オルベン町③
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汽水域は穏やかな表情を取り戻していた。夕焼けの赤を反射してきらめく水面に、たくさんの船が行き交っている。怒号にも聞こえる漁師達の声は、生き甲斐である海に戻ることができた喜びで満ちた明るい色だ。
「みんな嬉しそうだね」
トカナ広場で腹這いになったシキが、寛いだ様子で漁師達を眺めながら言った。前足をちょいと動かして、皿に盛られた魚のフライを爪で刺しては口に運んでいく。ドラゴンとは思えない綺麗な食べ方に笑いそうになったダリアは、こほん、と咳払いをして誤魔化した。
「この後は夜の漁をするらしい。明かりを点した船を出して、光に寄ってくる魚を獲るんだ。なかなかに美しい光景だから、それを目当てに観光に来る者達も多い」
「火を点けるのか。僕の火を貸してもいいよ? 紫だけどいいかい?」
「漁師達に聞いてみるよ」
ははは、とダリアは笑った。
「ダリア~! シキさ~ん!」
未だに残っている野次馬達の間からユーリアが走ってきた。肩にはマジックバッグをさげている。もうすぐ合流する、という時に躓いて転けかけたユーリアを、シキが尻尾の先で支えた。
「気をつけなよ。こんな場所で転けたら笑われるよ?」
「あ、ありがとうございます……」
尻尾から下りたユーリアが、ぺこりと頭を下げる。それで? とシキは続けた。
「いいのがあったかな? 教えてよ」
「ええ、もちろんですとも!」
そう元気に返して、ユーリアはシキの正面に回ってマジックバッグから布を取り出し、地面に敷いた。その上に、マジックバッグに入れていた大量の本を丁寧に並べていく。
「シキさんが貸してくれた所持済みの本の一覧に載っていないものを全部買ってきました! シリーズ物の小説とか図鑑とか、他にも漁師用の雑誌もです! どうですか?」
軽く50冊は超えているだろう本の山に、シキは満足そうに頷いた。
「いいね。嬉しいよ。だけど……」
ちょんと、山に埋もれそうになっている1冊を爪で示す。
「さすがの僕も、これはできないかな」
「……間違えました」
本の表紙を見たユーリアが、がっくりと項垂れる。タイトルは、初心者にピッタリ! 誰でも簡単、刺繍の全て、だった。
「今回みたいに本を買ってきてもらうことは何度もあったけど、刺繍を薦められたのは初めてだよ」
「す、すみません……。これは返してきます……」
しょんぼりして刺繍の本を山から抜こうとするユーリアを、ちょっと待って、とシキは止めた。
「せっかく買ってきてくれたんだし、もらっておくよ」
「いいのかい?」
呆れ顔でユーリアに視線を送っていたダリアが聞けば、シキはうんと頷いた。
「僕はしないけど、僕の家族がやりたがるかもしれないからね。次に帰る時のお土産にするよ」
「家族……。そうか、家族か」
ダリアは記憶をたどった。〈月虹〉について書かれた書類に記載されていた、人間や獣人族、魔物の名前の一覧。そうそうたる顔触れに、ダリアは少しだけ身震いした。
「君の家族がペリアッド町の近くに住んでいるというのは聞いているが、最近は遠出をしないのだろうか? あそこの果実の美味さは王都一と言われているからね。この町にもぜひ出張販売してほしいものだよ」
「ここしばらくは前みたいに暴れる魔物もいないから、みんなでのんびり収穫してるってセキレイから聞いてるよ。商魂たくましいイニャトに話を持ってけば乗ってくるかもね。それでも王都にだけは極力近寄らないようにしてるけど」
「王都に? なぜだ?」
「シキさん達はエルドレッド隊やサスニエル隊と親しいんでしょう? なのにどうして王都には行かないんですか?」
ダリアが首を傾げれば、本をマジックバッグに片づけていたユーリアが質問を重ねた。
「王都にはほら、貴族達がいるだろう? アシュラン王から無理強いは駄目って言われてはいるけど、それでもどうにか繋がりを持とうとする奴らはどうしても出てくるんだよね。各地を治めてる貴族達は節度を守ってくれてるけど、位が上の馬鹿共ほどしつこいから行かないようにしてるんだよ」
「そ、そうか……」
「大変ですね……」
はあ、とため息をつくシキを見たダリア達が目配せをし合い、これ以上聞いてはいけない、と無言のまま語った。
「ん?」
何かに気づいたように、シキは汽水域から目を逸らした。向いた先にあるのは野次馬の列。大人達の隙間にいる小さな影を見て、シキは軽く尻尾を振った。
「僕に興味があるのかい?」
声をかけられた大人達は、びくりと体を震わせて硬直した。反対に、町の子ども達が目をキラキラさせて列から飛び出してくる。
「あ、あの! 鱗に触ってもいいですか?」
「ぼくしっぽがいい!」
「あたしはね! のってみたい!」
おれもあたしもと、人間獣人族問わずたくさんの子ども達が手を上げた。親達は必死に自分のもとへ引っ張り戻そうとするが、当然言うことを聞きやしない。ふふっとシキは笑った。
