聞こえる。


「だから、ワタシはこのあと予定が」

 あまり聞いたことのない質のスイレンの声音だ。

「つれないな、ほんの少しの時間だって、言ってるじゃないか」

 若い男の声だ。


 既視感。今日は私もスイレンも厄日だったらしい。

 私は自分の口角の上がることに気付かずに、様子を見たが、大学生風がスイレンの手首を掴んだとき、私の視界に火花が舞って、二人の間に飛び込んだ。


「えっユズ?!」

「うん?どなた?」

「んん!」

 手にココアの缶があったので、それで大学生風の急所を殴って、殴って、男子制服が重なり、

「ウグォ…………」

膝から崩れ落ちる姿に、あの時の見知らぬ男が重なった。



 突然あらわれた私に動揺を隠せないスイレンの手首を、あの時みたいに掴んで、

「いくよ!」

駅まで二人で走ったが、途中から私が引っ張られていて、

「ユズ、遅い!」

格好つかなくてむかついた。






 満員電車に二人は飛び乗ったが、ユズはなかなか息が整わない。学校から走って息のつく暇もなく、息苦しい満員電車に乗っているものだから、無理もないが、話し掛けるタイミングは失われた。


 今日はユズはドアを背にして、ワタシと向かい合っている。腕の中というよりは胸の中といったほうが、面白い。

 ユズの乱れた前髪から覗く、胸を焦がす長いまつげに彩られた、かわいいまぶたが若干腫れているのは気のせいだろうか?


 また何かくすぐられたワタシは、自分の胸に顔を沈めるように、ユズの後頭部に手を回して、近寄せた。

 たわむれに抱かれることに、拒否を示すかと思ったのに、案外素直にされるがままで、ユズは電車を降りるまで胸中におさまったのには、拍子抜けだった。

 ココアの缶で両手がふさがっていたからかもしれない。

 暴力的なユズを初めて見たのだった。


 駅から団地まで二人は無言だったが、団地の敷地内に入って、さすがに黙っている訳にはいかなかった。


「これ……。」

 ココアを差し出すユズの姿はとても新鮮に映った。

「ありがとう、……でもこれ、股殴ったやつだよね」

 団地敷地内の公園のブランコの前の柵に腰掛けながら、ワタシはいじわるに返した。

「じゃあ返して」

「いらないとは言ってないじゃん」


 どこからか視線を感じて、二人は辺りを見渡したが、団地の郵便受けの下に、例の犬が座って、黙ってこちらに目を寄越しているのだった。


「…。」

「…。」

ワタシはプルタブを開け、ココアに口付けた。

「え、拭きなよ」

 ユズはカバンからアルコールティッシュを出してくれていたが、噛み合わなかった。

 

「あのさあ、あの人、OB、陸部の」

「そう」

 ユズも、ワタシの隣に腰掛けた。


「まあ悪評はちょっとは聞いてたけど、あそこまでとは、まあ結果的には油断だったかもね」

 スイレンはあんなことがあったのに機嫌良く、歌うように話すものだから、神経の太さに呆れるような、羨ましいような、にくたらしいような。


「で、なに」

 スイレンに反比例して機嫌の悪くなった私は、つい催促するように、睨み付けてしまった。

「ん、ありがとう」

 さらりと言うものだから、手応えを感じなくて、不満だった。

 



 ユズの物欲しそうな顔をひさびさに見た感慨か、ワタシは口付けをプレゼントするべく、こちらに上目遣いを向けるユズの、線の細い顎をつまんで固定して、

「……?」

背中を曲げて、花弁を落とした。

「ん」

 軽く触れたが、ユズの薄い唇はなめらかで、ワタシの乾燥した唇が跳ね返っただけだった。

「な……な……!なにを……!」

 ユズは沸騰したようにみるみる真っ赤に頬を染めて、夕焼けに溶け込むようだった。


 ユズの動揺がこちらに伝染する前に、そっぽ向いて見上げた空は、それは見事な夕焼けに染まっていた。

 きっと、今のユズが溶け出したから、こんなにも鮮やかに見えるのだろう。

 ストロベリーかラズベリーのクリームに彩られた、あの巻層雲のミルフィーユが、ワタシの胸にも広がるようで、それをユズの味ということにしておいた。


 それから、ユズは怒りはじめた。

「意味分からない!もう、……ほんとに、意味分からない……!」

 地団駄を踏むユズも久しぶりに見る。


「ユズも、ちょっと前からずっとそっけなかったじゃん、意味分からないんだけど?」

「それは……というか、スイ、予定があるとか言ってなかった?」

 名前を呼ばれるのも久しぶりだ。

「別に」

 突き放すように言ったが、むろん、ユズとの暗黙の了解のことだとは言えず、ごまかすためだ。


「はあ?」

 凄んでみても、ユズはかわいかった。


「というか、ユズ、ココア好きじゃなかったでしょ?どういうワケ?」

 小学生の頃、ユズがワタシの部屋に遊びに来たとき、母が毎回二人前のココアを出してくれたことを覚えているのだろうか?いつもユズは一口だけ飲んで、残りはワタシが飲んだものだ。

 それにしても、夏にホットココアを選ぶのは、ユズは冷え性とはいえ不自然ではないか。



「別に」

 スイレンの体温を思い出したかったからだと、実は自覚していても、自分にもスイレンにも隠すように、注意深く蓋をした。


「泣いてた?」

 昔から無駄に鋭いスイレンは嫌いだ。

「泣いてない」

 蓋が開きそうになるのを、必死で両手でおさえた。


「目ぇ、腫れてた気がしたんだけど」

「……。」

「姫を泣かしたヤツ、懲らしめてやるから、言いなよ」

 スイレンはよく二人の小学生時代を覚えているようだ。私は今は恥ずかしくて仕方がないが、ごっこ遊びで、スイレンはよく王子様役を買って出たものだ。


「スイなんて番犬よ、王子様を気取るなら、もう少し髪を整えなさい」

 けんもほろろに、ぴしゃりと言ってやったが、無意識につられて、それこそ姫みたいな口調になってしまって、照れ隠しにそっぽを向いた先に、例の犬と目が合った。

 ふと、その例の犬は主のいない盲導犬なのではないかと、柚乃は思い浮かんだ。妙に賢い振る舞いも、そう考えれば腑に落ちる。


 団地の影が、ブランコとその前の柵に腰掛ける二人の影を飲み込んでいって、一つの夜を迎え入れた。


 柚乃はココアを一口だけ飲んで、もう十分といった顔をして、スイレンに缶を手渡した。


 お砂糖たくさんと少しのスパイスで出来てそうな容姿なのに、ユズに量は必要ないらしい。


「捨てておいて」

 飼われたいのか飼いたいのか、柚乃は分からなくなって、試すようだった。


 むろん、スイレンは残りを飲んだ。


「あっ!何してるの!か、間接……!意味分からない!もう嫌い!!」

 団地はとっくに夜闇に沈んでいるのに、まだ少しだけ夕焼けが残っていた。




 次の朝も、何食わぬ顔をして二人は揃って登校したが、湿度は低くなって秋をちらつかせるような天気だった。


「土曜、部活ないから、行くわ」

「バイトあるから、ダメ」

「夕方からでしょ」

「……散らかってるから、ダメ」

「手伝うけど」

「……イヤ」

「じゃあウチ来なよ」

「……。」



 それは二人にとって芸術の秋か、読書の秋か、スポーツの秋かは、まだ分からないが、二人の体温なら雪も解けるだろう。




 ユズ、なに照れてるの?気付いてないと思った?



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