「もちろんいいよ。おいで」
シキが言うと、子ども達は親達の制止の手を器用にくぐり抜け、甲高い声を上げながら駆け寄ってきた。ダリアとユーリアが小さな波に呑まれないように場所を空ける。子ども達に群がられたシキは、自慢するかのように翼を大きく広げた。
「ほら、届くかな? 跳んでごらんよ」
シキが言えば、子ども達は翼に向かって両手を上げてピョンピョン跳ねた。
「むりー!」
「とどかなーい!」
「そうか。じゃあこうしてあげよう」
そう答えたシキは、広げた翼をゆっくり子ども達に下ろした。布に覆われたように紫の皮膜で世界から遮断された子ども達がきゃっきゃと笑う。穏やかに微笑むシキを見て、今度は大人達が恐る恐る近づいてきた。
「あの、私も触ってみていいですか?」
「私も……」
「俺もいいかい?」
「構わないよ。好きにしたらいいさ」
翼を上げて、子ども達を解放したシキはごろんと寝転んだ。我先にと、子ども達がシキの体を触りに行く。地面にぺたりと広げられた翼に乗って飛び跳ねたり、頭を撫でたりとやりたい放題だ。そこに混ざる大人達も、普段ならば触れることはおろか、近づくことすらできないドラゴンの鱗を興味深げに指でなぞっては楽しそうに笑っている。
「凄い光景だな……」
「本当にね……」
ドラゴンに群がる町民達に、ダリア達は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
▷▷▷▷▷▷
その日の夜、汽水域にはたくさんの明かりが点った。いつもならば黄色や白であるが、今晩は淡い紫が水面にきらめいている。トカナ広場にはたくさんの屋台が並び、食欲をそそる匂いがそこかしこから漂ってきて、ダリアは腹を擦った。
「さすがに腹が減ってきたな……」
「何か買ってきましょうか?」
声をかけたのは、見回りを休憩している〈天の光〉のリーダーである。
「いや、さすがにそこまで頼むのは気が引ける。自分で行ってくるよ」
「いえいえ、斧のギルマスはここにいてください。いくら〈月虹〉とはいえ、ドラゴンから目を離したくはないでしょう?」
セイレーンを狩ってくれた恩がある相手と言えど、シキは立派な魔物。目を離すべきではない、と続けるリーダーに、いやぁ、とダリアは苦笑いして、ちらりと横に目を向けた。
「ほら、おさらいだよ。ドラゴンには基本的に?」
「「「「「近づかない!」」」」」
「近づいていいドラゴンは?」
「「「「「胸に神宝石をつけてるドラゴン!」」」」」
「つけてないドラゴンには?」
「「「「「近づかない!」」」」」
「よろしい」
満足げに笑うシキに、子ども達はにっこり笑った。数人の主婦が、屋台の串焼きを大量に買ってきては串を外し、シキの足元にある皿に乗せていく。その都度行われるのは、代金を払おうとするシキと断る主婦達の攻防だ。
「……問題ないとは思うんだがねぇ」
「……まあ、それは私も思いますけど」
すっかり馴染んでしまっているシキに、警戒も何もないだろう、と、ダリアは思った。
結局、夜の漁と宴のような屋台祭りは一晩中続き、空が白み始める頃になってようやくお開きとなった。そこここに落ちたゴミも、一眠りしてから町民総出で片づけることになり、町に静寂が戻った。かと思えば、その30分後には市場が賑わい始め、新鮮な魚を求めて町外の商人達が列を成して現れた。夜の内にユーリアが近隣の町へ魚の水揚げが可能になったと報告していたからだ。
「寝れた気がしない……」
「すまない……。……ふわぁ」
トカナ広場で眠っていたシキが寝足りない様子で言えば、隣でダリアがあくびをした。
「君も寝不足だね。昼寝したら?」
「そうは行かないよ。やらないといけないことはたくさんあるからね」
そう言いながらも、ダリアは2発目のあくびを噛み殺すことができなかった。
「そうかい。僕もそろそろ帰るよ。あんまり縄張りを空けたくないからね」
「何かあるのか?」
「山を1つ挟んだところに違うドラゴンが住み着いてね。そいつが僕の縄張りを狙ってるんだ」
「そうだったのか。それなのに来てくれたんだね。ありがとう」
ダリアが感謝を述べれば、シキはふるふると頭を振った。
「他のきょうだい達と話した結果さ。一番近くにいたのが僕だったからね」
それだけ言うと、シキはおもむろに立ち上がった。
「新しい本もたくさん買ってもらえたし、美味しい魚もいっぱい食べられたし、いいこと尽くしだったよ。今度セキレイ達を誘って遊びにくるね。また魚を食べさせてよ」
「前以て教えてくれると嬉しいよ……。前以て、ね」
トカナ広場で7色のドラゴンがくつろいでいる様子を思い浮かべながら、ダリアは念押しするように言った。
「そうさせてもらうよ。それじゃ、またね」
尻尾を振ったシキが、翼を広げて朝陽が射し始めた空へと飛び立った。群青色の空に紫が溶ける。星が消えていく空をしばらく見上げていたダリアは小さく息を吐き、自身が本来座るべき椅子に帰る為に、穏やかな汽水域に背を向けた。




